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ダーク・イーター  作者: loveclock
解明編
5/19

夜の淵 ①

あらゆる真実は一度発見されれば理解するのは容易だ。

肝心なのは真実を発見することだ。

―ガリレオ・ガリレイ


 鼻から入って来た空気の匂いに俺の頭は馬鹿になっている。

 あちこちで火の手が上がっている。次いで煙が周囲を満たし、うっそうとした密林と相まって視界は極度に悪い。何が燃えているのかは知らないが、少なくとも気分のいいものではないだろう。

大木の影に伏せて俺は周囲を伺う。ショーンは隣で頭を抱えて震えている。脱糞したらしく新たに臭気が混じり、さらに脳に揺さぶりをかけるが、果たして今の俺はそれを理解できているのだろうか。

「走れぇ」

 俺の背後からこもった怒号が響く。背の高い草木に身を隠していた兵士が立ち上がり駆けだした。空気が連続して破裂する。大木の隆起した根の隙間から除いた先で、素直に号令に従った兵士たちが銃弾を受け、両手を掲げて絶命する背中が目に入った。

 銃声を皮切りにして銃弾が飛び交い始めた。叫びと呻きが上がり、怒号がそれを覆い隠す。誰かが放り投げた手りゅう弾が地面で跳ねて衝撃を生み、土と肉片が空中に舞い上がった。木々の隙間を弾丸が通り抜け、その都度、俺は鼻を地面に擦りつける。

「オリバー」

 呼びかけに振り向けば、ニックが背後で伏せていた。顔はすでに泥だらけで、眼鏡のレンズが片方無くなっている。にもかかわらず興奮しているのか紅潮していた。

「ニック。生きていたか」

 素直に戦友が生きていることに、安心を覚えたが、どうもニックの表情は俺と考えていることが違うように思えた。ニックの視線は俺をとらえているのだろうか。

「お前、まだ正気か」ニックが笑って言った。

「分からない。これが現実なのかどうかも怪しい」

「現実だ。お前も、俺もまだ生きている」

 すぐそばで誰かが叫んだ。反射的に顔を伏せた俺たちの背中を衝撃波がゆすった。瞬間的な無音の後で、土くれが叩きつけるように降り注ぐ。顔を上げると、地面に土まみれた指の欠片が落ちていた。

「お前、まだ死にたくないだろう」

 ニックはそれを拾い上げ、どこかへ弾いた。

「ああ、まっぴらごめんだ」

「だったら話がある。ここから西の方にはまだゲリラ共も展開していないらしい」

 俺はニックが狂っていることを確信した。

「俺がその話を信じるとでも思うか」

 ニックの口角がこれ以上無いくらい持ち上がった。

「ここで戦ってくたばるか、あるいは俺を信用してついてくるか。どちらかだ」

「誰から聞いた話だ」

「上官どもさ。ちょっと前に盗み聞きしてな」

「信じられるか」

「信じられることがここにあると思うのか」

 身を隠した大木に連続して銃弾が撃ちつけられた。いくつか隙間から漏れてヘルメットをかすめる。耳に空気を裂く音が連続する。それだけで理由は十分だった。

「分かった。で、西はどっちだ」

「あっちだ。さあ早く行こうぜ」ニックは西を指さすが、はたしてそれが正しいのか俺には分からない。ただこの場に留まるよりは生きていられる確率が高いと思えた。

 ニックはするりと俺の前方に回り込むと、銃を抱えたまま草木を匍匐姿勢でかき分けるように進む。そのニックの後に着いていこうとする俺の体を何かが止めた。振り返ればショーンが背後から足首を掴んでいた。

「お前たち、に、逃げるっていうのか」

「違う、転進だ。西の方からくるゲリラ共を迎え撃つのさ。そのための準備に向かうんだ」

 振り返ったニックは調子のいいこと並べるが、ショーンの目は震えたままだ。

「違うだろう。逃げるんだろう。俺も連れていってくれよ」

 俺の足首を掴むショーンの力が強くなってきた。

「駄目だ」ニックは冷たく言い放った。

「なんでだよう」

「こんなところで震えているやつの面倒を見るのはごめんだ」

「くそう、くそう、くそう。なんで俺ばっかりがこんな目に合うんだ」

 ショーンの握力が弱くなった。その隙に俺とニックは素早く距離を離した。ショーンはうつむいたまま両手を激しく叩きつけている。

 どうしてもショーンから目が離せない。訓練ではいつもドジばかりを踏み、とばっちりを食らうのは俺たちだったが、だからといって見捨てる気も起きなかった。

 突然、ショーンが顔を上げた。目が合ったと思った次の瞬間にはショーンは立ち上がっていた。

「馬鹿野郎、何を考えている」俺は怒鳴った。

「俺だって逃げるぞ」

 ショーンの語気は俺にも劣らない。伏せていた俺たちに言葉をかけ捨てると、向きを変え味方の方へと走り出した。

「ショーン」

 俺の叫びを無視して走り出したショーンの背中から、血がいくつも噴き出した。撃たれたのだと認識したとき、飛び出そうとした俺の体をニックが押さえつけた。

 撃たれても歩を進めるショーンの背中から容赦なく血が流れ出る。体中から溢れ出した赤い血は軍服を黒く濡らしていく。とうとうショーンはその場に立ち止まり、ゆっくりと膝から落ちた。ショーンは振り返って俺を見た。頬に穴が開き口元から血が溢れ出ている。

「グレネード」

 誰かが叫び、やがて俺たちの頭上をソビエト製の手りゅう弾が優雅に曲線を描く。そいつはショーンの胸にぶつかって勢いを失い股下に落ちた。

「オリバー」ショーンは笑って血を噴いた。

 ショーンの足元から光と衝撃が起きた。赤、黒、灰色と瞬時に視界が塗り替えられていく。

 かろうじてとらえた光景はショーンの右腕が宙を舞っている様子だった。次第に混濁する意識のむこうで、ジャングルにいくつも土煙と火柱があがっていた。


「ちょっと、あんた。ねえ起きてよ」

 カウンターの端で突っ伏した老人の肩をレベッカはゆする。酒の進み具合を見るに危険だなとは思っていた。店から追い出すことも考えたが、老人が店の常連であるらしい、ということもあり、レベッカは老人が酒を要求するたびに渋々注いだ。

 その老人もほんの数分前まえには、とうとうと舟をこぎだしていた。「嘘でしょ」とレベッカが内心で天を仰ぐ暇もなく、骨が抜かれたように老人はカウンターに体を預けた。

 「無駄だよ。オリバーはそうなったら、他人には起こせないからな。自分で起き上がるのを待つしかない」

 店の常連の忠告は無視して老人の肩をゆするが、一向に起き上がる気配はない。せっかくナイトゲームから帰ったオーナー夫妻もこの様子を目にすれば冷や水をかけられた気持ちになるだろう。

 何よりレベッカ自身、オーナー夫婦に良い格好を見せたいという気持ちがあったことは否めない。頼りになる従業員にはよい額の賃金を支払うべきだ。レベッカが下心で老人を起こそうと奮起していると、からんとベルが鳴ってお店のドアが開いたことを知らせた。

 冬の寒風が店内に吹き込む。ダウンジャケットを着こんだ東洋人の男性が立っていた。ネックウォーマーを鼻の上まで上げている。突然の来訪に店の中が静まり返った。

「よう、東の果てからようこそ」誰かが声をかけた。東洋人は曖昧に手を上げて答えた。

 東洋人はネックウォーマーをずらして、入り口の近くに座った小太りの客に声をかけた。客の方はすでに出来上がっているのか、陽気に東洋人の質問に答え、レベッカを見た。

「ベッキー、君に用事があるんだってさ」

 バーがざわめき立つ。冷やかしの声も上がったが、お客たちは大して興味もないのか店内はすぐにいつもの喧噪に戻った。

 レベッカは近づいてくる東洋人を頭から、つま先まで見ていた。着ているジャケットは確かブランドものだったはずだ。髪は短く整えられてあるし背も高い方だ。日本人かなとも思う。悪くないというのがレベッカの初見の感想だった。

 一度目の結婚は失敗したし、今度こそと、レベッカはしなを作って東洋人に熱い視線をおくる。スタイルは悪くないと自負している。スクリーンに映ったこともある。端役だったが。

 東洋人がカウンター席についた。わずかな期待に胸を躍らせてレベッカは声をかけた。さりげなく組んだ腕に胸をのせて大きく見せる。元旦那はこの技に弱かった。

「こんばんは、何を飲みにきたのかしら」

「ええと、呑みに来たわけじゃあー、そうだな。ビールをください」

 レベッカは軽やかにステップを踏んで、ビールサーバーから手早くジョッキに注ぐと、彼のもとに運んだ。

 東洋人は半分まで口にするとジョッキを置いて、軽く息を吐いた。

 あまりお酒が強い方でもないかもしれない。それも悪くないなとレベッカは頬杖をついて見ている。この人は私を遠くに連れていってくれるかしら。退屈な現実という檻から私を助けてくれるかな。

「人を探しているんだ」東洋人の英語は意外にも流暢だった。

 レベッカの胸は高鳴りを抑えられない。男性の唇が艶めかしく動いて見える。

「オリバー・レイノルズっていうんだけど」

 レベッカは瞬間的に入り口のテーブルに座る客を睨んだ。睨まれた小太りの男性は、ウィンクを飛ばす。恋のキューピットのつもりかは知らないが、レベッカの並々ならぬ殺意にジョッキで顔を隠した。

 そもそもレベッカは揶揄われただけなのだが、それ以上に落胆した。うまい話なんてこの世にはない。勝利の女神は、燻っているだけの者には微笑まないとまで考える程になっていた。

「ごめんなさい、私は知らないわ。もしかしたら知っている人が店の中にいるかもしれないけど」

 東洋人は「そうか、ありがとう」と言って笑う。気丈に振る舞う男性がレベッカの目には寂しく映った。

「あんた、オリバーを探しているのかい」

 テーブル席の客が東洋人の肩を叩いた。数分前に入って来たにも関わらず、昔からの友人のような接し方だ。酔ったせいで、そのあたりの境界が曖昧なのだろう。

「ああ、そうだよ。もしかしてー」

「オリバーなら、そこにいるよ」

「え」と東洋人は驚く。レベッカも驚いて思い出した。

「オリバー・レイノルズだろ。カウンターの端っこで寝ている奴がオリバーだよ」親指で指し示した。

 呼ばれたことで目を覚ましたのか老人は顔を上げた。酔っぱらった顔であたりを見回している。「おいおい、起きたぞ」「珍しい、他人に起こされるなんて」「早いな、ベスト更新だ」と外野が大騒ぎしている。

 当の本人は全く意に介していない。オリバーは水を要求し、レベッカからコップを受け取る。乱暴に口をつけるが、コップから水がこぼれることはない。老人の妙技を終始見物していたレベッカたちをよそに、オリバーは水を飲み干すと席を立った。代金をカウンターに残していくと、ふらりとお客をよけて店のドアを押し開けて行った。

「ちょっと待ってください、オリバーさん」

 東洋人の男性は慌て席を立った。オリバーを追いかけようとしたところで、思い出したようにビールの代金をカウンターに置いた。

「ありがとう」と言い残し、男性も店を去った。

 一瞬のうちに吹き止んだ風のようなはすぐさま忘れられ、店はいつもの賑わいに、レベッカは酔っ払いにビールを注ぎ足す仕事に戻っていった。


 最初に当たったのは頬だった。次に当たったのは額だった。やがて頻度は増してゆき、顔といわず全身を打つようになった。

 雨が俺を打つ。唇の隙間を漏れて乾ききった口の中に潤いが流れる。わずかな湿り気を喉が音を立てて飲みこんだとき、俺は鳥の雛のように口を開けて水をせがんだ。

 祈りを超えて雨脚は激しさを増す。やがて口から溢れんばかりの雨水に思わず咽た俺は目を開く。

 夜が広がっていた。熱帯の植物が空を覆い、そして耳に入るのはうっとおしいほどのスコールだった。

 溺れる程に激しい雨から酸素を得ようともがき、そしてスコールが去りかけたところでようやく、呼吸は落ち着いたものになった。

 四肢に力を込める。幸いにして無事のようだった。体を起こすと何かが、ずるりと滑り落ちた。夜目を凝らして見れば、それが辛うじて人だと分かった。

 服をまさぐるとドッグタグが手のなかに滑り込んだ。刻印を指でなぞる。

「N…I…C…H…O…L…A…S、ニック。お前か」

 俺を押さえつけたまま、ショーンの足元に落ちた手りゅう弾をもろにくらったのだろう。

「助かったよ。ニック」

 顔なき相手の瞼を閉じ、両手を組ませると膝立ちになる。

 去っていったスコールの代わりに虫たちが大合唱を始めていた。ここに始めてきた日の夜も、あまりの騒々しさにうんざりさせられたが、あの時とは比べ物にならない。

「どうしたものか」

 夜のジャングルでうかつに動くとは死ぬことだと上官は口をすっぱくしていた。ただ、夜明けまでここでじっとしているのもどうだろうか。あるいは日が昇ったあとで、味方と合流できる可能性はあるのだろうか。

「動くしかないな」

 立ち上がり、わずかばかり馴れた目で周囲を見回す。所々に草木とは異なる影が地面に見える。近づいて腰を落とすと死体だと分かった。

「悪く思うなよ」

 死体に手を突っ込む。大腿のあたりにホルスターを見つけた。留め金を外して拳銃を借りる。弾倉を確認すると弾は込められているようだ。もう少し探りを入れて弾倉を二つ頂戴したところで、耳に何かが届いた。

 虫の声ではない。獣かと思われたが、それにしては弱々しすぎる。そもそも冷静に考えてみれば、戦地に来てから獣らしき姿を見たことは無かった。

 ようやく声の方向を掴めたのは、目が夜になれ始めたころで、暗闇に転がる死体の顔やら服装やらの陰影が視界に浮かび上がっていた。どこから光が届いているのかはっきりしないが、それでも死体の凹凸が分かった。

 拳銃を構えながら、地面を踏みしめ声の方へと近づく。背後でかさりと草が揺れた。俺は素早く振り返り、肩を入れて拳銃を押し出すように構えた。

 するりと足首に何かが纏わりついた。それが足首を掴まれたことだと分かった時には、首に腕を回されていた。拳銃を取り上げられ俺は抵抗する暇もなく、引きずり倒された。そのまま茂みに引っ張られる。

「貴様、なぜここにいる」

 俺の口を押えたまま、暗闇に浮かんだ一対の目玉が迫る。英語だった。フェイスペイントが施されているせいで、目玉だけが闇夜に浮かんで見える。ぼんやりとだが体の輪郭が見える。かなりの巨躯だ。

 友軍だ。巨躯の男を筆頭に十数人はいる。全員の視線が鋭く突き刺してくる。はぐれた部隊と言うわけではなさそうだった。

「名前は」

 巨躯の男は声を潜めるが、微塵も加減が感じられない。友軍に尋問されている気すら覚える。巨躯の男は抑えていた手を離すが、余計な口を利けばすぐにでも絞殺されかねない。

「オリバー・レイノルズ一等兵であります」

「どうしてここに」

「戦場で気を失いました。先刻までここで気絶していたのです」

「間抜け野郎が。貴様の上官は」

「アンドリュー・マイヤーズ殿です」

 部隊のリーダーであろう男は黙った。すぐに副官と思わしき男に相談を始める。俺の処遇を決めかねているのだろう。

 わずかな時間を与えられた俺は部隊の兵士を見ていた。やはり全員が敵意のようなもの俺にむけるが、むしろ緊張か怯えからくるものに近いと感じた。

 その中に、まったく別の意思を持つ両目が浮かんでいた。ベトナム人の男だった。助けを乞うような視線を俺に送る。捕虜の護送か戦地からの帰還か。いずれにしてもこんな時間にと思わざるをえない。

「ベトナム人ですか」俺は尋ねていた。

「貴様には関係ない」部隊のリーダーはぴしゃりと跳ねのけ、手を差し出した。受け取ればコンパスだった。「ここから南に6マイル進めば味方に合流できる」と冷たく言い放った。

「明かりがありません」

「今夜は満月だ、光源には困らん」

 俺を無視して、巨躯の男が指示を出し部隊が行進を始める。ベトナム人は最後まで俺を見るが部隊に引っ張られて行った。

 異変を感じたのは直後だった。

 最後尾を行く部隊員の背中が、地面に吸い込まれるように消えた。

 俺は思わず足元を見た。背丈の低い草が地面を覆うせいで急に覚束なくなる。両足を地面に置いておくことに不安を覚えたが、俺はスーパーマンのように宙に浮くことはできない。

 また目の前で隊員が消えた。今度は叫び声を上げた。

 空気が締め付けられる。なおも沈黙を守る部隊は素早く散開した。先頭の巨躯の男は無音で指示を飛ばし、部下に俺に方へと銃口を向かせる。瞬間、巨躯の男は両腕を上げ、引っ張られるように消えた。情けない声がジャングルに響き渡る。

 あとはもう、どうしようもなかった。リーダーを失った部隊は瓦解し、取り乱した部隊員が誰彼構わず銃を乱射する。叫び声と呻きが上がるが、それを覆うものはない。銃声が飛び交うなか、俺は頭を抱えて地面に伏せた。

 どこの土の味も似たようなものだ。

  

「ミスター、待ってください。ミスターレイノルズ」

 店を出たオリバーを背後から東洋人の男が追いかける。オリバーが立ち止まって振り返ると紺色のダウンジャケットの男が駆け寄って来た。オリバーからみて息子かあるいは孫ぐらいの年齢だろうか。

「こんな時間に旅行者が歩いていても、強盗に合うだけだぞ」

「御忠告感謝します、レイノルズさん。でも、僕が探していたのはあなたです」

 東洋人は笑みを浮かべ握手を求めてくる。怪訝な表情でオリバーはそれを見ている。握手に応じるつもりはなかった。

「あんた、名前は」

「失礼しました、武田耀司といいます」

 夜風が二人に強くあたる。寒かったのか、武田は握手を求めた手をポケットに引っ込ませた。立ち止まる二人を橙色の街灯が寂しく照らす。

「日本人か」

「ええ、そうです」

「日本人が俺に何の用だ」

「あなたにお話を聞きに来ました」 

「あんた、俺が誰か分かっているんだろう」

「ええ。オリバー・レイノルズさんですよね。ベトナム戦争の帰還兵。負傷したベトナム兵と共に闇夜のジャングルを生き抜いたと聞いています」

「そうだよ。よく知っているじゃないか。それ以上のことはないんだ。もう十分だろ」

 オリバーはまた夜道を歩き始めた。車の通りが無ければ人通りもなく、見失うことはないだろうが、これは一筋縄ではいかないぞと武田は後を追う。

「ちょっと待ってください」

「なんだよ。他の事はウィキペディアにでも載っているだろう」

「そんな馬鹿な」

「とにかく、あんたとする話はない。帰ってくれ」

「あなたが怪物と戦ったことを知っています。」

 オリバーは足を止めない。酔いは残っていたが面倒な日本人から離れたかった。

「ベトナムであなたがベトナム人兵士を救った話は嘘だ。本当の出来事を隠すために作られたカバーストーリーにすぎない。耳に心地の良い話を聞かせて、誤魔化すための話です」

「訳の分からないことを言うな。それとも俺に、いちゃもんをつけるつもりか」

「あなたは、ベトナムの密林で怪物と戦って生き残った。それが真実です。僕はそれを聞きに来たんです」

「それこそ嘘だ。俺は確かにー」

「恩人を助けたいのです」

 オリバーは足を止めた。武田の足音が耳に届く。

「僕の命を救ってくれた恩人は今もなお、一人で闘っています。僕は彼の助けにならなければならない」

「あんた、いったい何の話を」

「僕はー、いや俺はレイノルズさんが戦った怪物と同じものに遭遇しています。俺はその怪物に喰われそうになったところを彼に助けられた」

「世田話はよそでやってくれ」

「もうこれ以上、犠牲者を増やしてはいけない。手を伸ばして救える命があるのなら、俺は諦めたくはない、いや諦めてはいけないんです」

 再三振り返ったオリバーのすぐ後ろに武田の姿があった。武田のまっすぐな瞳がオリバーを射捉える。オリバーの瞼の裏に、あの夜、共に戦ったベトナム人の顔がよぎり、武田の顔にぼやけて重なった。彼もまた誰かの助けになりたかったのだろうか。

「あんたは、いま自分で、俺がベトナム人を助けたのは嘘だと言ったな。それを否定するのか」

「さっき口にしたことはでまかせです。あなたの名誉を傷つけたのなら謝罪します。ただ、僕も詳しいことは知りません。だからあなたに会いに来たんです。真実を知るために」

 オリバーは空を見上げた。町の明かりに負けて、ごくわずかに星が瞬いている。ベトナムの空はこの比ではなかった。この空もベトナムまで繋がっているのだろうなと思ったところで頭を振った。それは俺の性分ではない。

「腹が減ったな」

「は」オリバーの意図が読めず、武田は戸惑った。

「あそこに構えている店が見えるか。店員の対応はまあ、それなりだが、フライドポテトが旨くてな。呑みに行った帰りには必ず立ち寄ることにしている」

 オリバーが指さした先にダイナーが見えた。店を彩る派手な電飾はさながら、誘蛾灯のように客を誘い、今まさに二人の男がダイナーの店内に入って行こうとしていた。


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