夜の淵 ③
最初に当たったのは頬だった。次に当たったのは額だった。だが、頻度が増すことはなく、リズムは常に一定だった。
瞼に欠片のような何かが当たり、俺は目を開いた。檻の中からチャーリーが何かをつまんで投げている。たまたま開いた俺の口の中に、それが入り、土の味がした。舌に乗ったそれをぺっと吐き出した。
体は軽く、難なく起こせるが殴られた影響は残っていたようで、まだ頭はふらつく。「あの野郎、覚えていろよ」と悪態をつくと、隣でチャーリーが笑った。「お前、英語分かるのか」「す、少し」チャーリーは親指と人差し指で小さな丸をつくった。
長い間、気絶していたわけもないらしく、見上げれば密林の地平線に一筋の陽が残っていた。
「お前、あの化け物を知っているんだろ」
チャーリーが頷いた。穏やかな表情をしている。
「あいつ、また来ると思うか」
チャーリーが首振った。否定の意味ではない、本当に分からないのだろう。
「お前も戦っていたんだよな」
チャーリーは頷く。「仲間、たくさん死んだ。あいつは何度も来た」
「何度も」俺は反芻した。
「あいつは、何度も来た。来たとき、頭良くなってた。こっちの戦い方、ばれてた」
チャーリーが口を閉じた。無表情で宿舎を見つめる。日が沈むに連れて広がっていく影の領域にその顔が溶け込み、消えていくようにも見える。
悲鳴が聞こえた。チャーリーが見つめる先、兵士の宿舎からだった。窓から光が漏れている。俺は慌てて立ち上がり、走り出した。
「どうした」
宿舎から、何人か兵士が出てきた。兵士たちを掻き分けて中に入ると、食事時だったのか、各々が、支給された缶詰やスープの入った皿を地面に並べていた。ただ、それらをかき消すほどの異臭が中に立ち込めていた。
宿舎の奥の方に、俺に喧嘩を売って来たバンダナの兵士がいた。中に残っていた兵士たちは彼から距離を置いているが、身じろぎせずにその様子を静観している。
バンダナの兵士は膝立ちになっていた。両手は口に当て、何かを必死に抑え込もうとしていた。
彼の膝元のあたり一帯に黒い液体が広がっている。明らかに血ではない。先ほどから部屋に充満している謎の臭いも、そこが発生源だと思えるほどに強い。
彼は口元を両手で塞いでいるが、咳き込むたびに黒い液体が跳ねて滴り、地面に点を打つ。ひどく充血した眼球でこちらを睨んだ。
「おい、大丈夫か」
一見して、とんでもないことが起きているのが分かるが、近くのいた兵士は常套句のような言葉をかける。そっと手を伸ばし、彼の肩に手を置こうとする。多分、背中をさすってやろうとしているのだろう。
軽く肩に手を置かれて、バンダナの兵士がさらに吐き出した。
もう抑えられないのが見てとれた。彼の両手は決壊し体内から、一体どれほどの量を蓄えていたのか、という勢いで黒い液体を吐き出していく。彼から滝のように溢れ出した液体が音を立てて地面を汚していく。
すべてを吐き切ったのか、ようやく口で呼吸した彼だったが、ほどなく、その場に崩れ落ちた。何度か体を跳ねらせていたが、その動きも止まり、それっきり彼は固まってしまった。
宿舎の中の誰一人として声を発することが出来ない。黒い液体は音も無く広がり続ける。兵士たちは液体を避ける様に後ずさりをする。
「医者はいないのか」
誰かが発した言葉に宿舎から返事は無い。
「無駄だろう。もう死んでいる」
昼間、声をかけてきたスキンヘッドの兵士がバンダナの彼に近寄る。軍靴で床の液溜まりを踏みつける。脚を上げると靴の裏が黒い糸を引いた。
「血じゃなさそうだ」
「そいつ、どうするんだ」
うつ伏せのバンダナの兵士の体が黒い液体にまみれている。こちらを向いた顔の右半分が黒く塗りつぶされ、部屋の照明に反射して鈍く光る。
「外に運び出そう」スキンヘッドの兵士が提案した。
「冗談じゃない」「誰がそいつの体を持つんだ」「そもそも、その黒いのはなんだよ」と兵士が口々に文句をつける。
「じゃあ、どうするんだ。ここは宿舎だ。こいつを、このまま置いたら中で寝れないだろう」
「外で寝ればいい」誰かが口を開く。
「死にたいのか。いつベトナム野郎どもが襲ってくるか分からないんだぞ」
「こんなに臭いところで寝られるわけねえだろう」
「じゃあ、今すぐ出ていけ」スキンヘッドの彼が怒鳴った。外で眠ることに賛同した兵士たちはぞろぞろと宿舎を出ていく。
「おい、オリバー」
残った俺をスキンヘッドがまっすぐ見た。
「こいつを外に運ぶのを手伝ってくれ。それとも、お前も外で寝るか」
断ることもできず、俺は腰を落とす。「俺が肩を持つから、おまえは足首を持ってくれ」とスキンヘッドが言ってくれるのが救いだった。
「持ち上げるぞ、1、2、3」
合図に合わせて軍服の裾を持ち上げたが、両腕に想定していた人体の重みがない。自分が握っているはずの足首が余りに軽い。視線を落とすと、遺体は地面に伏せたままだ。掴んだ足首だけが高い位置にある。
戸惑っていると、正面で同じようにスキンヘッドが困惑していた。彼も遺体の肩のあたりを持ち上げているが、上半身は床にある。お互いに顔を見合わせ、今度は地面に伏せたままの死体を見た。
俺は持っていた部分を落とすと、その場から飛びのいた。転がっていた誰かの水筒で手を洗うとタオルで必死に手を拭いた。
「こいつは」
スキンヘッドが襟から背部にかけてナイフを入れる。軍服が破れバンダナの兵士の背中が露わになると、今度は俺にナイフを手渡す。受け取りベルトから下を裂いていく。股下まで服を破り切ると、ひと息に服を脱がした。残っていた他の兵士が呻き声を上げた。
関節毎に四肢がぶつ切りになり、切り口から真っ黒覆われている。俺が持っていた両足首は落とした時の衝撃であらぬ方向を向いていた。
胴体の前面を黒い液体が浸っている。そこから体に纏わりつくように液体が上っていた。ほんの微妙な変化だが、まるで意思を持っているかのように、体を覆っていく。
「どうなっているんだ」骸骨の刺青を入れた兵士が死体を見下ろす。
あの夜の出来事が思い出される。怪物に食われたであろう、巨躯の男は上半身を丸ごと失い、やはり黒い液体が体に付着していた。
怪物だ。あいつが来た。
「攻撃か」
俺のこぼした呟きがスキンヘッドに拾われる。「ベトナム人か」
「いや、違う。あいつも知らなかった」
「じゃあ、なんだ。どこの新兵器だ」スキンヘッドが俺に詰め寄る。
「俺も知らないんだー」
言い切るか、どうかという時だった。外から叫び声と銃声が聞こえた。
「おい、オリバー、俺とこい」骸骨の刺青の入った兵士から自動小銃を渡される。弾倉を確認する。弾は込められていた。
宿舎の外に出ると、日は沈みきっていた。妙に闇夜が濃く、周囲を見渡せば、小屋ごとに設置されていたはずのランタンに火が灯されていない。濃い闇夜のせいか、銃声と叫び声がより一層明確なものになって刺さる。
「なんだ、何が起きている」
ベースキャンプのそこかしこで、大の男が叫び泣いている。銃声が轟き、さっきまで聞こえていたはずの声の一つ一つを消していく。
息も絶え絶えに兵士の一人が駆け寄って来た。返り血のようなものを浴びている。震えた腕で、俺の両肩を掴む。
「どうした」
「分からない。突然、仲間に撃たれた。あいつら、口から黒い何かを噴き出して。どうしよう、俺、仲間を撃っちまっー」
正面の夜から発火炎が破裂した。俺の肩を掴む兵士の体が弾丸に揺さぶれられ、握力が失われていくのが分かる。目の前の兵士の体が力なく崩れていく。
「危ない」
背後から突き飛ばされ、俺は顎を打った。その頭上を弾丸が空気を切り裂いて飛んでいく。振り返ると、刺青の兵士の体にいくつか穴が開いていた。
「ぐっふっふっ」
宿舎の屋根から低く、くぐもった笑い声がかけられた。だが聞いたことのある声だ。
「また、会ったな。オリバー・レイノルズ一等兵」
聞き取りやすい英語で話しかけられた俺は屋根の上を睨んだ。あの夜の怪物がいた。戦車ほどの大きさもある、ラグビーボールのような黒く蠢く塊がそこにいた。体から生えた六本の脚は昆虫の脚部を想像させる。
「お前は」
怪物の体表に人の顔がいくつも浮かんでいる。彼らの目は黒く澱み、笑っているようにも、悲しんでいるようにも見える。澱んだ目からは黒い涙が流れ、怪物が体を揺らす度に彼らの口から液体が飛び散る。
体表に浮かぶ顔の中に見知った人を見た。あの巨躯の男だ。さっきの聞いたことのある声は、あの男のものだった。
「その男は」
「そうだ。私たちとお前とが初めて会った、あの晩にいただいた男だよ。体が大きいから、食すのにずいぶん時間がかかってしまった」
怪物は巨躯の男の顔を動かして喋り、下品に笑う。
「バンダナの兵士も、お前がやったことか」
「そうだ。昼の間、ジャングルに斥侯に出ていた連中には、種をしこんである。連中は気付いていないようだったがな」
宿舎の中でバンダナの彼が、口から黒い液体を吐き出していた様子が浮かび上がる。服を裂いて露わになった彼の体には黒い液体が纏わりついていた。
「全て、お前がやったことか」
「そうだ。しこんだ種が時間と共にあいつらの体を乗っ取った。同士討ちを誘ったのも、すべては貴様に復讐するためだ」
巨躯の男の声量が増し、次第に感情が込められてくる。空気が僅かに震えはじめた。
「前に言ったはずだ。我々はお前を許さないと。今こそ死んだ同胞の敵を取る、その時だ」
怪物が吠え、男たちが互いに銃を向けあう。闇夜に包まれたベースキャンプに兵士たちの叫びと呻きが上がる。彼らの苦悶を食らい尽くすかのように銃声がベースキャンプに響き渡り、確実に苦悶の数を減らしていった。
俺は刺青の兵士に渡された自動小銃を屋根にむかって構えた。不思議と震えはない。だが引き金に指を掛けるよりも、早く怪物が足を畳み、次の瞬間には空に跳ねていた。
目一杯引いた引き金も虚しく、発射した弾丸は虚空に消えていく。反対に空から怪物が落ちてきた。
怪物が着地した衝撃で吹き飛ばされる。仰向けに倒れた俺の両脇を怪物が掴んだ。持ち上げられ、怪物と正面から相対する。怪物の指が体に食い込み、掴まれた個所から軍服が湿っていく。怪物の体から、しめった臭いが全身に降りかかる。
食われると思った瞬間、横から複数の弾丸が怪物の体を貫き、怪物の体がよろめいた。俺を掴む腕の力が抜け、地面に落ちた。
スキンヘッドの兵士が自動小銃を腰に抱えていた。息が上がっている
「逃げるぞ、走れぇ」
地面で身悶ええている怪物を避け、俺はスキンヘッドの後について、なだらかな坂を上って行く。
「オリバァー・レイノルズゥ」
人とも怪物のものとも取れる怒号がベースキャンプを震わす。背後から聞こえてくる怪物の地面を踏みしめる音に、心臓を鷲掴みにされそうになりながらも足を前に出す。
「どこに行くんだ」
「武器庫だ」スキンヘッドは振り返らずに答えた。
「オリバァー・レイノルズゥ」
怪物の声に振り返る。戦車ほどの怪物の体が宙に舞っていた。こちらに落下しようとしているのも分かる。だが妙に遅い。異様なほどの滞空時間に、時の進みが遅くなったかのような錯覚を覚える。
意識が澄み切っていた。周囲の様子のすべてが事細かに見える。怪物の体表に浮かぶ人の顔の一つ一つが、叫ぶ兵士の声紋の一人一人が、目の前を横切る弾丸に刻まれた施条痕の模様のすべてが見える。
ただ、どれほど意識が鮮明になっても、怪物の落下地点を変えることはできないらしい。むしろ怪物が俺の真上に落ちてくることが、より明確になってしまったことに残酷さすら覚える。
そうか、俺はこいつに押しつぶされて死ぬのかと、思ったところで視界に誰かが走ってくるのが見えた。
チャーリーだ。必死の形相で俺にむかってくる。「あいつ、檻を壊しやがったな」と苦笑する。走り方が野生児そのもので、こいつは今度、走り方を教えてやらねえなと思っていると、瞬く間にチャーリーの姿が大きくなり、そのまま俺に体当たりをくらわした。
チャーリーにぶつかられたことで、俺の意識は寸断される。時の進みは元に戻り、俺はすんでのところで怪物に潰されるのを避けた。
「チャーリー」
怪物が叩きつけた自身の体に、巻き上げられた砂ぼこりにまみれて、体をくの字に折り曲げたチャーリーの姿があった。
「おい、チャーリー。大丈夫か」
チャーリーがにかっと笑った。俺はチャーリーを引っ張り上げる。「助けられたな」と声をかける。チャーリーが「僕も助けられた」と力強く握り返してきた。
「おい、おまえらいちゃついている場合か」
スキンヘッドが丘の上に立っていた。刈り残された草木の上で転がる兵士の遺体を跨ぎ、俺たちも彼に続いて丘を駆けあがる。上官殿の住まいが見え、そこから走り出した上官の姿が見えた。
「上官殿」
上官は地面に転がっていた自動小銃を拾いあげ、こちらに向いた。だが俺たちの姿を見て銃口を下げた。
「君たちか」
「基地は壊滅状態です。兵士たちに士気はありません。上官殿だけでも逃げて下さい」
スキンヘッドの彼の進言に上官は口を閉じた。鋭く、だが感情の伏せられた目で俺たちを順に視線をくれる。
「いや、断る。私はこのキャンプの指令だ。ここを捨てる気持ちはない」
上官が首にかけていた飾りを外した。首飾りに見えた、それから鍵がいくつもぶら下がっているのが見える。上官は鍵束をスキンヘッドに押し付けた。
「武器庫の鍵だ。使いたまえ」
「上官殿は」
「私はここで奴の足止めをする。武器の準備に時間がかかるだろうからな」
言葉がない。沈黙を破って怪物の怒号が耳に届いた。すぐそこまで迫っていた。
「行くぞ、ついてこい」
スキンヘッドが先導し、俺たちも続いた。
「オリバー」
呼び止められ、振り返る。上官がまっすぐに俺を見ていた。
「昼間はすまなかったな」
俺は頷いた。上官殿は満足そうな表情のまま背中を向けた。俺も背中を向け、スキンヘッドたちに追いつくべく走り出す。
背後で上官殿の断末魔が響いたが、振り返ることはしなかった。
武器庫の輪郭がはっきり見え始めると、入り口にスキンヘッドとチャーリーがいるのが分かった。二人とも扉の前で手元に視線を落としている。おそらく鍵束から武器庫の鍵を探しているのだろう。
「オリバァー・レイノルズゥ」
怪物の声がすぐ後ろにまで迫っている。振り返れば捕まるだろう。力の入らない足を必死に前に出す。
「急げ、オリバー」
武器庫の扉が開いていた。扉の隙間からスキンヘッドとチャーリーが手を振っている。
「オリバァー」
怪物の声と共に目の横に真っ黒な腕が伸びてきた。眼前には武器庫から身を乗り出して手を振る二人が見える。怪物の腕が俺の軍服を掴んだとき、俺は服を脱ぎ、地面を蹴った。足元に怪物の腕が見える。地面に足を再び着け、前のめりになる。勢いを殺さず前転して武器庫内に滑り込んだ
俺が入ったのを見て二人が武器庫の扉を力強く閉めた。「オリバー、変わってくれ」と言うスキンヘッドに従って、俺は彼の代わりに扉を抑えつける。外から扉が張り裂けそうなほどの衝撃が体に響く。体勢を崩されそうになっては、必死に持ちこたえる。チャーリーもまた懸命に扉を抑えていた。
スキンヘッドが武器庫の奥に消えていく。中は広くはないが、仲間の姿が減ると心細いものがある。
「まだか。何か強い奴はないのか」
「良いものがあるぞ」スキンヘッドの影がごそごそと何かを漁っている。
武器庫の奥からスキンヘッドが戻って来た。ベルト類を巻き付け、背中に二本のシリンダーが見える。両手で引き金とノズルを抱えていた。
「火炎放射機だ」スキンヘッドの目に輝きが見える。
「オリバァー・レイノルズゥ」
扉から猛烈な衝撃を受け、木くずになった扉と共に俺たちは吹き飛ばされた。破壊された扉の向こうから怪物が姿を表した。俺の姿を見つけ、体表の顔たちがにやりと歪む。
「おい、糞野郎。こっちを見ろ」
火炎放射機を背負ったスキンヘッドがノズルをむけた瞬間、怪物の腕が素早く伸びて彼を掴む。持ち上げられたスキンヘッドは体をよじって抵抗するが、武器庫の外に放り投げられて消えていった。
「オリバァー」
怪物が腕を振り上げた。再び怪物の体を複数の弾丸が貫き、体がよろめいた。チャーリーが銃を構えていた。馴れた手つきで弾倉を入れ替えると、また撃ち始める。怪物がひるみ、その隙をついて俺は怪物に向かって走り出す。
怪物が振り降ろした腕をかいくぐり、武器庫の外に出る。草木の上でスキンヘッドの兵士が見えた。タンクを背に仰向けになっている。スキンヘッドの兵士は俺が近づいても起きない。
俺は彼から装備を引きはがしタンクを背負った。武器庫を見れば怪物がこちらにむかっていた。
「こっちだ。化け物」俺はスキンヘッドから離れるべく走った。
「オリバァー」
怪物が憤怒の声を上げて向かってくる。俺は猪のようにむかってくる怪物に相対して噴射口を構えた。突然、視界が傾いて噴射口が空をむく。足首を掴まれたと分かり下を見れば、地面に髭の兵士がいた。眼窩が黒く凹み、液体が頬を伝っている。下半身がなくなっていた。
「オリバァー」
怒号と共に怪物が体をぶつけてきた。痛みと共に意識を激しく揺さぶられ、体が宙を舞った。すぐに地面に叩きつけられる。背中のシリンダーが破裂し、新たに異臭が交わった。
「お前を食ってやるぞ、オリバァー」
怪物が覆い被さる。湿った臭いが纏わりつく。大量の黒い液体が唾液のように俺の顔にかかる。臭いと液体で息をするのも苦しい。
両手で怪物の体を殴りつけるが、ウォータベッドを叩いているようで、まるで攻撃になっていない。耳に届くのは怪物の笑い声ばかりだ。
足首が怪物の体に飲まれた。靴の中に入り込んだ柔らかい液体が俺の指先をなでまわす。ズボンが湿りはじめ、怪物が脛まで飲みこみ始めた。振り上げたこぶしから力が抜けていく。俺も、この顔の一つになっていくのか。
「おりばー」
下手くそな発音の英語が俺の心を揺さぶる。体をひねらせ、声の主を探す。
チャーリーだ。何かを持って向かって来ている。「おりばー」ともう一度叫んだ。
チャーリーの声に俺は指に力を込める。指で土を削り、爪を立てて食い込ませる。ぱきりと、爪が割れて血が出る。両手で地面を掴み、這いつくばる。
湧き上がる感情に痛みは消え失せていた。地面に張り付く。決して食われてなるものかと、指を地面に深く食い込ませる。
「抵抗は無駄だ。オリバー。お前は我々の一部になるのだ」
チャーリーが近づいてくるに連れて手に持っている物が分かった。鹵獲したソ連製の手りゅう弾だった。
「やれぇ、チャーリー、迷うな。俺ごとやれぇ。」
チャーリーが一度目を閉じ、そして振りかぶったところで動きを止めた。俺が目を見開いて、その様子を見ていると誰かが俺を引っ張り出した。スキンヘッドの兵士だった。俺を抱えて走り出す。
「やれぇ、やっちまえ、ベトナム野郎」
チャーリーが手りゅう弾を放る。ソビエト製の手りゅう弾は華麗に弧を描くと、怪物の体に当たって勢いを失い、燃料の広がった地面に落ちた。
爆発が起きる。瞬時に熱せられた空気が燃料に引火し地面を火柱が走る。
火焔がベースキャンプに立ち上がった。炎の中央で獣がのたうち、いくつも声が折り重なり野太い金属音の叫び声が闇夜に響く。男の声が上がり、女の声が続く。老人や子供の声も混ざる。
火を纏い怪物は暴れる。何もかも破壊しつくそうと怪物は暴れるが、やがて炎が弱まっていくのに合わせて、怪物の動きも弱くなり、やがてその場から動かなくなった。
俺たちは息も絶え絶えにその様子を見ていた。燃えた尽きた亡骸からは煙が漂い、怪物の体だったものは燃え滓となっていた。
深い色の夜空に未だに蠢くものを感じながら、俺たちは空に舞い上がる怪物の残滓を見送っていた。
「これで終わりだよ。この後は夜が明けてな。物資を運びにきたヘリに俺たちは救助された」
ダイナーのカウンターで従業員が眠そうに頬杖をついている。時計を見れば、日付も変わっていた。点滅する店内の裸電球が寂しく見えるのは店内が閑散としているからだろうか。
武田の目の前に座る老人は名残惜しそうに大皿に残った最後のフライドポテトを口に入れた。
「ベトナム人の彼は」
武田はそう言ってコーヒーカップを手に取って、口に運ぶ。冷めきっていたコーヒーだったが、むしろ武田の眠気を覚ますにはちょうどよかった。
「さあな。夜明けと共にジャングルに消えていったよ」
咀嚼しながらオリバーは答えた。その目はダイナーの外にむけられていた。
「スキンヘッドの兵士の、その後は」
「それも知らん。生きていれば、どこかで元気にやっているだろう」
オリバーは肩をすくめた。
「あんた、これからどうするんだ」オリバーは窓のむこうをむいたまま、武田に尋ねる。
「宿泊先のホテルに戻って、話をまとめます。徹夜でしょうね」
武田も肩をすくめて笑った。
「役立ちそうか。あんたの恩人に」
「ええ。役立てて見せます」
オリバーが席をたつ。武田は慌てて立ち上がり、右手を差し出した。オリバーはじっと見ていたが、やがて握手に応じた。
「元気でな」
「ええ。オリバーこそ」
オリバーがダイナーから出ていく。武田は腰を下ろして、取材用の道具を片付け始めた。ボイスレコーダーを止め、何十枚にもなったメモ帳を鞄に入れる。ふと、一枚のメモ用紙が目に入った。伝票だった。走り書きでフライドポテトとコーヒーの値段が表記されている。
「なんだかいやに値段が高くないか」
武田が苦笑する。だが、すぐに」「まあ、安いものか」と小さくこぼす。高揚感に包まれた武田にとって金額は大した問題ではないか。そう思っていた時だった。
外から女性の悲鳴が聞こえた。
ダイナー店内が騒然とする。武田は店の外に視線を巡らす、歩道で誰かが倒れ、二人組の女性がそばで立ちすくんでいる。
武田が店を飛び出す。あとから残っていた客や従業員も出てきた。
「オリバー」さっきまでお喋りしていた男が倒れていた。
武田が駆け寄り、オリバーのうつ伏せの体を起こした。オリバーの口元が震えている。震える手を武田は掴む。指先から体温が失われていくようだ。
「誰か、誰か救急車を」
オリバーの周囲に立つ、従業員がスマートフォンを耳に当てていた。
「いや、もういい」
「しゃべるな、死んじまうぞ」
「俺はもう十分生きた。いいんだ、もう秘密を抱えて生きることに疲れたんだ」
「何を言っているんだ、冗談はやめろよ」
「武田君。俺は罪深い男なんだ。もうー」
「生存者は」
ベースキャンプを見回りに出ていたスキンヘッドの兵士が帰って来た。俺とチャーリーは坂の上で座っていた。怪物の体当たりをもらった影響で、あばらがいくつか折れたらしい。息をすると痺れが走る。
スキンヘッドの兵士が首を振った。チャーリーがうつむく。
「とにかく、生き残れたんだ。それだけを神に感謝しよう」
スキンヘッドも並んで腰を落とす。三人で空を見上げている。
夜空に瞬いていた星々が消えていき、仄かに深い藍色が薄くなってきた。白にも似た水色が東の空から訪れ、次いで剣のように太陽が空にその光を刺していく。
「夜明けだ」
登り始めた朝日が目に眩しく、だがずっと見ていたい気持ちにかられる。隣ではチャーリーとスキンヘッドも同じような表情で太陽を見ていた。
「やったな」
敵であるはずの男と隣に並んで朝日を眺めている。妙な達成感と共に、お腹のそこにこそばゆさを感じた。
「お前、名前は」
俺の問いかけにチャーリーは首を傾げる。
「名前だよ。名前」スキンヘッドも調子に乗っていた。
チャーリーは肩をすくめると、立ち上がった。「もう行くのか」という俺の問いかけに少し頷いた。「そうか」と俺とスキンヘッドは座ったままだ。
「また、おまえとは敵同士だな。なあチャーリー、頼むからー」
俺は自分の目を疑った。密林から黒い腕が伸びてきた。そいつは背後からチャーリーの腹に巻き付いた。チャーリーも自身の体に巻き付いたものに気付いた。
「チャーリー」
俺は叫び、手を伸ばした。チャーリーも手を伸ばす。人差し指がわずかにチャーリーの指をかすめるが、掴むことができない。指が空中でもがき踊った。
チャーリーは驚いた表情を浮かべたまま、密林に吸い込まれた。
怪物の言葉が風の音とともに蘇った。
「われわれは、ぐぶ、われわれだ」
薄れゆく意識をとどめながらオリバーは手を伸ばす。あの日、掴めなかった指が、温かみのある指に触れた。
「レイノルズさん」
武田は必死にオリバーを呼ぶ。武田の手には確かにオリバーの手が握られていた。
「おい、チャーリー。今度は掴んだからよ」
それがオリバーの最期の言葉だった。武田の悲痛な呼びかけは風に吹かれて冬の空に舞い上がっていった。
行き交う人々の流れをぼんやりと武田は眺めている。清潔というよりも無機質さを感じるロビーには一日に何十万人もの客が出入りするらしい。ソファに腰かけていると英語のアナウンスが流れた。武田の耳に入ってはそのまま流れでていく。
外を見れば飛行機が並んでいた。燃料を入れ、食料を積み、時間になれば搭乗員とお客様を載せて大空へと羽ばたく。武田の目には並ぶ飛行機たちが、旅の準備を待ちわびる子供のように映った。
オリバーが刺されてから一週間が経っていた。容疑者の一人だった武田だが、オリバーを刺した凶器は発見されず、ダイナーにいた客の証言もあってすぐに解放された。
結局、オリバーを刺した通り魔は見つからず、数日後オリバーの遺族に請われ、共に葬儀に出席したのち帰路についていた。
いったいどれほどにため息をついたのだろうか。五十嵐裕子がこの様子を見たら「明日は槍が降りますね」と馬鹿にするだろう。切り替えなくてはという気持ちは浮かんでくるが、すぐにまた心の底に沈んでいく。飛行機のチケットを取るのも苦労した。
「ああ、やっぱり」
日本語が耳に届く。武田が顔を上げると、朗らかな表情の壮年の男性がいた。
「武田耀司君ですよね。東経新聞の」
呆けたように武田は見ていたが、すぐに一つの名前が浮かんできた。
「大井川次郎先生、ですか」
男性は嬉しそうに頷いた。「隣に座っても」と大井川は尋ね、武田は了承する。
「久しぶりだね」
「ええ、本当に。もう一年くらいになりますか」
「そうだね。君が取材に来てからそれぐらいになるね」
「今も、研究室に」
「いや、アメリカの研究室に誘われてね。これから乗り換えで、そちらに向かう所なんだ」
大井川は照れくさそうにうつむいた。なんだか秘密を打ち明けた少年のようで武田の心が少し軽くなる。
「先生の専門は菌類でしたよね。何か大きな発見でもあったのでしょうか」
「実を言うとね、まだ僕も知らされていないんだ」
「ええ、そういうことってあるんですか」
「ごくまれに、あるらしいよ。僕も初めてだから迷ってしまってね。妻には怒られるし」
大井川の表情が今度は誇らしげになる。ころころ変わる大井川の表情が楽しく、次はどんなものなるのだろうかと、期待してしまう。
ふと傍に女性が立っているのが目に入った。背が高い。ヒールを履いているせいもあるが、それでも日本人の平均よりかは高いかもしれない。綺麗な金髪は耳が出る程に短く、青い目をしていた。
「そちらの方は」
「ああ、ええとね。こちらはケイトさん。研究所の職員で、僕の迎えに来てくれたんだ」
ケイトは少しだけ頭を下げた。大井川先生が英語を喋れるという話は無かったはずだから、当然この女性が通訳も兼ねているのだろうが、こちらと話す気はないらしい。事務的な態度にアンドロイドかと思ってしまいそうだ。
「武田君は取材ですか」
「ええ、個人的なものですが」
「仕事ではない」
「ええ、少し前に退職しまして。今はフリーです」
「そうか」
大井川はそこで考え込んだ。ケイトが大井川に耳打ちすると、はっとしたように顔を上げた。
「武田君。以前君に教えてもらったメールアドレスはまだ使えるかい」
「ええ。私用のものですよね。使えますよ」
「わかった。ありがとう。もう乗り換えの飛行機も来るからね。今日は会えてよかった」
武田は困惑した。ここ最近、老人に振り回されてばかりだ。亀の甲より年の劫とはよくいったものだと心の裡で思う。
「こちらこそ、会えてよかったです。お元気で」
大井川は手を振ってケイトと共に搭乗口に向かっていく。次第に小さく消えていく背中を武田は見送り、やがて自分の乗るはずの飛行機の発着準備が完了したアナウンスを聞き、急いで別の搭乗口に走った。
数年後、武田は日本で大井川次郎が飛行機事故で死んだことを知る。




