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ダーク・イーター  作者: loveclock
終章
19/19

エピローグ

 所々に見えていた青空の隙間を埋めるように広がった灰色は影を持つと、その身から同じ色の欠片をふらふらと漂わせる。雪の欠片はわたしの頭上に並んで立つ首都高をくぐり抜け地上に到達する。

 ハンドルを握るわたしの前で、自動車の速度から逃げきれない雪の欠片はフロントガラスに張り付くと色を失って消えた。そこはかとなく感じていた寒さはエアコンの調子が悪いからではなく、どうやら雪が降るほどに外気が冷え切っているせいらしい。

「タイヤ、ノーマルですけど、大丈夫ですよね」

 わたしの言葉に武田先輩はフロントガラスを覗くように見上げ、同じように綿雪を見つけたのか、わざとらしく両腕をさすり始める。

「都内でそんな心配する必要も無いと言いたいところだが、そういえば何年かおきに薄っすらと積もるよな」

「不安にさせないでくださいよ」

「あんな修羅場をくぐっといて何をいまさら。雪なんてお茶の子さいさいだろう」

 抗議のつもりで鳴らした鼻息は武田先輩に笑い飛ばされた。右手に荒川の土手を臨みながら平和橋通りに車を走らせる。拘置所前の交差点が目に入ってわたしは信号の一つ奥の脇道にハンドルを切った。

 すぐに広大な駐車場とそこに囲われた巨大な建物が姿を表す。一棟をこちら側に突き出すようにそびえる建物は、上空から見下ろすとX字に交差しているのが特徴的だった。

 初めて訪れた時こそ要塞のような武骨さや物々しさに息が詰まったが、何度も通う内に見慣れている自分に苦笑してしまう。武田先輩はわたしを見て、若干眉をひそめた。

 それでも鉛色と白色の組み合わさった建物に、わたしは人生の何分の一かを費やすことを予感していた。

 拘置所の駐車場は平日だったが、そこそこに混み合っていた。一向に止む気配のない雪を避けるべく、来客用の正門に近い場所を見れば、ちょうどそこの部分だけ車が密集している。天気が悪くなる前から停まっていたのだから、結局、皆も物臭なのだろう。

 わたしも彼らに習って傍に車を停める。フロントガラスには絶えず雪が降り続け、融け残った一部が、後から来た雪たちの手を取って薄く広がる。ワイパーを立てておくべきだろうかと呑気にも考えていた。

「おおぅ、寒さが身に染みるなぁ」

 エンジンの停まった車の中で武田先輩は被ったニット帽だけでは足らないのか、いそいそとジャケットからネックウォーマーを取り出している。呆れもするが、それが羨ましくなるくらいにはわたしにも寒さが染みている。

 後部座席に振り返っても傘の類は見つからず、思わずこぼれたわたしの溜息は白い。わたしを尻目に武田先輩は、そそくさと車を降りる。「早く行こうぜ」と言う武田先輩は被ったニット帽を、さらに眉が隠れるまで無理矢理引っ張っている。

「強盗みたいですよ」武田先輩の顔は目元を残し黒い布で覆われていた。

「善良な一市民だよ」

「捕まらないといいですけどね」

「まさか」武田先輩の肩には、早くも雪が降り積もっていた。

 駐車場を足早に駆け抜け、来客用の出入り口で雪を払っていると、わたし達を見つけた職員が訝し気に近づいてきた。

 わたしは笑って武田先輩の肩を強めに叩く。武田先輩も近づいてくる職員の様子に気付き、慌てて被っていたものを剥がすと精一杯に友好的な態度を取る。

 職員はしばらくの間、眉間に皺を寄せていたが一瞥をくれると元の場所に戻って行った「紛らわしいことをするんじゃない」と聞こえてきそうだ。

 睨まれながらも事務所で受け付けを終え、廊下を抜けてエレベーターに乗り込む。わたしも武田先輩も言葉を発しない。横を見ると珍妙な顔の先輩が白い蛍光灯に照らされている。

「ここに来ると落ち着かないんだよ」

「落ち着いている時があったんですか」と言いうわたしも慣れるまでに時間がかかった。

「面会室に入ると、もう平気になんだけどな」

「話すと楽になりますよ」

「実はオカルトの専門誌に誘われた」

 わたしを見ようとはしないものの、顔が綻ぶのを抑えられないようで、目が踊っている。それがわたしの悪戯心をくすぐる。

「よかったですね。わたしはまだ無職です」

「お前、自分の立場を分かってて聞いただろう」

「明日の飛行機に影響が出ないといいんですけどね」

「嫌な後輩だな」

 エレベーターが到着を告げる。開いた扉の先で待っていた職員はわたし達の名前を確認し、彼に連れられてわたし達は面会室に入った。

 面会室の中央はアクリル板で遮られていた。無機質な寂しさは何度か訪れる内に消えていた。初めて来たとき「テレビドラマで見た光景だ」と少しばかり感動があったのは墓にまで持っていく秘密だ。

 職員は「少し待っていてください」と起伏の無い調子で言い残し、扉のむこうに消えた。

 回転いすに腰かける。武田先輩は立てかけてあったパイプ椅子を引っ張り出し、尻を打ちつけるように座った。僅かに静寂があって、アクリル板の反対側でドアノブが回る。

「すこし髪が伸びたね」

 アクリル板を挟んで向こう側に立つ坊主頭の男性は、わたし達を見ると表情を柔らかくした。囚人服に身を包んだ五十嵐浩太がそこにいる。

 事件の解決から二か月近くが経っていた。


 粛々と進行する裁判をわたしはぼうっと眺めている。

 目の前で繰り広げられる検察と弁護士のやり取りも台本にあるかのように決まっていて、彼らの発する言葉のどれもが耳を通り抜ける。横を見れば武田先輩も瞳を虚ろで、わたしの耳の穴から出ていった言葉が彼の耳に入っていくようだ。

 傍聴席のほとんどが空白だった。わたしの隣に座る武田先輩と、離れた席に桜井さんと彼の同僚らしき人達がいるだけだった。

 被告席に立つ五十嵐浩太は頭をきれいに丸めていた。その兄に一連の進行を終えた裁判長が判決を読み上げる。とうとうと語られる判決内容を兄は終始、穏やかな面持ちで聞いていた。最後に裁判長がゆっくりと口を開く。

「何か言い残すことはありますか」

 兄は首を振ると、深々と頭を下げた。

 両脇を警察官に掴まれて兄は被告席を降りる。法廷を出ていく直前、わたしの姿を見つけた兄は小さく口角を持ち上げた。綺麗に曲線を描く唇は、寂しくも迷いはないように思えた。

「兄は、どうなるのでしょうか」

 裁判所の傍聴席を出たわたしと武田先輩の前にはスーツ姿の桜井さんが立っている。過去を遡れば、まだ余罪が見つかる可能性があるという。

「たぶん、一生を刑務所の中で生きることになる」

「そうですか」わたしはほっとしていた。ただ別の結果になったとしても兄はそれを甘んじて受け入れてしまうのだろう。

 迷いがないというのは嘘だ。兄に命を奪われた人達はいる。そのことを考えると自分でも兄に処された判決が正しいのか分からなくなる。

「生きていれば罪を償うことはできる」

 平坦な口調とは裏腹に桜井さんの表情は柔和で、それでも別の感情が彼を漂う理由をわたしは知っている。

「希望を失わないことだ。それが彼の支えになる」

「それには自信があります」

 わたしの言葉に桜井さんは笑って頷く。法廷からぞろぞろと関係者が姿を表し、その中から桜井さんの同僚らしき人物たちがこちらを見つけ声をかける。桜井さんは彼らに手を振って答えた。

「桜井さんは、これからどうするんですか」

「森川は逮捕したが、やらなくてはならないことは沢山残っている。奴の残党もいることだしな。それに『マザー』との約束もある。そう考えると、まだまだ終われないな」

「おーい、桜井」と呼ぶ声に、まだ何か言い足りない様子だったが、桜井さんは同僚たちの待つエレベーターへと踵を返した。扉が閉まるまで彼はずっとわたし達に微笑みかけていた。

「強いなあ。あいつ」

 武田先輩はまだ、ぼうっとしている。「というか、お前らみんな強いよな」

「兄と桜井さんはともかく、わたしはそんなでもないです」

「俺から見たら充分だよ」

「わたしが今ここにいれるのは先輩のおかげでもあるんですよ」

「何かしたか、俺」

「あきらめるなよ。伝え続けるんだ」

「誰だよ、そんな臭いこと言ったのは」

「さあ、誰でしょうね」

「いこうぜ。堂島さんに会うんだろ」武田先輩はエレベーターへとふらふらと足を運ぶ。

 その背中から感じる動きが妙にぎこちなく、照れているのかなと邪推するわたしの前でエレベーターが再び空になった口を開けた。先に駆け込んだ武田先輩は何やら激しくボタンを連打しはじめる。慌てふためくわたしの目に、性根の腐り切った笑顔の武田先輩が映る。

 わたしは慌てて閉まりかけた扉に足の甲を挟みこみ、しばし狭い箱の中で一方的に唾を飛ばすことになった。


「少し太ったんじゃないか」

 わたしの隣に座る武田先輩は、自らの頬肉を寄せて兄をからかう。兄の顔に浮いていた頬骨は肉に覆われ、やや痩せぎみと思えるほどには見栄えがいい。通った血肉のおかげか乾燥していた肌の色艶はよく見える。

「お前のそれ、いいな」と兄は武田先輩のニット帽を指さす。照れた様子で頭をなぞり「この時期は耳のあたりが寒いんだ」

「さすがに、こいつはやれんなぁ」武田先輩もあっけらかんと笑って返す。

「最近はどう」「生活にも作業にも慣れてきたよ。裕子の方はどうだ」「俺は仕事が見つかりそうだ」「おまえには聞いていない」「だろうな」

「実はアメリカにいこうと思っているの」

「なぜ」兄の怯え、伺うような目つきにわたしの胸をちくりと刺す。

「CDCと連絡が取れてね」「CDC」「古代変形菌を研究していた大井川次郎先生の所属していた組織なんだけど」

「『マザー』が言うには、裕子が変化することはないはずだろ」

「でも、まだ根本が解決したわけじゃないわ。森川の事件が終わっただけで、いまも古代変形菌は世界中にいる。彼らを悪く言うつもりはないけど、彼らに苦しむ人もきっといるはず。そういう人の助けになりたいの、それに『マザー』との約束も果たさないと」

 しばし茫然としていた兄だったが、天井を見上げると、次いで目を閉じた。兄の放った小さな空気の震えはアクリル板を透ってわたし達の耳には届くことはなかった。

「いつ出発するんだ」

「明日にでも」

 兄は目を細め、すっと口角を持ち上げた。笑い方が上手になったと思う。

「無理はするなよ」

「うん」

 そう答えるのが精一杯だった。

「妹がいない間も俺が会いに来るからよ。寂しい思いはさせないぜ」

 武田先輩の投じた一石はアクリル板を砕いて兄を破顔させた。「お前の顔じゃあ、すぐに見飽きるよ」「俺の命の恩人がそんなに冷たい奴だとは思わなかった」と武田先輩は大げさに天を仰ぐ。

 温まりつつあった面会室の扉が軽く叩かれる。わたし達は互いに顔を見合わせて席を立つ。武田先輩はパイプ椅子をそのままに立ち上がると、部屋の外に姿を消した。

「裕子」

 振り返ると、兄の顔は晴れ晴れとしていた。

「ありがとうな」

 兄の言葉に笑顔で返すが、それも今に崩れそうだ。必死に堪え、わたしは面会室を後にする。先に出た武田先輩から鼻をすする音が響く。鼻の穴から垂れて光るものがあった。

「ちょっと、先輩汚いですよ」

「馬鹿、お前も同じだよ」

 武田先輩の顔がぼやけている。鞄から取り出したハンカチで目を拭う。変な泣き笑いが廊下を伝う。職員がちらりとこちらを見やるが、また視線を落とした。

 わたし達は階段を使って出口を目指した。


 すれ違った老夫婦は笑顔で旅行に思いを馳せている。三人家族はしばしの別れを惜しむように抱き合い、そして別れを告げている。独り荷物を背負う青年の足取りは新天地を目指すかのように勇ましい。

 ありとあらゆる喧騒をその身に抱え、空港は日常に満ちていた。果たしてわたしは上手に溶け込めているだろうか。

 アメリカ行きの搭乗口が遠めにもいよいよ視界に現れ、わたしの鞄を握る手に力が入る。横に並んで歩く武田先輩はどこかよそよそしく、何を尋ねても空返事を繰り返していた。

「兄をよろしくお願いしますね」

 人々の作り出す流れの中、足を止めて武田先輩に向き直る。

「帰ってくるときは兄貴と一緒に迎えに行ってやるからよ。早めに頼むぜ」

「期待しないで待っています」

「なんだよ。それ」武田先輩は唇を尖らせる。

「兄が生きているだけで、嬉しいんです」

「欲がないね」

「人間でいられるかどうかすら、怪しかったですからね」

「そら、そうか」

 どことなく落ち着きのなさを感じれば、周囲の人達がわたし達になにやら感情を込めた視線を送っている。確かにそういう風に見えなくもない。妙齢の男女が別れを惜しむ光景は空港だけでなくあちこちで見られ琴線をくすぐる。

 わたしは自分に問いかけるが、すぐには答えは出ない。多分きっとこの先にも答えは出ないかもしれない。

「五十嵐」

 武田先輩は何かを言いあぐね、口を閉じたり開いたりを繰り返す。魚の呼吸のようだなと思っていたが、結局言葉は出てこないようで観念したのか最後は肩をすくめるだけだった。

「頑張って来いよ」武田先輩が握り拳をつくる。

 わたしは目の前に浮かんだ拳骨にじぶんのそれをぶつける。兄の手の温もりと同じように手の甲に走った痺れをわたしは一生忘れないだろう。

 アナウンスが乗客を呼ぶ。搭乗口の列で待つ間、ふと振り返る。わたしに気付いた武田先輩が小さく手を振った。

 チケットを確認し終え、飛行機へと続く連絡通路を進む。横目に小さく見えた武田先輩の姿はわたしが通路を曲がるまで消えることはなかった。

 自分の座席を確認し手荷物を収納する。深々と腰かけ、わたしは独りであることを改めて知る。目を閉じ、胸に手を当ててもわたしの中に隣人はいない。

 それでも恐れはなかった。かつての先人と同じようにわたしも立ち向かわなくてはならないと思う。それが繋がれてきた者、繋いでいく者の役目なのだと信じて。

 この作品に出てくる古代変形菌は人を襲っていますが、実際に存在する変形菌は人を襲うようなことはありません。変形菌をモデルにした、似たような生き物と思っていただければ幸いです。


出展・参考文献

『粘菌 その驚くべき知性』 中垣俊之 PHP研究所 2010年

『変形菌 Graphic voyage』  川上新一 佐藤岳彦 技術論者 2017年

『新・生命科学ライブラリ―生物再発見 細胞性粘菌のサバイバルー環境ストレスへのたくみな応答―』漆原秀子 株式会社 サイエンス社 2006年


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