表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ダーク・イーター  作者: loveclock
邂逅編
4/19

インタールードA

 バスは空いていた。

 停留所の時刻表によると次に来るバスはもう翌日になるらしい。乗り遅れでもしたら大変だとわたしは、すでにバスに乗っていた。停留所の周りにお店などが見当たらず、時間を持て余していたのも事実だ。

 空いていた、というと他にも乗客はいるのだと思われるが、結局バスの発車時刻が近づいても、わたし以外に乗客は現れなかった。バスはエンジンが入ると一度大きく息を吐きだし、唸り声を上げながら走り出した。

 大分、秋めいてきたなと、わたしは車窓の外に広がる風景を見ている。木々の緑色の中に模様のように赤黄色が混じっている。視線の届く範囲で地面はまだ元気な色を保っているが、一月もすれば落ち葉があたり一帯を覆うのだろう。

 バスのエンジンの音だけが耳に届く。午後の温かみのある日差しがわたしに降りかかる。単調なリズムのバスの揺れが心地よく、わたしは連日の疲れもあって微睡んでいた。

 目的地は終点だから、それまでには目が覚めているだろうと瞼を閉じた。


「あきらめるなよ。伝え続けるんだ」

 それが武田耀司先輩の口癖だった。

 大学のオカルト同好会の同志で会社の先輩でもあった先輩は誰に相談することもなく、ある日、勤めていた新聞社を退職した。

 わたしは、先輩が去った後も黙々と記事作りを続けていたが、数年して連絡があった。訪れると武田先輩はアパートに住んでいた。どこからか曰くつきの部屋を探し当て、そこに住み始めたらしい。

「このアパートな、出たらしいぜ」

 呆れるわたしをよそに、先輩はにやりと笑った。その後、先輩はオカルト専門の雑誌に時折、名前を載せるようになった。

 彼の記事は未確認生物やUFOあるいは、伝説上の怪物の正体の新説などで、どれも信憑性に欠け、新聞社を辞めてまですることだったのだろうかと、わたしは疑問を抱かずにはいられなかった。

「誰かに気付いてもらうことが重要なのさ」なぜか高笑いを続ける先輩を部屋に残しわたしは職場に戻った。

 凶報を聞いたのは、間も無くのことだった。

 時計の短針が頂点を超えてもなお、近づくに連れて明るさが強くなる。喧騒とサイレンの音が深夜の住宅街に響き渡る。空気中に伝わる熱が人によるものではないと悟ったとき、燃え上がるアパートが目に入った。

 気が動転したわたしはアパートに向かって再び走り出していた。そのわたしを力強く消防士たちが押し止めた。声にならない声を上げながら、わたしは必死に両手を伸ばしていた。


「お客さん」

 声をかけられバスの中でわたしは目覚める。見上げれば車掌が困ったような視線をむけていた。慌てて財布を取り出そうとして、手に汗を掻いていたことに気付く。恥ずかしいやら何やらで、車掌に料金を支払うとバスを飛び出た。

 都内から新幹線で数時間、そこから地元の電鉄とバスを乗り継いで、さらに数時間をかけて地方の町に私は降り立った。

 やはりと言うべきか、この町も寂しい風景が広がる。立ち並ぶ一戸建てと広い道路、背後に広がる山は立派に見えるが、車の通りがなければ人も歩いていない。

 いくつか取材のために地方都市を訪れたが、山沿いに開かれたこの町も例外ではないようだった。道を尋ねようにも、そもそも人が捕まりそうもない。

 恥を忍んでさっきまで乗っていたバスの方を振り返るが、バスの姿は跡形も無かった。手をこまねいているわけにもいかず、町に足を運んだ。

 歩を進めると交番に行きついた。壁や屋根の塗装は剥がれかけ、交番に立つキャラクターの立て看板は風雨に晒され錆び付いている。年季の入った交番とは聞こえはいいが、綺麗に保つだけの維持費すら回されないのだろうかと悲しい気持ちになる。

「ごめんください」

 わたしは交番の入り口に立ち、声をかける。中途半端に開け放たれた扉の奥に誰か見えた。次第に姿は明瞭になり、カップ麺を啜りながら警察官が表れた。

「ふあい、なんふぇすか」

 呆然とするわたしの前で、警察官は相変わらず麺を啜り続ける。ようやく啜る音が止んだと思ったら、カップを傾けて割り箸で残りをかきこんだ。

 警察官が生々しいゲップをその場に吐き出す。「失礼しました」と言った後、すぐに両手を合わせて「ごちそうさまでした」と呟いた。そのまま交番の入り口の横にある蛇口に向かう。ひねって水を出すとカップを洗い始めた。

 何もないはずの空間をわたしは手で払う。よくないものが漂っているような気がした。

「はあー。すいませんね。お昼、まだだったから。大江さん家のおばあちゃんが、急に呼び出すもんだから、事件かって駆けつけたら、ただのぎっくり腰だって。全くそんなことで呼ばないで欲しいよね」

 カップの容器に残った水を払いながら、警察官は観察するようにわたしを見る。不躾な態度があからさますぎ、隠すように体を抱えながら負けずにわたしも警察官をにらみ返した。

「お姉さん、都会の人でしょ。なんだか垢抜けてる」

 わたしよりも年下に見える警察官は、あまり興味もなさそうに口を開く。

「そう。東京から人を探しにきたの」

「へえー、こんな田舎町に。でも普通は役場に行くでしょ。なんでここに」

「歩いていたら、ここに来たのよ」

 彼は笑い声を上げた。「人も歩けば交番にぶつかるってか」

 警察官にしては、うさん臭さがぬぐえない。実は警察官でも何でもない男が制服を着ているだけではないだろうかなどと考えていると、男はカップ麺の容器を交番に投げ入れ、胸ポケットから警察手帳を取り出した。それをわたしの目の前で広げる。

「大内和樹。年は二十三歳。今年、配属になったばかりの新卒でーす」

わたしは警察手帳に映る写真とこの男を見比べる。誇らしげな表情を浮かべる大内の鼻を明かそうとするが間違えようもない。

「俺、こんな性格しているから、よく勘違いされがちでさ。で、誰をお探しかな」

「斎藤明彦と大井川史久って人よ」

 大内は驚いたように目を見開く。指を鳴らすと腕を組んだ。大内の起こす動きの一つ一つがどうにも気に食わない。

「タイミングが悪いね。お姉さん」

「どういう意味かしら」

「あれ、知らないの、飛行機事故。あれに大井川さんの弟が乗っていたって分かって、それについて聞きたいことがあるって東京に行ったばかりだよ」

 五日前、アメリカからの発着便が消息を絶った。その二日後になって、ほとんど千葉よりの太平洋沖に残骸が発見された。生存者の可能性は絶望的だという。

「大井川さん、気の毒にね。居た堪れないよ。本当に」大内は腕を組んだまま俯いた。 

 わたしの胸の中に黒い靄がかかる。長い間忘れようとしていた記憶が脳裏に浮かびあがり、それを抑え込む。軽んじるつもりは毛頭ないが、わたしの中を占めている感情は焦りを生み出す。武田先輩につながる唯一の手掛かりだ。失うわけにはいかない。

「大井川さんは東京にいるのね。じゃあ斎藤明彦さんは」

 大内の眉が下がっている。意外と純情なのかもしれない。

「明彦さんは、町はずれのお屋敷に住んでいるよ。多分、居るはずだし、大通りに出て南に向かえば、お屋敷が見えてくる。ただ、かなりのお爺さんだよ。もう八十近いはずだけど」

「ありがとう。」

 わたしは踵を返す。すると慌てたように、大内は回り込んできた。

「ちょっとまってよ、どうせ暇だから一緒に行ってあげる。でもさ、どうしてその二人なの」

「手紙に書いてあったのよ」

 後日、消失した武田耀司先輩のアパートから遺体が発見された。体格から男性とは判別できたものの、損傷がひどく正確な身元は分からないという。数日たっても武田先輩は見つからず、警察はその部屋に住んでいたという理由だけで死体を武田先輩と発表した。

 釈然としなかった。出火原因も司法解剖の結果すらも新聞記者である、わたし達に公表しなった。取材申請をしたものの通ることは一度として無かった。

 一週間後、形だけの葬儀が執り行われた。少なくともわたしの目にはそう映っていた。武田先輩の親族が涙を流し葬儀が粛々と進行していく横で、わたしは遠巻きにそれを眺めていた。

 その夜の事だった。会社の同期と出席していたが、誰とも話す気がしなかったわたしは独りで真っすぐに家に帰った。自宅の郵便受けに封筒が挟まっていた。

 郵便受けから無理やり引っ張る。宛名も無く住所も何も書いていない。ただ糊付けだけはしっかりしてある。その場で口を破るとメモが出てきた。

「斎藤明彦と、大井川史久に会え」

 みみずがのたくったような汚い、だが忘れるはずのない字でもあった。わたしはその晩、辞職願を書き上げると、翌日上司のデスクに叩きつけた。残った有給休暇を消化する傍ら斎藤と大井川の両氏について、調べるために走りまわった。

 わたしの周りでは人がいなくなってばかりだ。


 斎藤明彦の家はちょっとした高台の上にあった。やや遠目に見えるが、かなりの広さを持った敷地は都内に在れば、そこそこのマンションが建っていただろう。

 大内とは斎藤宅が見えたところで別れた。

「俺、苦手だから。あの雷親父」

 不埒な態度を取るから怒られるのだと溜まっていた感情と共に嫌みを投げつけても、大内は「性格は変えられませんよー」と意も介さず逃げていった。

 ちょっとした坂道を上る。途中で背後からクラクションが鳴らされた。振り返ると白の軽トラから中年男性が顔をのぞかせた。黒く焼けた二の腕がたくましい。

「どちらさんですか」にっと笑うと白い歯が並んで見えた。

「わたし、こういうものでして」

 あらかじめ用意してあった名刺を手渡す。受け取った男性は車を停めて、しげしげと眺めている。

「へー、記者さん。そういえば前にも来たなあ。確か武田さんだっけか。ずいぶん親父と話し込んでいたけど、そうか、あんたも親父に用があるんだな」

 したり顔で、おそらくは斎藤明彦の息子であろう男性は笑った。わたしは曖昧に笑って返す。心の裡では確信を得ていた。

「じゃあ、先に行って話をつけておくよ」男性は勢いよく車を走り出させた。わたしは、軽トラが坂道を上っていく様子を見ている。その姿に白馬とそれに跨る騎手のような錯覚を覚えた。軽トラが完全に登り切り坂の上に姿を消してから、わたしも歩を進めた。

 登り切ると平屋と庭が目に入る。どちらもかなり広い。砂利を敷き詰めた広い庭に無造作に軽トラが停められていた。贅沢すぎる庭の使い方に眩暈を覚えていると、何かに見られている気配があった。茶色い塊が目に入る。

 犬だ。柴犬にも似た犬がわたしを見ている。犬小屋につながれながらも興味があるのか、視線をこちらに向ける。わたしはふらふらと犬小屋のほうに歩み寄った。腰を落としてそっと手を伸ばしても唸り声をあげることはない。伸ばした手を犬の首もとに当てた。柔らく、温かい。

「いい奴だろう」いつのまにか、斎藤の息子が立っていた。

「俺は剛志で、そいつはカエデ」

 わん、と自分の名前を呼ばれてカエデが吠えた。

「カエデ、ですか」両手でカエデを撫でまわす。カエデにも触ってほしいところがあるのか、時々身を捩らせている。

「そう。我が家の名犬。まあ、上がってよ。親父も待っていたらしいさ」

 わたしが手を引くと、カエデは名残惜しそうに鳴いた。「へえ、珍しいな」と飼い主は驚く。カエデに後ろ髪を引かれつつも、わたしと斎藤剛志さんは家の中に入って行く。

「町の青年団は団員に犬を与えるんだ。与える犬は親が出産した子の時もあれば、他の団員の家で取り上げた子を貰うこともある。そうやって絆を深めていくんだ。まあ親父が団長を務めていた頃は名前の最後に号をつけていたらしいけど」

 斎藤家の三和土に上がると、唐突に剛志さんは語りだした。靴を脱いでいると背後にそびえたつ山が見えた。手を止めて見とれてしまったが、家の中に振り返っても、剛志さんは待っていてくれていた。

「号っていうと警察犬の」わたしは取り繕う。

「そうそう。詳しいね。なんでも、初代の青年団の団長が警察犬の立ち上げの関係者だったらしくて、それ以来の慣習みたいなものだったとかな。今じゃもう誰もつけてないけど」

 静かな廊下を剛志さんの後についていく。フローリングから伝わるひんやりとした感覚とは裏腹に、わたしの心臓は熱く早鐘を打っている。いつからか緊張していたらしい。取材のときと似たような感覚にわたしは困惑した。これは仕事ではない。

 では何なのか、自問するわたしをよそに剛志さんはぐいぐいと進んでいく。止まって欲しいとは思うが、それを口にするのは失礼だろう。そういえば、斎藤明彦さんに対してどう切り口を出すのか考えていなかった。調べるだけで精一杯だった。

「親父は自室にいるよ。まだまだ元気でさ。今日も農作業を午前中に終わらせて先に帰っていたところ」

 剛志さんが部屋の前で止まる。ここが斎藤明彦の部屋なのだと認識する間もなく「親父、入るよ」と剛志さんは襖を引いた。

 部屋には老人が座していた。大内によれば年は八十近いとのことだから、年相応に体は小さく見えるが、太さは微塵も衰えていないように見えた。息子同様に焼けた肌も合わさって幹の太い切り株のようだ。

 若草色の鮮やかな畳に座椅子が一つ。和ダンスとその傍に来客用の座布団が重ねてあった。縁側から日の光が入ってくるおかげで暗さはあまり感じない。

 驚いたのは座卓の上にノートパソコンがあったことだった。パソコンの周りには何かの資料らしきものが整頓されている。斎藤明彦は気難しい性格かもしれないと肝に銘じた。

「座りなさい」

 斎藤明彦に促されるままにわたしは座卓を回り込む。すでに座布団が敷かれてあった。斎藤に正面を向いてわたしは腰を落とした。

 物静かだが、威圧的な人ではないなと思った。若いころは違ったのかもしれない。

「息子によれば取材に来たということだが」斎藤の手元にわたしの名刺があった。

 わたしは息を飲み、今一度、問うべき言葉を頭の中で組み立てた。だが出てきた言葉はそれとはまったく別のものだった。

「武田耀司が消息を絶ちました」

 斎藤は瞼を閉じる。わたしと剛志さんは明彦さんの作り出す空気に身を固くした。

「剛志、席を外してくれるか」

 父親のただならぬ雰囲気を察したのか、剛志さんは静かに襖の向こうに消えた。

「武田君との関係を聞いても」

「会社の先輩と後輩です」

「そうか。それで、どこで俺のことを知ったのか聞いてもいいかな」

 わたしは鞄から封筒を取り出した。中からメモ用紙を取り出して斎藤に見せる。斎藤は机の上の眼鏡を掛けなおした。

「斎藤明彦と大井川史久に会え、か。大井川君は確か東京だったな」

 わたしは頷いた。斎藤はメモを返すと深く息を吐いた。今一度、目を閉じて腕を組んだ。

「教えてください。武田先輩は一体なにをしたんですか、どうしてー」

「敵はー」

 斎藤はわたしを遮って口を開く。

「敵は強大で恐ろしい。そして俺たちの中にも潜んでいる」

 掌に痛みを感じ視線を落とすと両手は固く握り、こぶしを作っていた。爪が食い込んでいるのだろう。

「だからこそ仲間がいる。互いを信用し背中を預けることのできる仲間が」

 斎藤は言葉を切った。そしてわたしの瞳をじっと見据える。わたしの視線も、また斎藤の瞳に吸い込まれる。

「一つ話をしなければならない、そして君はおそらく、後戻りすることは考えないだろう」

 老人は小さく「偶然とは怖いものだな」とこぼした。

「君の名前には聞き覚えがあった。名刺を見た時から、もしやと思っていた。」

 わたしは姿勢をただす。老人は眼鏡を外した。その目は懐かしむように虚空を掴み、だがすぐに険しさへと変わっていった。

「おそらく、君にはお兄さんがいるのでは。五十嵐浩太という名の」

 思いもよらぬ名前を聞き、わたしの体はますます固くなる。

 わたしの名前は五十嵐裕子。十二年前、わたしの兄は交番から姿を消した。わたしは兄を探すために記者になった。

 その手がかりを思わぬ形で手に入れることになった。

「一度だけ彼に会ったことがある」

 斎藤明彦は昔話を始めた。


 もう店を出たいというのが大井川史久の率直な気持ちだった。生まれてこの方、こんなにおしゃれな喫茶店に入ったことはない。若い人ばかりで落ち着かない上に、同年代の人たちも自分よりずいぶん、きまった格好をしている。

 深緑色の女性のような顔が笑ったロゴマークが特徴的な店に大井川はいた。弟の次郎について聞きたいことがあると連絡をうけ、待ち合わせに指定されたのがこの店だった。

 弟の次郎が乗っていた飛行機が連絡を絶ち、その後、千葉県沖で残骸になって発見された。

 ニュースは隙あらば飛行機事故についての報道を続けている。コメンテーターや評論家あるいは、元パイロットなどを集めて、事故の原因追及をしている。彼らの行為に意味があるのだろうか、と大井川は思わずにはいられない。

 当然、大井川にも大勢の報道陣が詰めかけた。警察官という立場ゆえに邪険にすることは難しく、これがしばらくの間、続くのかと思うと辟易させられたが、突然ぱったり止んだ。

 県警の上層部が顔を利かしてくれたのだと同僚は言っていたが、ここまで効果があるものかと大井川は不思議に思いながらも感謝していた。

 次郎について連絡があったのは一昨日のことだった。

 昼過ぎになったところで喫茶店がにわかにざわつき始める。これからがお店のピークなのだなと思うと、コーヒーを一杯注文しただけのお店に対して申し訳なさを思える。そのコーヒーも、もう陶器の見える部分の方が多い。もう一杯注文すべきだろうかと、思案していると隣に誰かが座った。横目に見ればスーツを着ている。短く刈り上げた頭髪から男性だと分かる。

 店内は混み始めている。誰がどこに座ろうかなどと当人の勝手だが、隣に座った人物が、ばさりと音を立てた。視界に隣客の新聞が入ってくる。それが自分の空間を侵略してくるようで、しょうがないことはいえ、気分のいいものではない。大井川が残ったコーヒーを飲みほして立ち上がろうとした時だった。

「待ってください」

 声をかけられたと思った大井川は一瞬、言われた通りに待った。だが、店内に人の数は多い。すぐに自分を呼び止めるものではないと、再び立ち上がろうとしてまた、誰かから呼び止められた。

「待ってください。大井川さん」

 名前を呼ばれて大井川の動きが止まった。

「そのまま、前を見ていてください」

 大井川はそこで横に座って新聞を広げた客が声の正体だと気付いた。

「横を向かないで。そのまま外を見ていてください。なるべく表情は変化させないで」

 空になったカップに罪悪感を少し覚えたが、大井川は声に従った。外の通行人に注視する。忙しなく右から左からと途切れることのない人の流れに往復しているような錯覚すら感じる。

「弟の次郎さんについて話があると、あなたを呼んだのは我々です」

 声の主は馴れているのか落ち着いていた。まるでスパイ映画のようだ。

「どういうことか、お聞きしてもいいですか」

「訳あって正体を明かすことはできません。ただ、あなたの味方であるということは保証できます」

「次郎の身に何が起きたのですか」

「大井川次郎さんはアメリカからの帰国便で墜落事故にあい、非業な最後を遂げました。それは事実です」

 大井川の心に深く言葉が突き刺す。体が重くなった。

「ご冥福をお祈りしたいところですが、そうもいってはいられません。不謹慎なと思われるでしょうから失礼を承知で申し上げます。以前、大井川次郎さんから、国際便で何かを受け取っておられますね」

「いえ、そのようなことはありませんが。勘違いをされているようです」

 揺れる心に、とぼけたふりをするのは苦しい。感情と思考の制御が混じりあいそうになる。

 隣に座る男性は黙った。相変わらず新聞から顔を出さない。

「大井川史久さん。あなたの弟さんのことですが、大学で古生物学の研究をされていたことはご存知ですか」

「ええ、もちろん」

「あなたの弟の次郎さんは数年前からアメリカで研究をなされていました。半年ほど前になって、ひと段落ついたのか、あるいは単純な解雇か分かりませんが、研究所を離れていますね」

「すいません。よく分からないことなので。次郎は昔から一つのことに没頭する性格なので、あまり連絡を取らなかったんです。筆不精ってやつですよ」

「研究所には大抵、情報の秘匿に関する契約条項があるはずです。次郎さんはそれを破って、あなたに何かを郵送したのではありませんか。そのために研究所を追われた」

「そんなことを言われても、私には何も分かりません。私はただの交番勤務の警察官で、もう数年すれば還暦で退職です。仮にあなたの言う通り何かを受け取っていたとして、それで私に何か出来るわけでもない。古生物学なんて文字通りの門外漢、猫に小判と言うやつですよ」

 男性は押し黙る。新聞は一度たりとて捲られることはない。

「そうですね。また何か分かり次第、こちらから連絡を取らせていただきます」

 隣の席で新聞が畳まれた。大井川は素早く横目に盗み見るが、すでに席には誰もいない。背後に気配を感じ、大井川の視線は再び外に向けられた。

「大井川さん。これは好意から言わせてもらうことですが、あなたは狙われています」

「それは」

「我々もまた奴らを監視していますが、完璧ということではありません。彼らは根を深く広く張っています。我々もまた奴らに監視されているのです」

「その奴らというのは」

「まだ、あなたに話すべきことではありません。然るときに知ることになるでしょう」

 背後から気配が消えた。大井川が振り返ると、ごった返した店内が目に飛び込んだ。スーツ姿の客も多い。人ごみに紛れ込み、すでに店を出た後だろう。

 大井川は雑多な店内を眺めている。ふと頬を何かが伝った。持っていたハンカチで拭うが、そのたびに頬を伝う涙の筋が増えてくる。

 大井川史久は店のトイレに駆け込むと、個室に閉じこもり嗚咽をこぼした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ