夜明け
わたしは闇を漂っていた。静かに揺れる闇にその身を任せながらも、わたしは胸の内で眠る兄の頭をゆっくりと撫でている。兄の穏やかな寝息がわたしの鼓動に重なる。穏やかさと幸福の波に揺られながら、飽くことなく兄の長い前髪をすく。
「君の感情も意思も記憶も僕が背負っていく」
波の音に混ざって聞こえる声は甘美で、わたしの自我にそっと指を置いては神経の束を丁寧に解きほぐし、筋の一つ一つに滴を垂らす。辛うじて張っていた、わたしの糸は水を吸ってふやけ、波に踊る。
「君は僕の中で一つになる」
少しずつ体が沈んでいく。闇に浸かっていた下半身から感覚がなくなっていく。肩が沈み、顔の輪郭を水面に囲われたとき、わたしは目を閉じた。唇、耳、鼻と順に闇に消え、そして全身が海中に包まれる。
「君は幸せの中で生きていく。次に目覚めた時、君はー」
意識が溶け始める。わたしは闇で彼と一つになる。幸福で穏やかで何も考える必要がない。誰かの入り込んだ思考がそう囁く。
「違います、あなたはー」
誰かがわたし達の思考に横やりを入れる。誰かの思考が騒音を振り払うが、何度払っても邪魔者は思考を引っ張り上げる。
「騙されないでください。あなたはー」
空気の破裂する音が闇に轟く。
一筋の真っ白な線が走った。白線は輝きを強くし、小さく左右に頭を振りながら稲妻の如く暗闇を駆け抜ける。さらに連続する発砲音が光の線を増やす。わたしを覆っていた空間に不格好な光の網目模様が張り巡らされる。
暗闇に走った光のヒビが力強く輝きだす。わたしの頬を伝う涙は眩しさに溢れているのではない。胸で穏やかに眠っていた兄の幻はすでに光にかき消されていた。
「わたしは人間だ」
光はわたしの言葉に呼応するように、もう一度強く輝くと、闇を砕いた。わたしの浸っていた暗い水は容器を失い、地面に広がって消えていった。
灰に帰った闇の容器は風に散って舞い、わたしの目の前にはドーム状の空間が広がる。部屋の中央には怒気を露わにした森川が立っていた。
「君たちはどうしてこうも諦めが悪いのかね」
向かい合うわたし達のドームの壁一面に外の様子が映像になって張り付いていた。男性が握る拳銃からは煙が上がっている。見覚えがあった。桜井さんの貸してくれた拳銃だった。
武田先輩がさらに銃声を轟かせると、銃弾を受けたように森川は目を剥き、そして動きが縛られたように止まった。
「森川っ」
走り出し、その勢いのまま繰り出したわたしの拳は森川の脇腹を穿つ。手の甲に走った痺れに歯を食いしばる。森川の下がった顎に狙いをすまし、握りしめた拳で打ち抜く。腰砕けになった森川は必死に踏ん張るが、耐え切れず仰向けに倒れた。
ドームの映像が蒼く染まっていく。澄み切った境界線の無い青色に吸い込まれそうになる。呼吸を整えていると、頭を覗かせた朝日が橙色の水平線を作り出し、空と海とを隔てる。いつの間にか聞こえてきた潮騒が耳に寄せては返す。
わたしの靴裏に固い感触があり、視線を降ろせば灰色の甲板が広がっていた。大の字で横たわる森川のすぐそばにまで泡立った波が時折、彼の指先を濡らす。まるで互いの距離を図っているようだ。
「裕子さん」
振り返るとアレクサンドルとユーリの姿を借りた友人が駆け寄って来た。
「無事だったのね」
晴れ晴れとした表情の二人を抱きしめる。彼らから伝わる仄かな温かさに頬が緩む。
「『マザー』に飛び込んだ際に逸れた時はどうなることかと思いましたが、よかったです。本当に」
アレクサンドルとユーリの頬を伝う涙は海の色と同じだった。透明な滴が顎を伝って甲板に跳ねる。
「この景色は」
「『マザー』が力を取り戻したのです」
ドームに張り付いた映像を思い出す。武田先輩が構えた拳銃は森川の機械達に向けられていた。「先輩たちがやってくれたのね」わたしの言葉に二人は笑顔で頷いた。
「五十嵐裕子君」
わたし達の視線は大の字になった森川にむけられる。森川がのっそりと体を起こした。眉をひそめるわたしに、アレクサンドルとユーリは微笑む。「『マザー』は完全に力を取り戻しています。彼にはもう何もできません」
「一つ聞いてもいいかな」
彼は海を見たまま足を組み替えた。その仕草がキザッたらしく、彼に対する印象が全くといっていいほどに良くならない。多分これからもずっとそうなのだろう。
「何が君を駆り立てたんだ」
「人間として大切な人と生きたいと願っただけです」
森川は顔を動かさない、だが少しだけ口角が持ち上がった気がした。
「あなたの計画がどうとうか、じゃないです。ただ温かさを失いたくなかっただけです」
わたしの掌に兄の指の温もりが、いつまでも残っている。そう願っている。
「それにわたしだけの力じゃないです。沢山助けてもらいましたし、助けもしました。多分、それを繰り返せば、もっと世の中は良くなると思いますよ」
森川はわたしをじっと見ていたが、「そうか」と残すと、両手を頭の後ろで組んで仰向けになった。このまま眠りそうな雰囲気があった。
わたしが腰を落とすとアレクサンドルとユーリも続いた。わたし達は並んで海を眺めている。少し前にも同じことをしたことを思い出し、小さく笑った。
「五十嵐裕子さん」
ふいにかけられた声はわたしを震わせる。顔を上げる。何も無いはずの空に誰かの顔が浮かんでいる気がした。
「『マザー』ですね」
何もなくとも反応があるのが分かった。頷いたのだと思う。僅かに空気に波が立ち、わたしの肌がそれを感じとる。
「あなた達の活躍のおかけで、私は解放されました。本当にありがとうございました」
「どういたしまして」と言うわたしの横でアレクサンドルとユーリが笑う。「森川の計画は終わったのよね」
「はい。彼の支配は終わりました。私は今、森川の計画に利用され、東京の地下に張り巡らされた同胞を体に吸収しています」
「あなた達はこれからどうするの」わたしは空に問いかける。
「この土地を離れます。そして世界中に生きている私達の仲間に人の持つ心を説いていきたいと思います」
「人間と古代変形菌の争いは止められそう」
「正直に言ってそれは分かりません。非常に困難で時間のかかる事で、達成できるかどうかもわかりません。でもこの大地に生きる者同士、出来ることはあるはずです。あなたが可能性に賭け、わたしの体に飛び込んだ時と同じように」
急に照れくさくなり、俯いた。「あの時は、そんなこと考えていなかった」忍び笑いが耳にくすぐったく、顔を上げればアレクサンドルとユーリが口元を抑えて笑っていた。
「わたし達、人間も解決する方法を探ってみるわ。兄たちも桜井さんもいるし、どうにか頑張ってくれると思う」
ほっとしたわたしの思考の片隅から姿を表したのは、ずっと考えずにいたことだった。それでも今のわたしには満足した気持ちの方が強かった。
「あなたも、彼らと共に解決策を発見するのですよ」
「でもわたしは―」
「あなたは古代変形菌にはなりません」
彼女の声は柔らく、わたしの心を救い上げる。
「人間が古代変形菌に変化してしまうのは、人間の意識が、宿った古代変形菌に負けて乗っ取られてしまった時です。本来ならば、もっと早い時期に変化していたかもしれなかったのですが、あなたの中の友人はその意思を持ちませんでした」
わたしはアレクサンドルとユーリを見る。二人もまた驚いたように空を見上げていた。
「私があなたの友人を預かります。あなたの中に残った古代変形菌を完全に取り除くことは出来ませんが、少なくとも古代変形菌に変化することはありません。あなたは人として、命を終えることができます」
口が震えて上手く言葉に出来ない。それでも、今度はわたしがお礼を言う番なのだ。
「ありがとう」
「どういたしまして」
『マザー』の言葉がわたしに染みていく。心から溢れ出した感情にわたしは慌てて両手で顔を隠す。肩にそっと大きな手と小さな手が添えられた。
両手から零れた嗚咽と涙を、海は何も言わずに受け入れてくれる。
顔を上げた時、陽は高くあがっていた。お昼時のような明るさが、腫れぼったい目に滲みる。海を凪ぐ風が火照った顔に心地よさを運んでくる。
「一つ聞いてもいいかしら」
「ええ。本当は何度でも、どうぞと言いたいところですが、どうやらお別れの時のようです」
「どうしたの」
「私の体の外であなたのお兄さん達が騒ぎ始めました。おそらくこのままだと、わたしの体を切ってでも、あなたを助け出すかもしれません。まさか、それが新たな争いの火種にならないとは思いますが」
おどけた調子の『マザー』にわたしは笑って返す。
「あなたたちはなぜ、目覚めたの」武田先輩の残した情報に依れば核実験の影響が大きいといわれていた。
「私達は、ただ核兵器の起こした振動で目が覚めただけですよ。あなた達だって眠っている時に家ごと揺さぶられたら、驚いて飛びあがるでしょう」
今のわたしの表情を見たら武田先輩は腹をかかえて笑うだろう。わたしの隣に座るアレクサンドルとユーリも口がぽっかりと空いている。意外な真実にわたしは笑わずにはいられなかった。
三人でひとしきり笑い合うと立ち上がる。アレクサンドルとユーリも続いた。「お別れをしなくちゃね」ユーリの青い瞳と、アレクサンドルの深い堀から覗く瞳が揺れている。
「短い間だったけど、ありがとう」アレクサンドルとユーリの二人を抱きかかえる。「あなた達でよかった」
「私もあなたでよかったと思います」
滴が二人の頬を伝い、それがわたしの涙を誘う。まだ僅かに貯蔵のあった涙腺から涙が溢れ出し、それを見た二人も涙を溢れさせる。笑顔を一生懸命に作るが、それも不格好なもので、わたしは笑ってしまう。
「私のことを忘れないでくださいね」
「ずっと覚えているわ」
最後に力を込めて二人を抱きしめた。そっと離れると、わたしの足裏が甲板を離れる。再び包まれた浮遊感に馴れた自分に驚く。視線を落とせばアレクサンドルとユーリが手を振ってわたしを見上げていた。わたしも大きく振り返す。
「本来、私達は死滅したはずの生き物でした。ですが目覚めてしまった以上、再び自然の中で静かに生きることを願っています」
いよいよ甲板上の二人が小さくなり、わたしは瞼を閉じる。
最後に聞こえた「さようなら」は果たして誰のものだったのか。今のわたしにそれを知る術はない。
「裕子」
長い間、聞いていなかった、だが聞き慣れた呼びかけに目を開けると、兄と武田先輩が心配そうにわたしを覗きこんでいた。「よかった」と兄がわたしの体を強く抱きしめる。「ちょっと、お兄ちゃん。恥ずかしいよ」「構うものか」と言う兄は涙を流していた。
「感動の再会もいいけどな、おまえずぶ濡れだぞ。早く着替えないと風邪引くぜ」
武田先輩の言う通り、わたしの服は古代変形菌の液体で濡れていた。それにも構わず兄は離れようとしない。「水も滴るいい女ってな」と武田先輩は茶化す。
その武田先輩が目を開いて身構えた。様子に気付いた兄が気配を鋭くし、わたしをかばうように抱きしめる。振り返れば、わたしの背後にいた巨大な『マザー』が形を変えようとしていた。
『マザー』は体から伸ばしていた管を吸収し直す。一つの塊に戻った『マザー』が体を三つに分ける。その体からいくつか足を生やし、それぞれが部屋に設けられた穴から出ていった。
「あいつ、これからどうするんだ」
「世界中の仲間に伝えるそうです」
「何を」
「多分、素敵なことです」
兄と武田先輩はわたしの言葉に瞬いた。しばらくお互いに見合っていたが、納得するように何度か頷きあう。
「まあ、いいんじゃないか」
観音開きの扉から騒々しくも、部屋に重装備の機動隊員が駆け込んできた。わたし達の姿を認め、部屋の安全を確認した彼らの背後から救急隊員が姿を表す。どう階段を降って来たのかは分からないが、彼らはストレッチャーを引いていた。
次から次へと人が雪崩れ込みホール部屋が活気に満ちる。その様子をぼうっと眺めていた、わたしだったが気付けば桜井さんが近くにいた。彼の後ろには手錠をかけられた森川がいた。
「終わったのか」
わたしは頷いて返す。桜井さんも満足げに頷くと、森川を連れだって機動隊員たちの元へと歩いていった。
救急隊員がわたしをストレッチャーに乗せようとするが、それは断った。兄に肩を借りて、わたし達は部屋を出る。廊下にいた警察官は森川の部下たちを拘束していた。彼らの横を通り過ぎて、廊下をあっちでもない、こっちでもないと迷いながらも地上を目指す。
地上への階段を見つけ三人で登る。足を上げる度に、差し込む陽光がわたしの足取りを軽くする。階段を昇り切ったわたし達を、目を開けていられないほどの朝日が包みこむ。
「まぶっしいなぁ」
武田先輩は手の平で庇をつくって空を見上げている。
「長い、長い夜だった」兄は言葉を噛み締める。
「うん」わたしの口か出た言葉はそれだけだった。
建築途中のビルは警察関係の車両に囲われていた。現場をスーツ姿の関係者が行き交い、わたしたちは彼らの間を縫って事件現場の外に出る。早朝にも関わらず、歩道から溢れる程の野次馬は道路にまで出ていた。押しのけてわたし達は帰路に着く。
わたしは横を歩く兄の顔を見つめる。視線に気付いた兄が見つめ返す。どこかこそばゆく、そしてわたしの心を温かくする。
それだけで充分だった。