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ダーク・イーター  作者: loveclock
解決編
17/19

ダークイーター⑥

 目を開いた時、わたしの眼下には緑の絨毯が広がっていた。絨毯は視界の果てにまで続いており、深い緑色の木々は山々といわず大地を覆い尽くし、所々に切り開かれた若葉色の草原が見え隠れしていた。

 空から落下するわたしを浮遊感と風切り音が包んでいる。ジャングルの各地から上がった煙が沈みかけた太陽の光を受け、夕焼けの空に仄かに桃色をつける。

 空からの風景を楽しむ暇もなく地上に根付く木々や草草の姿が明瞭になり、その隙間から迷彩色のヘルメットが連なって進軍する様子が覗けた。

 いよいよ地面に衝突する直前、そうなることが最初から予定されていたかのように、体がふわりと持ち上げられ静かに両足が着いた。足裏に大地の柔らかい感触が伝わり、ほっとするわたしの横を弾丸が掠めていった。

 草原を這うように進む兵士たちの露払いに、空を切り裂いてヘリがジャングルを乱れ撃つ。銃器の引き金に指をかけ続ける兵士の傍で爆発が起き土煙が上がった。誰かが肩に担いだロケット弾から煙が噴出され、直後、大木が悲鳴を上げて倒れる。

 わたしの横を兵士たちが駆けていく。彼らは空からやって来た異物に目もくれない。まるで存在しないかのように彼らは戦争を続ける。

 前進する兵士たちの最後尾にやけに身軽な服装の者がいた。彼は手に銃を持ってもいなければ、ヘルメットも被っていない。そもそもが迷彩服ですらなかった。これから夜を迎えるジャングルには良い塩梅の色だが、決して戦闘に適したものではない。

「森川」

 振り返ったスーツ姿の森川はわたしを見つけると微笑んだ。

「来ると思っていたよ。ここが、どこかは見当がついているのだろう」

「『マザー』の精神世界」

「その通り。ここは『マザー』に集積された記憶の世界だ」

 ほとんど隣で爆音と共に地面が吹き飛んだ。頭上を舞った土くれと、肉体の破片はわたし達をすり抜けて地面に落ちる。

「愚かな人間の記録だよ」

 明るさの残っていた東側の空に、刷毛で塗られるように夜が広がっていく。辛うじて顔を見せていた太陽は地平線を一筋の光を残しつつも姿を消していく。藍色の空に瞬く星が輝きを強める。

「君も見ていくといい」森川が夜に沈んだジャングルに身を潜める。

 ジャングルの中で野太い悲鳴が上がり、次いで銃声が轟いた。瞬間的だった悲鳴と銃声はその頻度を増していく。銃口から噴き出た発火炎に照らされ、ジャングルを舞台に人と怪物は影絵のように踊り狂う。

 演目の終わったジャングルから草木を踏みしだいて、異様にも膨れ上がった古代変形菌が姿を表した。彼はわたし達の体をすり抜け、どこか闇夜に消えていった。

「天罰だ」

 森川の言葉に頭が沸騰し反射的に握り込んだ拳を振うが、それは彼の掌に収まっていた。すかさず指先に意識を集中させるが、わたしの指はいつまでも人のままだった。

「君の力は古代変形菌の協力があってこそのものだ」森川はわたしに見向きもしない。視線は闇に消えた古代変形菌の後を追っていた。

「君は今、意識だけの存在で独りだ。だから彼の力は使えない」

 睨み合うわたし達のすぐ傍を二人組が通っていく。片方は目が青く、あちこちに古代変形菌の体液が絡んでいる。もう一人はアジア系で、繋がれたロープをアメリカ人に引っ張られ二人も闇夜に消えていった。

「わたしの友達はどこ」

「僕が知る由も無いだろう」森川が手を離した。

 突如として暴風が吹き荒れ、わたしの髪を撫でつける。嵐のような風は夜空に瞬いていた星々を掃き掃除のごとく隅に追いやった。今度は空が白色に塗られる。

 陽光を浴びて再び姿を浮かび上がらせたジャングルからは絶えず風が吹き続け、運ばれた粒子がわたしの頬で跳ねては落ちる。

 ジャングルを構成していた木々が次々に倒れて枯れ始めた。草草が急激に色あせて萎び、塵に還っていく。剥き出しの粘土質の土が水気を失い、乾いた色に変化し細やかな粒子になって熱さを伴った風に運ばれた。

「前を見て」森川の視線は固定されたように遠くを見つめている。

 生命力を感じさせるジャングルは姿を変え、見渡す限りに平坦な荒野が広がっていた。山脈は遥か遠くでその姿に蜃気楼を纏わせ、空を見上げれば青一色の空に日光が燦爛としていた。

「何が起きるの」わたしの問いかけは天に吸い込まれていく。

 巨大な閃光が発生した。

 閃光は灼熱の波を引き起こし、砂ぼこりを巻き上げ拡散する。閃光は炎から真っ黒な煙へと性質を変えると、円柱状に上昇していく。

 半球形だった円柱の先端は煙を吸い込むようにして巨大化し歪にも膨れ上がる。世間ではあれをキノコ雲と呼ぶらしいが、わたしの目には背骨と繋がって伸びた脳みそのように映る。

「核実験の記憶だ」

 灰色のキノコの塊は綺麗な青空に漂っている。あまり視界に残したいものでもない。

「僕らが今のままでいれば、あれは世界中に落ちる。古代変形菌はそれを止めるために使わされた神の意思だ。僕ら人類が分かり合うための最後の手段だ」

「それはあなたが勝手に抱いている幻想に過ぎない。彼らはわたし達とおなじように、ただ生きているだけ」

「ではなぜ人を襲う。いつまでも争いを続ける人類を罰するためだろう」

「彼らはわたし達に歪められてしまっただけよ。人を罰するなんてことを考えているはずがないわ。わたし達の問題はわたし達だけで解決すべき」

「それではいつまで経っても争いはなくらない。今の人類に必要なのは変革だ」

「あなたの妄想に頼らなくても、人々は争いをなくすことができる」

「そう言い続けても人々は争いを止めようとはしなかった。たとえ妄言だと罵られても僕は計画を実行する」

「あなたは『マザー』すら説得できないのに人類を平和にすると言っているわ」

「新しいことを始めようとする人は得てして批判されがちなものだ。だが平和になってから人々は気付く。僕が正しかったことに。それは『マザー』も同じだ」

 森川が素早く繰り出した手は、わたしの意識の範疇を超え、抵抗する間もなく手首を掴まれた。彼の指からは力を感じられないが、ボルトで締められたかのように堅い。

「僕が『マザー』に飛び込んだのは君から逃げるためではない、僕が『マザー』の精神に取って代わるため、僕自身が『マザー』になるためだ」

 耳鳴りが地震に変わり、荒野が地響きと共に引き裂かれた。森川に腕を掴まれたまま、わたしの両脚は谷間から吹き上がる風と踊る。

「君も僕の中で一つになるんだ」

 崖際に立つ森川が指をほどき、わたしは再び浮遊感に包まれる。一瞬のうちに森川の姿が小さくなっていき、やがて視線の先で裂けた大地が口を閉じると森川の姿が完全に消えた。

 落ち続けるわたしの横から闇が這い上がる。一握の光も無く、黒色ばかりがわたしの視界を占める。目を開けているかどうかすら、はっきりしない。

 ふいに訪れた微睡みが意識と結びつき、わたしは身をゆだねる様に眠りについた。


「お母さん。怖いよ」

 風に揺られた梢の囁きに、僅かに通ったすすり泣く声がわたしの意識を呼び起こす。

 辺りは木々に囲われていた。空を枝から伸びた木の葉が覆い、だがすでに陽が沈み切っていることが伺えた。木の葉のさえずりに混じって、ひっきりなしに飛び交う虫の声音が彼らの存在を知らしめる。

 雑木林で目覚めたわたしの目に、影に落ちたはずの樹木の姿が鮮明に映る。刻まれた模様の一本一本を数えることをわたしの夜目は苦にしない。暗闇に潜むことこそが本質であるように感じられる。

「お母さん、どこ」

 わたしの体が声に反応して顔を上げた。「お母さん、お母さん」と、まだ幼さなさの抜けきらない声色は、ともすれば雑木林に吸い込まれそうになる程に弱い。

「お母さん、お母さん」開けた獣道を誰かが歩いている。「みゃー」と鳴く声も聞こえてきた。

 地面を這ったまま藪に突っ込む。隙間から頭を出すと、絶えず同じ発声を繰り返す声の主を見つけた。背丈も体格も樹木の半分もない。力のない足取りの彼は何かを抱えていた。

 彼がここにいる理由をわたしは知らない。なぜ彼は同じ発声をしている。彼の発声を聞いているだけで、体が重く感じられるのはなぜだろうか。彼を知るにはどうすればいい。わたしは自答する。彼を食べればいい。

 決断からは早かった。彼に狙いをつけると藪から飛び出す。一直線に目標に進むわたしの脚の足音を土と落ちた葉が飲みこんで消した。

 さらに脚を素早く前後させ、ひと息に彼の背後に飛びかかった。ただならぬ雰囲気に振り返った彼の震える瞳とわたしのものがぶつかった。

 少年だった。斑模様の猫を抱えている。わたしの視線は、戸惑って恐怖を隠すことのできない彼の瞳を捉える。抱えられていた猫は少年の手の中で暴れて逃げていった。悲鳴を上げる暇すら与えず、大きく開けた口で少年の体を飲みこむ。

 少年はわたしの体内で拳を突き立て脚を振り回す。だが、その必死の抵抗も削がれ、やがて動かなくなった。

 わたしは興奮している。人間を取り込むとわたしの中に新しいものが芽生える。新たな知識を得ることは、それ自体が例えようのない高揚感をもたらす。

 ぱきり、と割れる音が耳に届いた。それは暗闇の満ちた雑木林に似つかわしくない誰かが起こした音で、人間が枝を踏みつけた時に生じるものだとわたしは知っている。

 少年を体に内包したまま、近くの大木に手をかけ足をかけ枝をよじ登る。わたしの体重に枝がたわんだが、体からさらに数本の腕を生やし、どうにか大木の中腹に腰を落ち着けた。

 下方から二つの息遣いが聞こえ、すぐに姿を見せた。人間と犬だ。

 わたしは両腕を自分の口に突っ込む。体内から少年を引きずり出し彼の頭を握りしめた。すでに顔からは血の気が失せ、肌は無機質な色に変化していた。

 わたしの腕から滲み出した体液が、少年の顔の穴を通って体内に滑り込む。少年の目から黒い体液がいっぱいに溢れ出す。力なく腕を揺らす少年の体を、そっと樹上から垂らす。少年の両脚が地面に着いた。芽生えたばかりの感情がわたしをくすぐる。

 少しして犬が足を止めた。暗闇の中じっと少年の体に視線を注ぐ。数秒の間があって、人間の足音が止まり、わたしの用意した餌に光が当てられる。「満君か」

「満君か。俺は青年団の―だ。君を探しに来た」

 懐中電灯を持った男性は少年に歩み寄る。わたしは少年の脳内に這わせた体液に信号を与え彼の体を動かす。男性が歩を進め、その都度、少年の足も前に出る。つかず離れずの距離を保たせる。

 縮まらない少年との距離に男性はついに駆けだし、それを犬が体を張って止めた。

「クヌギ号、何をするんだ」と抗議の声を上げる飼い主に、二度、三度犬は吠える。あまりの鋭さに虫たちの演奏が静まり返った。

 飼い主を留まらせた犬は、前傾の姿勢を取ると歯を見せて低く唸り声を上げた。雑木林を駆け抜ける風は葉の擦れ合わせだけを運んでいく。

 犬の放つ緊張感が僅かに空気を震わせ、飼い主に伝播する。懐中電灯を少年の背中に向けていた男性は、何かを見つけたように光の筋に角度をつけた。わたしの真っ黒な腕に光が当てられる。

「何だ、こいつは」

 男性の目は大きく見開かれていたが、彼が放つ光は微塵も揺れることなくわたしを照らし続ける。隣の犬が吠えて牙が激しく上下し、粒になった唾液が森の地面に吸いこまれる。

 わたしはこの男性を知っている。以前会った時よりも大分若く、顔を走る皺の数はそれほど多くはない。だが既に貫禄のある風格が漂っていた。

「怪物だ」

 斎藤明彦その人だった。彼の持つ懐中電灯の強さが増し、目を開けることすら困難になる。両手をかざして遮ると、誰かがわたしの腕を掴んだ。光の帯の中に留まるわたしの意識をこの場所から引き剥がす。


 弱まった光帯の中で目を開けると裸電球が輝いていた。光を発する球体を見上げるわたしの頬を冷たい雨が打つ。夜空から降りかかる針のような細やかな雨粒は照らされて、銀色の幕を作る。

 見回すと周囲は住宅に囲われていた。家屋の窓に点いた明かりも少なく、かなり遅い時間であることが伺えた。足元を見れば、剥き出しの地面に雑草が姿を見せている。住宅と地面を遮るようにコンクリート塀が並んでいた。

 わたしの意識は空き地にて目覚める。

 横に滑ったわたしの視線は木造のアパートに向けられる。ほとんどの部屋の明かりが消えていたが、唯一、二階の端の部屋に明かりが点いていた。部屋には色あせたカーテンが引かれていた。

 ふっとカーテンが揺れ、その隙間から見えた指の動きをわたしは見逃さない。さらにカーテンから見えた、こげ茶色の瞳に心が色めき立つ。

 喜びを表すように踊り狂う四肢で雨を切ってアパートに駆け出す。目前に迫ったコンクリート塀を踏み台にアパートの壁にむかって跳び、衝撃と共に張り付く。

 カーテンの引かれた窓を見上げ、興奮のあまり体が捩じれそうになる。

 そっと窓ガラスに指を重ねる、カラカラと音を立てて開いた。春の寒風にカーテンが波をつくる。頭をカーテンに押しつけて部屋の中に入る。

 部屋の中に女性が立っていた。わたしを見た彼女は呼吸すら忘れたように固まっている。片時も瞬きをしない彼女の足元には本が転がっていた。

 女性の表情筋が醜く曲がり、口角が持ち上げられる様子がコマ送りされて、わたしの目に映る。口を開き切った彼女の喉の奥から、恐怖が声に乗って飛び出してきた。

「いやぁっ」

「きょうこちゃん」

 わたしの口から出た声はわたしのものではない。男性の太さと女性の鋭さが絡み合い、老人の枯れたものと子供の高い声が重なって層を作る。それが何層も繰り返され発され、果たしてわたしの声はおよそ人のものでは無かった。

「きょうこちゃん」わたしの歓喜に女性は悲鳴で答える。

 わたしは体を動かせずにいた。動かすことができるのは声帯だけで、目の前に新たな知識の塊がいるというのに、わたしは手足を出すことを拒否している。

 わたしはこの人の名前を知っている。この人の顔を知っている。とても若々しく、彼女の持つ愛らしさは、この頃から一分も変わっていなように思えた。

 ようやく出したわたしの片足が本をはじき飛ばした。わたし達の視線は共に本へと向けられる。些細な間が京子さんの硬直を溶かした。

 若りし頃の京子さんが体を翻し玄関に走り出した。黒く変色したわたしの腕は意識の支配を無視して彼女の背中へと伸び、足を掴んだ。

 前のめりに倒れてもなお、必死にもがく京子さんを引きずる。彼女の両腕は玄関へと伸ばされていたが、それは宙を掻くだけで彼女の体から玄関は遠ざかっていく。

「戸上さん」

 その扉が大声とともに跳ね返らんばかりの勢いで開かれた。

「あたしのアパートで何してんのよ」

 角材らしきものを持った女性が仁王立ちで姿を表す。彼女はわたし達を見るや否や、大股で飛び込み、持っていた木の棒を大きく振りかぶった。眼前に迫った茶色の物体を避けることは出来ず、わたしは顔の骨が軋むのを感じながら、後方に吹き飛ばされる。

「逃げるわよ」

 女性は京子さんを助け起こすと、手を取って玄関の向こう側に消えていった。

 わたしは口からだらしなく体液を垂らしながら、四つん這いで廊下を進む。指先に冷たさを感じる。床を流れるのは色を持った隙間風で、わたしの温度を奪っていく。玄関扉を開くと部屋のなかに冷気に混じって雪が吹き込んだ。

 

 冷気に顔をなぞられて、わたしは目覚める。

 辺りは薄暗く、どこか屋内の一室のようだった。目の前の扉はすでに開け放たれ、そこから冷気に混じって微小な雪が差し込んでいた。わたしの手には鍵束が握られてあり、それで開けたのだと分かった。

 横を見れば、階下へと続く階段が見られる。わたしの濡れた足跡が足元にまで続いていた。

 部屋に誰かが立っていた。雑木林の中であれだけ利いた夜目だったが、男の顔はモザイクが掛かったようにはっきりしない。ただ着ている制服から警察官であることは分かった。

 暗闇の中、男がおもむろに姿勢を低くした。男の背後で開いた窓から雪化粧の施された外の様子が伺える。口元からこぼれた吐息が色を持って闇を漂う。

 男が突進してきた。

 瞬きもしないうちに大きくなる彼の姿に、わたしは喜びに体を大きくうねらせる。男の体がわたしにぶつかる瞬間、彼は肩をわずかに突き出し、わたしの体を反動に階段へと激しく体を打ちながらも転がって消えた。

 わたしも後に続いて階段を降る。異様な程に足が重く、お腹に何かを抱えているようだ。どちゃり、どちゃりと水に濡れた足音が建物内に響き渡る。

「いがらしぃ、まってくれよぉ」落ちていった男を呼ぶ。

 わたしの中で違和感が頭を上げる。どこかで聞いた名前だった。

「いがらしぃ、くるしぃよぉ」

 階段を下りた先で男はわたしに立ちはだかる。衣服は乱れ、肩で息をしているが半ば獣のような気配を纏っていた。彼が手に持った包丁が闇夜に鈍く光る。男は右足を踏み込むと刃を立てて、わたしに迫った。

 距離を詰めた男の刃が深々とわたしに突き刺さった。彼は追撃のために包丁を引き抜こうとするが、わたしの体は彼の刃を飲みこんで離さない。ゆっくりと男の腕に体を這わせる。男は必死にもがくが、暴れるほどに彼の体は深くわたしと混じり合う。

 男の体を半分にまで取り込んだ頃、彼の瞳がわたしを捉えた。わたしは彼を知っている。五十嵐浩太が目の前にいた。わたしの知る兄よりも少しばかり若く見え、そしてまだ人間味が残っていた。

 わたしは自分の体を見下ろす。薄いビニール袋に詰められた黒い液体のような、わたしの体は鼓動に合わせて波をつくる。

 半身だけになってもなお、抵抗する兄はわたしに気付いていない。当然だと思う。今のわたしは怪物以外のほかでもない。兄が闇の中で独り戦うきっかけになった存在なのだから。

 わたしの意思を無視して体は兄を取り込み続ける。やがて兄の姿と声が消えると、兄はわたしの体の中で一つになる。心に欠けていた隙間が埋まり、わたしは穏やかに瞼を閉じる。このまま落ちていくことも悪くはないと思い始めていた。


「おいおい、どうなるんだよ。これ」

 五十嵐裕子を追いかけた武田達だったが、部屋に駆けつけた彼らを目前に、五十嵐裕子は自ら『マザー』に飛び込み姿を消した。立ちつくす武田耀司の前で、ホール部屋に鎮座する山のような古代変形菌の鼓動は穏やかなものに戻っていた。

 ほんの数分前の出来事だったが、彼は時の流れを失ったように部屋で茫然としていた。はっとして武田が横を見ると、五十嵐浩太は感情を失った顔で膝を地面につけていた。

「五十嵐。大丈夫か」

「あ、ああ。平気だ」五十嵐浩太の反応は少し遅れたもので、声色には表情以上に感情が感じられなかった。

 武田は周囲を見回す。黒々とした『マザー』の体に繋がれたケーブルの類は複雑に絡まり合いながら、床を占拠する機械に伸びている。そこから、さらに細いケーブルが伸び人間用の机の上にあるパソコンに繋がっていた。

 武田と共に森川を追いかけていた桜井が、そのパソコンの前に立っていた。

「あんたは何をしているんだ」

「森川の計画を調べている」

 キーボードを叩く桜井の顔にモニターが反射して映る。武田はそこはかとなく希望を抱いていたが、段々と桜井の表情が苦虫を噛み潰したようになり、まさかモニターを殴ったりはしないだろうなと心配になった。

「おい、あれ」

 五十嵐の呟きが二人の耳に届く。彼の指さす方を見れば、山のような『マザー』の体からバレーボールほどの球形が浮かび上がっていた。徐々に球形に凹凸が生じ、覆っていた黒い液体が重力に逆らって真横に引いていく。

 近づいた三人の前に大理石のような白さを持つ顔が表れた。まだあどけなさの残る子供の顔は『マザー』から伸びていた。

「君は」

 子供の瞼がゆっくりと開かれていく。黒一色の目に空色と紫の混じった瞳が純白の肌に映える。少年かあるいは少女か一見に判別の難しい顔は、三人に視線を巡らせると口を開いた。

「わたしは五十嵐裕子さんに宿った古代変形菌です」

 五十嵐浩太に吹き込まれた感情を武田と桜井は見逃さない。

「裕子は今、どうなっているんだ」

 血相を変えて飛びつこうとする五十嵐浩太をどうにか二人は抑える。隠れ家で感じていた心許ない様子は見受けられない。この底力があったこそ五十嵐浩太は今まで闘い抜いて来たのだろうと武田は皮肉にも感じていた。

「五十嵐裕子さんは森川の策略にはまり危機に陥っています。」子供は一瞬だけ驚いた表情を見せた。

「どうすればいい。俺たちに何ができる」「落ち着けよ、五十嵐」

「『マザー』を解放してください」

「どういうことだ」

「あなた方、人間が肉体と意識を持つのと同じように、我々古代変形菌にもまた肉体と意識が存在します。それは『マザー』も同じです」

「森川の計画は『マザー』を中心に据えた古代変形菌のネットワークの構築だろう。『マザー』を解放したら不味いんじゃないのか」

「いいえ。その逆です。『マザー』は森川の計画に賛同していません。森川は『マザー』の肉体を乗っ取り、自らがネットワークの中心になろうとしているのです」

「欲しいのは『マザー』の体だけということか」

 『マザー』の体から伸びた古代変形菌の管は地面に根を張りながら、部屋に開けられた穴から伸びて外に出ていっている。母体の穏やかな鼓動に合わせて伸縮を繰り返す管に森川の意識があることが信じられずにいた。

「森川の機械によって『マザー』の意識は幽閉されています。あれらを破壊すれば『マザー』は解放され、裕子さんの意識も復活するはずです」

 三人は巨大な『マザー』を見上げ、繋がられたケーブルへと視線を移し、そして机の上のパソコンへと顔を向けた。「あれを壊せばいいんだな」

 子供は頷いて返す。「お願いします。急いでくださー」

 突然、彼の顔が苦悶に呻き、吸い込まれるように『マザー』の体に消えた。驚く三人に聞こえてきた声は純粋なものとはまるで違っていた。

「どうして君達も、僕の考えを理解しようとしないんだ」

 『マザー』から発せられた叫びは部屋を反響し、思わず三人は耳を塞いだ。

 『マザー』の体表で慌ただしく波が起こる。ただならぬ雰囲気に三人が後ろに跳ぶと、そこに人の身長ほどの真っ白な鼻が突き出した。鼻下の筋が浮き出ると、唇が表れて顎が続く。顔の輪郭が露わになった時、すでに鼻から上のパーツは出そろっていた。

「邪魔をしないでもらいたい」

 山のような『マザー』の体表いっぱいを森川の白い顔が占める。見て取れるほどの憤怒を放つ彼の頭から、人を叩き潰すことを苦にしない程の太さの黒い腕が幾本にも生え、主の命令を待つかのように揺れている。

「まるでメドゥーサみたいだな」

「冗談を言っている場合か」

 頭から生えた森川の腕が振り下ろされ、三人は横に跳んで避ける。叩きつけられた床が凹み、空気の震えが武田の頬を痺れさせる。

「どうする」桜井が声を上げる。

 今のままでは『マザー』を解放することはおろか、自分の身を守ることすらままらない。武田は昔見た人を丸飲みにする大蛇の写真を思い出していた。空想の産物のような太さだったが、それが自分の目の前で鞭のようにしなっている。

「五十嵐っ」

 桜井の声に振り向けば五十嵐浩太が駆け出していた。森川がそれを見逃すはずがなく、五十嵐にむけて腕を振りかざす。五十嵐はまるで空気を察知するかのように体を翻し、上体をひねっては軽業師のように攻撃を躱す。

 武田は五十嵐の動きに妙な所があると気付いた。彼の走りは直線的で囮になるのだったら、もっと左右に跳んでもいい。部屋の出口にむかっているわけでもなく、まるで何かを見つけたかのようだ。

「五十嵐、危ないっ」

 武田の叫びと、同時に振り回された森川の攻撃を五十嵐が前転で躱した。床を転がった五十嵐が再び体を起こした時、彼の手に握られたものが一瞬、黒光りした。

「避けろっ」

 五十嵐の頭上に森川の腕が迫っていた。腕が風を切って振り下ろされる。駆けだした桜井が五十嵐の体を弾き飛ばし、寸でのところで二人は躱す。だがすぐに森川の別の腕が地面を薙ぐように払う。

 倒れたままの二人は咄嗟に両手を組むが、それでも衝撃を逃しきることはできず、床を転々と弾きとばされていった。

「もう、終わりだ」巨大な森川の唇が大蛇のようにうねり言葉を発する。

 武田の足元で黒光りするものが、からからと音を立てて回っている。それの正体に気付いた武田が急ぎ拾い上げ、引き金に指をかける。五十嵐浩太はこれに気付き、これを拾うために走り出したのだ。

「君達も僕の中で生き続けるんだ」

 武田の首を刈らんとばかりに森川の漆黒に満ちた腕が迫る。だが武田の目は別のものを捉えていた。引き金の人差し指を絞るように引いた。

 銃声が部屋に轟いた。

 森川の腕が力なく床に落ちる。振り回された勢いのまま床を滑り武田の足元で止まった。

 森川は大きく目を開き武田と、硝煙を吹いた彼の握る拳銃の向いた方を見た。

「お前の負けだよ、森川」

 床を占めていた機械群から煙が上がっていた。武田はさらに銃弾を浴びせる。その身に銃弾を受けたように森川が顔を歪ませる。機械群から煙が上がり、そして火花が何度か弾けると機械たちは活動を停止した。

「武田あぁ」

 森川の顔が黒い液体に包まれ、『マザー』に飲まれる。あれだけ振り回していた腕たちも悶えるように体を震わせると『マザー』の体に引き込まれ戻って行った。

「五十嵐、桜井」武田が二人の元に駆け寄る。

 ホールに再び静寂が訪れる。『マザー』の鼓動も落ち着いたものになり、武田の銃弾を浴びて半壊した機械群が煙を吹いて自己主張しているだけだった。

「大丈夫だ。骨にヒビがはいっただけだ」「こっちも同じだ」「それって、結構な重傷だろう」「慣れっこだ」「ああ、俺もだ」「そうか」

「あとは、あいつに任せるしかないか」

 武田は腰を落とす。五十嵐と桜井が体を起こす。三人は巨大な『マザー』を見上げていた。

「頑張れよ、五十嵐裕子」



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