裏山
「お父さん、電話よ」
地域の青年団を任されていた斎藤明彦のもとに警察から電話がかかって来たのは、陽も既に沈みきった頃だった。静まりかえった居間をよそに、野球のナイター中継で試合がひっくり返ったことをアナウンサーが熱を持って実況していた。
すぐに斎藤家の三和土に副団長を務める三浦と、一人の警察官が姿を表した。警察官は大井川史久といった。表情はすでに疲れ切っている。頬といわず脚や腕にも引っかき傷が見えていた。
「子供が山に入りました。まだ見つかっていません」
三浦は手短に伝えた。斎藤の背後で妻の美恵子が小さく悲鳴を上げた。
斎藤の視線は三浦、大井川と順次に移り、そして斎藤家の開け放たれた玄関から望める山へと注がれる。
「準備をしよう。みんなを集めてくれ。二十分後に公民館だ」
斎藤は山を見据える。山にもまた見られているような気がしてならなかった。
交番に駆け込んできた女性に大井川史久は見惚れていた。女性はかなり息が上がっていた。ほんの少しだけ開いた薄い桃色の唇が大井川の心をざわつかせる。
「あっあの、どうかしましたか」
両手を膝について息をする女性に大井川はおずおずと声をかけた。
夏の傾き始めた日差しが交番に差し込む。蝉の喧噪をよそに女性の荒い呼吸の音だけが大井川の耳に届いていた。
女性が顔をあげる。やや目尻の上がった猫のような大きな目が大井川を捉える。かわいらしさよりも、鋭さあるいは気の強さを感じさせた。それもまた女性が魅力的に映る要素の一つでもあった。
大井川自身、なぜ警察官になれたのか不思議に思うほど気の弱い性格で、恐らくはその性分ゆえに強い印象の女性に惹かれてしまうのではと無自覚にも予感していた。
ただ、その女性は強い印象を与えるだけではなく、実際に強く、大井川は胸倉を掴まれて激しく揺さぶられた。
「なっ何をするんですか」
大井川はどうにか言葉を発するが、逆に舌を噛んでしまわないか不安だった。
「息子を探してください」
女性は決して胸倉を離そうとしない。その両手を掴んで、何とか女性から脱出した大井川だったが、安心して自分が彼女の腕を掴んでいることを改めて気づくと鼓動が早くなるのを感じた。警察官としては実に情けないと心の裡で落ち込んだ。
「落ち着いてください、まず座って。落ちついて話をして下さい」
席を勧めるが、女性は獣と相対するかのように身構える。大井川は内心困り果てていた。
大井川が先に座ってようやく女性も腰かけた。安堵したのも束の間、女性はすぐさま身を乗り出し一寸の隙も与えてなるものかと大井川に口撃を仕掛ける。
「早く、息子を探してください」
大井川は仰け反った。さっきから同じ事の繰り返しで埒が明かない。
「お子さんがどこかへ行ってしまった、ということですか」相手の神経を逆なでしないように慎重に探る。
相変わらず目つきは鋭いものの女性は頷いた。
「お名前を伺ってもよろしいですか」大井川は警官になったことを後悔していた。
「眞島です。眞島秋絵」
「眞島さん。ご住所は」
「三丁目の十二番地です」
大井川は思考を巡らす。眞島の住所一帯は最近できた新興住宅地だった。だとすると外から引っ越してきた一家だ。巡回で何度か訪れたことがあるが、若い夫婦の世帯が多かったはずだ。
「お子さんのお名前を伺っても」
「そんなことより、早くー」
「名前が分からないと探しようもないでしょう」
大井川は怒鳴っていた。眞島が呆気にとられた表情で大井川を見つめる。自分でも驚くほどに声が出た。
「満と言います」
「満君ですね。小学生ですか」
眞島は静かに頷いた。
「お子さんが行くところに心当たりはありますか」
「わかりません」
「普段、友達と遊ぶ場所は」
「わかりません」
「仲のいい友達の家は」
「わかりません」
次第に小さくなる眞島の声に今度は大井川が呆気に取られた。そう広い町でもないから子供が遊ぶところは限られているし、町の大人たちもまた、そうした環境で育ってきたから見当もついている。町に赴任してから大井川も巡回の途中で子供たちがどこで遊んでいるか、日数を重ねているうちに覚えていた。
「満は」眞島が口を開いた。
「満はいつも、学校が終わるとまっすぐに家に帰ってきました。必ず私とお話をしてから、外に遊びに行っていたんです」
「ご自宅に帰っていないということですね」
眞島は頷くだけだった。
「あのですね」ふう、と息を吐いて大井川が一間置く。
「満君も小学生で、まだまだ遊びたい盛りでしょう。友達と寄り道することくらいだってありますよ。何にだって興味を持つ年頃でしょう。きっと何かを追いかけているうちに夢中になっちゃったんじゃありませんか」
大井川は時計に目をやった。まだまだ日が沈むまで余裕はある。これからが夏本番でもあるというのに心配のしすぎではないだろうか。
「でも、山に入ったかもしれないんですよ」
「この町に住んでいれば、大人が口を酸っぱくして、子供たちだけで山に入ってはいけないって教えているはずです」
どうにも納得のいかない人だというのが率直な感想だった。子供が学校から帰ってこないだけで取り乱すが、子供がどこで遊んでいるかは全く知らない。
眞島は俯いて震えている。居たたまれなくなり、大井川は立ちあがった。
「分かりました。とにかく町を回ってみます。眞島さんは交番で待っていてください」
眞島の顔が明るくなる。その表情に大井川の心はまた揺さぶられた。
交番を出て自転車に跨りながら、この仕事には向いていないと思っていた。
地方都市の外れの田舎町に、互いに見知った顔ばかりが住む。近年になって、ようやく大型スーパーの出店が噂されるものの、結局見送られるような小さな町で事件など起こるはずないと大井川は思っていた。
町内を回って聞き込みを繰り返すが、目ぼしい情報があるわけでもない。逆に「眞島さんは心配しすぎだ。そのうち出てくる」と言われる始末である。むしろ事件は派出所で起きるのではと慄いた。手ぶらで戻った大井川に、激高した眞島が暴れだすのではないだろうか。
大井川はそれでも、あちらこちらに顔を出して眞島満のことを尋ねるが成果はない。次第に怒り狂った眞島の姿が現実味を帯びたものになってきた。
何が何でも眞島満本人か、あるいは彼の情報を得なければと、自転車を漕いでいると町の裏山の入り口に小さな集団を見かけた。
「まさかな」思わず口にしていた。
近づくと、何かを囲うように小学生が集まっている。学校からの帰り道の途中だったのだろうか、皆がランドセルを背負っていた。
「なにをしているのかな」普段の調子で大井川は声をかけた。
小学生たちは警官に気付くと散っていった。ただ一人、残った女の子だけは警官に一瞥をくれるとまた、うずくまった。
横から覗く。すると隠すように女の子も横に動いた。
「何をしているのか見せてもらっても、いいかな」
鳴き声がした。素早く反対側に回り込む。女の子が隠していたのは子猫だった。警官に見つかってしまったことに罪悪感を抱いたのか、女の子は泣き出した。
「どうしたの」
「この子がね、呼んでいたの」しゃくりあげながら女の子は答える。
「君を」
顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、女の子は頷いた。
「この子がね、寂しいって泣いていたの。でもわたしのおうちだと、おとうさんとおかあさんが飼っちゃダメっていうの。だからみんなでどうするかってお話してたの」
「そうか、じゃあお巡りさんが一緒に説得してあげるよ」
安心したのか女の子は泣き止んだ。
「ほんとう」
「本当さ。ただし説得してもダメだったときは、お巡りさんが猫ちゃんを預かるけど、いいかな」
女の子は大井川と子猫を交互に見ていたが、両手で顔を拭うと立ち上がった。ハンカチを渡すと、女の子は思い切りよく鼻をかんだ。
「さあ、行こうか」
子猫を抱え残りの空いた手を差し出すが、女の子は動こうとしない。顔を覗き込むと、女の子は口を開いた。
「あのね、友達が帰ってこないの」
「友達」
「そう、みつる君」
眞島秋絵の顔が脳裏をよぎった。
「この子のお兄ちゃんが森に逃げちゃったのを、追いかけて行っちゃたの」
「本当に眞島満君だったのか」
「ええ、大井川さん、ほか県警によって山に入って行ったのが満君本人だと確認が取れたようです」
斎藤は愛犬のクヌギ号を連れ、寄り合い所に向かっていた。
「まず、大井川さんが独りで裏山に入っていったそうですが、捜索しきれる範囲でもなく直ぐに本署に応援を要請したそうです。ところがやってきた応援隊も山には不慣れだったらしくて。こんな時間まで私達に電話の一本も寄越さなかったということです」
早足の斎藤に副団長の三浦が事情を説明する。彼もまた犬を携えていた。彼らの後ろを疲れ気味の大井川警察官がついてくる。
「今の状況は」
「警官達はまだ山に入っています。もっと早く連絡を寄越せば、こんな事態にならずに済んだものを」
「よせ、彼らを悪く言うな」
斎藤たちが歩くペースを緩めると、大井川は小走りに追いついてきた。
「君が最初に眞島少年を探しに入ったということかな」
「はい、そうであります」
呼ばれた大井川は背筋を伸ばすと緊張した面立ちで答えた。
「君は捜索隊に加わらなかったのか」
「事情を説明できる奴がいた方がいいということで、残ってもらいました」
三浦が割って入る。ただ大井川警官には疲労の色が濃く見えた。おそらくは捜索から外されたのだろう。しかして斎藤を見る目に輝きは失われていない。命じられれば、また山に入る気概はあるだろう。
「そうか。急ごう。時間がもったいない」斎藤は微笑した。
大井川に別れを告げて斎藤と三浦は公民館に入って行く。二人の背中を大井川は見ていたが、すぐに踵を返し県警が展開する天幕に向かっていった。
斎藤宅からの連絡を受け、すでに公民館には青年団員が集結していた。皆の表情は冷静だが、視線は臆することはない。その感情が横に座る彼らの犬たちにも伝播し、館内は異様な緊張に包まれていた。
「時間が無いので、簡単に説明する」副団長の三浦が声を荒げた。
「捜索対象は町内に住む小学生男児、名前は眞島満。年齢は十歳。身長は百二十センチメートル前後。最後に姿が目撃されたのは、午後二時三十分から三時の間だ。それから既に五時間近くが経過している。体力の低下が懸念されるので、皆には迅速な行動を求める。これから眞島少年の衣服を配る。」
三浦が列を作る青年団員に衣服を配る。各々が愛犬に匂いを嗅がせ終えたところで、斎藤が立ち上がると皆が注目した。
「みんな聞いてくれ。普段は俺達も仕事のために山に入るが、今回は勝手が違う。完全に山は暗闇に包まれている、俺たちの知っている普段の山とは全くの別物だ。だからこそ改めて、皆には注意してもらいたい。常に声の掛け合いを怠らないでくれ。俺からは以上だ」
斎藤の激が終わると静かに団員達が立ち上がった。
「現場は三人一組で捜索を行う。全員、装備の準備はいいな。出発する」
湧き上がる歓声とともに青年団は公民館を出発した。
警察と彼らの展開する天幕での打ち合わせを終えた斎藤たちだったが、黒々とした大きな口を開ける森に一度足を止めた。風に揺られ、こすれ合う木々の音が呼吸のようにも感じられる。巨大な生き物に呑まれようとしているのだと、団員の誰もが森を見上げた。
先頭に立つ斎藤が歩を進める。一人一人が影の向こう側へと姿を消していった。
「おーい、満君」
団員の誰かが声を上げる。すると、こだまのように誰かが「満君、いるかー」と続く。夜の中を団員たちは声をかけ続ける。鬱蒼とした雑木林は闇に落ち、その木々の姿を見ることもままならない。装備があるとはいえ、ともすれば自分たちが遭難する恐れもあった。
「満君、いるなら返事をしてくれ」
斎藤も声を張り上げる。夜の山に何が出るかは分からない。いくつもの懐中電灯が森を照らす。各々、彼らの傍には相棒とも呼ぶべき犬たちもいる。それでもなお、団員たちの間に緊張が走っていた。
犬たちも飼い主たちからつかず離れずの距離で鼻を利かせる。人の目に限界が見える状況で、これほど頼りになる相棒もいないと改めて安心していた。
「すいません。団長」
斎藤と共に行動していた班の若い団員が突然、口を開く。すぐに彼の相棒が低く唸り声を上げた。明らかに警戒している。
「何だ」
「分かりません。ヒノキ号の様子が」
斎藤の懐中電灯で照らされた彼は犬に引っ張られ、それをどうにか抑えようともがいている。傍で彼の犬が吠え始めている。
「大丈夫か」
「ヒノキ号が急に。おい待て」
瞬間、彼が倒れた。彼の犬を抑えきれなくなったのだろう。すぐ傍で草木をかき分ける音がする。解放された犬が森の奥へと走り出すのが分かった。
「待て、ヒノキ号」若い班員がすぐに立ち上がり、音の方向へと走り出した。
「追いかけるな、そこで待て」
斎藤のけん制も空しく、ヒノキ号を追いかけ若い団員が班を離れた。
「俺が追う。お前は天幕に戻って副団長に報告だ」
斎藤は残った一人に伝えると駆けだした。飛び出した団員は懐中電灯を片手に走っている。追いつくのは容易だが、このままでは眞島少年の捜索もままならない。
「待て」
斎藤が声を張った瞬間、脚が滑った。しくじったと思った時には、もう遅かった。そのまま体勢が傾き、雑木林の急斜面を落ちるように下っていく。
この勢いは止められないと考えを切り替えた。両腕を頭の前で組み、膝を曲げて丸くなった。とにかく怪我だけは避けなければ。
何度も藪に突っ込み体が回転し、世界が上下する。その都度、腹に力を込めて体勢を立て直す。
半ば意識を失いかけ、それでも気付いたときには、坂を下っていた勢いは無くなっていた。
どうやら坂の下に来てしまったらしい。仰向けになり、呼吸を繰り返す。四肢のあちこちに打ち身が出来ているのが分かったが、幸いにして大きな怪我は無いようだった。
しばらく体が動かなかった。「もう年なのだから」と妻の恵美子は言うが、斎藤はこれからも山に入るつもりでいた。だが今の自身の体を見ると、妻の言うことにも素直に従うべきなのかもしれないと思わせた。
ようやく体を起こすことができたが、どれくらい経過しているのか分からなければ、自分の現在地も見当がつかない。
見上げれば、夜空を隠すように木々が揺れている。前後左右の見通しがきかない。果たして、本当に昼間に来ている山と同じのものなのか。
ふと、闇夜に影が走った。そいつは斎藤を中心にぐるりと動いている。こちらの様子をうかがっているのかと気付いたとき、闇に浮かぶそいつの二つの球と視線がぶつかった。
そいつの気配が濃く強くなる。斎藤は身構える。そいつの呼吸が聞こえたとき、斎藤は自然と構えた両腕を降ろしていた。
聞こえてきた荒い吐息は普段から聞きなれたものだった。
「クヌギ号」
斎藤が呼ぶと、暗闇からクヌギ号が姿を表した。クヌギ号は斎藤の目の前で足を止めてから、体を擦り付ける。あまりにもくすぐったく笑ってしまった。
「勇敢だな、お前は」
近寄って来たクヌギ号の頭を撫でる。ひと息ついて立ち上がると、背負っていた鞄を失っていたことに気付いた。慌てて胸ポケットを探ると小型の懐中電灯と発炎筒が残っていた。安堵しつつ懐中電灯を掲げても木々の揺れる姿が目に入るだけだった。
斎藤は滑って来た急斜面を照らす。だがそこ登る気は起きなかった。これ以上の危険を冒す必要はない。多少時間がかかっても遠回りをするか、あるいはクヌギ号と夜を明かすかだ。
幸い体力を気にかける必要のある季節ではない。日も登れば、自分の大体の位置も分かってくる。ただ斎藤の胸には眞島少年への思いがのしかかっていた。探しに入ったはずが、探される側になってしまうとは。
団員たちに不安はない。斎藤一人がいなくなっても彼らが、乱れることはないだろう。とすればと歩き出した。目立った怪我は無い。せいぜいが打撲ならば、歩くことはできる。幸いクヌギ号とも合流できたうえに、小型だが懐中電灯も手もとに残っていた。
すべきことは、ここから眞島少年を探すことだ。
念入りに周囲を照らしながら、歩を進める。横にいるクヌギ号は絶えず周囲を警戒してくれている。そのことが頼もしい。これならば眞島少年を探すことも、団員たちと合流することも可能なはずだ。
そう思った矢先だった。
クヌギ号が足を止めた。
つられて足を止めた斎藤の懐中電灯に照らされて人の後ろ姿が映った。
まだ幼さの残る背丈だ。一見して子供に思えた。
「満君か」
思わず声をかけていた。
背中は何も発しない。振り返ることもしない。ただその場に立っている。
「満君か。俺は青年団の斎藤だ。君を探しに来た」
声をかけて一歩前に踏み出す。すると背中が一歩分を遠くなる。測ったかのように斎藤との距離を一定に保つ。いくら歩を進めても背中の大きさは変わらない。
斎藤はついに駆けだそうとした。それをクヌギ号が体を張って止めた。
「クヌギ号、何をするんだ」
クヌギ号は少年の背中に向かって低く唸り声を上げている。決して近づこうとはしない。
斎藤は改めて少年の背中を照らした。何も変わったところはない。公民館で確認した情報とほとんど変わりはない。十中八九、眞島少年のはずだ。
だから、なぜこんなことをするのか分からなかった。どうして斎藤を遊ぶような真似をするのか、なぜクヌギ号が警戒を解かないのか。
ふと、少年の頭から何かが伸びているのが見えた。闇夜に溶け込むようで視認し辛いが、丁度、頭頂部の中心から黒く縄ほどの太さのものがすっと上に伸びている。
懐中電灯で頭から伸びているそれを追いかける。それは木々の上にまで続いていた。
照らされた樹上の様子に斎藤は釘付けになった。樹上に人の顔が浮かんでいた。眼孔は黒く凹み、口は悲愴に歪んでいる。一つだけではなかった。たくさんの生気の消えた白い顔達は、樹上に成る果実ように空間を埋め尽くしていた。
「なんだ、こいつは」
斎藤は目を凝らした。木に成っているのではなかった。黒い何かが樹上にいた。そいつの体から人の顔だけが体表に現れているのだ。
黒い塊だ。ゆうに大人の熊は超えているだろう。楕円形の体から太く黒い腕をいくつも生やして木の枝を掴み跨っている。掴まれた枝がたわみ、かなりの重量を伺わせた。
「怪物だ」
自らの言葉にはっとして斎藤は眞島少年の方を見る。すぐに眞島少年に駆け寄り、肩を掴み、顔をこちらに向かせた。
目があったはずの場所がどす黒く澱んでいる。目元から黒い涙が頬を伝っている。口から黒い液体が溢れだしている。
「助けて」
急に眞島少年の体が宙に引き上げられた。と同時に履いていた靴が眞島少年から離れ斎藤の肩にぼとりと落ちた。斎藤の視界の中で少年の体が怪物の黒い体に飲みこまれていく。ただ見ていることしかできなかった。
白い顔たちが一斉に斎藤を見下ろした。
顔が笑う。男の声で笑い、女の声で笑う。老人の声が笑い、子供の声で笑った。笑い声が幾重も重なり、雑木林のざわめきを塗り替えていく。悲壮に歪んでいるはずの顔たちが笑って見える。
怪物が樹上で跳ねた。瞬間、静寂が訪れ衝撃波と共に地面に着地した。怪物の体表に表れた白い顔たちが斎藤を見る。
生き餌だった。斎藤を釣るための餌として眞島少年は怪物に利用された。
怪物はじっと斎藤を見ている。釣れた獲物を目の前にして堪えきれないのか「くふふ、ふふ」と白い顔から笑みをこぼしている。
斎藤は構えた。そして怪物が動き出すよりも早く、懐中電灯を投げ捨てると眞島少年の靴を拾い上げて夜に走り出した。装備の一切を失った自分にできることは何もない。おそらく近づかれた時点で、眞島少年の後に続くだけだろう。
怪物は人の声を幾重にも重ねて叫んだ。声音にありありと憤怒の色が見える。すぐさま背後から怪物が足を踏み出す音が耳に届く。大地がへこみ、枝が音を立てて折れる。太い幹に当たったのか激しく空気が揺れた。
とにかく足を前に出していた。懐中電灯を捨てたせいで視界はほとんど利かない。考えるよりも早く動くしかない。傍でクヌギ号の足音と激しい呼吸音がする。
不思議とぶつかることが無かった。闇の中にわずかに浮かび上がる草木の影が目に入ったと思った時には、体が避けていた。長年の勘かあるいは、眠っていた野生の本能か。できれば前者であって欲しいと斎藤は走り続ける。
どれくらいの間を駆けていたのか、ふと立ち止まる。怪物の気配が無かった。傍でクヌギ号が呼吸を整えている。
「まいたのか」
斎藤は腰を落とした。影になったクヌギ号の喉元をまさぐる。うれしそうに、わん、と吠えた。
「おーい、ヒノキ号、どこに行っちまったんだーい」
周囲を見回した。声の主は間違いなく、あの若い団員だ。「おーい、ヒノキ号やーい」やや半べそをかいているような声だ。斎藤はうれしいやら情けないやらだった。
「おい、そこにいるのか」轟くほどの声をあげた。
「斎藤団長ですか。俺です、長谷一郎です」感極まっているのか、今にも泣きそうだ。
「助かりました。ずっと一人だったんです。みんなとはぐれてしまって。もう俺どうしたらいいか分からなくて、姉貴にも馬鹿にされるよな、きっと」
「分かった。分かった。お姉さんには俺から言っておく。で、お前はどこにいるんだ」
「ここでーす」
呑気な声と共に雑木林を一筋の光が走った。緊張感の欠片もない光の発生源へと歩を進める。そこで斎藤の胸に鋭い悪寒が走った。
「長谷、明かりを消せぇ」斎藤は怒鳴った。
雑木林が揺れた。「うわ」と短い悲鳴とともに明かりが上を向く。
駆けていた。寒気が体を覆う。耳元に届く呼吸の音がどこか他人事のように思える。何かないかと胸ポケットに手を突っ込んだ。筒状の物体が手の中に滑り込んだ。発炎筒だ。
斎藤は走った。頭が熱い。はらわたが燃えている。それを燃料に膝が動き、足を持ち上げる。
発炎筒を擦った。すぐに音を立てて光を発し、煙を上げる。
転がった長谷の懐中電灯に照らされて怪物の影が浮かび上がる。長谷の下半身を怪物が飲みこもうとしている。長谷が両腕で逃れようともがいていた。
「長谷から、離れろぉ」
斎藤が怪物に飛びかかる。持っていた発炎筒を怪物の体に突き刺した。ずぶりと抵抗も無く怪物の体が飲みこんでいく。
怪物が叫んだ。およそ人の声にはできないような叫び声を怪物は上げる。それは重い金切り声のようにも聞こえる。叫びながら怪物は悶え暴れだした。
クヌギ号が長谷一郎の体を掴んで怪物から引きはがそうとしていた。斎藤も素早く加わる。引き抜くと長谷の下半身はべったりと黒い液体でまみれていた。
「団長」長谷は泣いていた。
「それを脱げぇ」
「ええっ」
「早く、脱ぐんだ」
斎藤は無理やり長谷のズボンを脱がした。手に黒い液体が着き、自身の上着で拭うとそれを捨てた。
「団長」
背後から明かりを照らされた。振り返ると、三浦を筆頭に青年団の姿が目に入った。
「団長、ご無事ですか」
「三浦ぁ、猟銃は」
「あります」
「発炎筒が目印だ、撃てぇ」
三浦達は発炎筒が激しく光る怪物を見つけた。数人が懐中電灯を向けると、猟銃を構えた団員が素早く腰を落とす。
深夜の森に銃撃音が響く。「続けろ」と三浦が叫ぶ。さらに銃撃音が続き、人ならざる声が森に響き渡る。
怪物の叫びが止んだ。光に照らされている中、身悶えていたが動きが止まった。
「死んだのか」誰ともなく団員が呟いた。
楕円の黒い塊が少しづつ、たわんでいるのに斎藤は気付いた。溶けているのだと分かった時には塊が液体になって地面に広がっていた。「死んだみたいだな」とまた誰かが呟いた。
死んだ怪物の跡から出てきたものに斎藤たち団員は絶句した。黒い液体にまみれて人の体がいくつも姿を表した。ほとんどは皮膚が無くなり、筋繊維が見えている。半ば骨が覗いている体もあった。
「これは、ひどいな」
「どうなっているんだ」
団員たちがそっと近寄る。「触るなよ」と三浦が釘を刺した。
「大丈夫ですか」
三浦が斎藤に声をかける。心配そうに団員達が集まり、三浦が肩を貸そうとすると斎藤はやんわりと断った。「俺よりも、長谷を診てやってくれ」と斎藤に言われて団員たちが目にしたのは下半身がパンツ姿の長谷だった。さすがに気が緩んだのか団員たちは笑った。
「あれは、何ですか」
「見当もつかないな」
「眞島君は」
怪物の死体を指さし斎藤は靴を見せる。団員たちから、苦悶の声が上がった。
「とにかく下ろう。話はそれからだ」
団員達が裏山の入り口に戻ると、眞島秋絵が警官に支えられ立っていた。斎藤に詰め寄る母親に靴を渡すと、彼女はその場に崩れ落ちた。母親が悲鳴のような泣き声を上げる中、団員達も警官達も立ち尽くすほかなかった。
夜が明けると斎藤は団員と警官を引き連れ、怪物の遺体を目指した。深夜の出来事だっただけに、探すのに手間取ったが大井川警官が見つけた。斎藤達が向かうと、木を中心に黒く粘質の何かが一帯を覆い、人の遺体ばかりが転がっていた。
長谷は念のためにと病院で検査を受けたが、どの感染症も確認されず、本人もいたって元気な様子だったが数日の間、入院を余儀なくされた。
数日後、一報を受けた国の機関が町を訪れた。斎藤が事情を説明すると当面の間、調査のため現場を立ち入り禁止とし住人に注意を促した。さらに数日して、斎藤の所に機関の人物が訪れると調査は終わり、山に脅威は無いことを告げた。
息子が消えてから数日間、眞島の母親は家に籠り続けていたが、ある夜、素足のまま町を徘徊する様子を近所の住人が見かけた。驚いた住人が声をかけたが、振り返った彼女の表情は獣のそれとそっくりだったという。
おびえる住人を横目に、母親は突如として奇声を上げると四つん這いになり、人のものとは思えぬ速さで息子が消えた山へと消えていった。