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ダーク・イーター  作者: loveclock
解決編
16/19

ダークイーター⑤

 暗い階段を武田耀司は一歩ずつ踏みしめるように登っていた。ただでさえ目が利かない上に、両手はお弁当とペットボトルで塞がっている。五十嵐浩太の面倒は俺が診ようと、出ていった桜井たちには胸を張ったが、下手をすれば情けない結果につながりかねない。

 桜井曰く、この隠れ家は余り使われることがないらしい。そんな家に深夜に突然、明かりが点けば周囲は怪しむだろうと言って、桜井はランタンやら懐中電灯を机の上に並べるだけだった。せめてヘッドライトの類はあって然るべきだろうと武田は憤慨していた。

 みしりと嫌な音を聞かせる木目の階段を昇り切る。ふすまの向こうには五十嵐浩太が眠っているはずだった。一度ペットボトルを床に置くと横にふすまを滑らせた。

 暗い部屋の中で五十嵐浩太は窓辺に寄り添い、外を見ていた。

「五十嵐」

 武田の独り言のような呼びかけに五十嵐浩太がゆっくりと振り向く。彼の目は明かりの消えた中でも獣のようにこちらを捉える。しばらくの間、武田をじっと見ていたが思い出しように空気を緩めた。

「久しぶりだな。武田」

 五十嵐は一つ一つ言葉を絞り、選び出すように発する。掠れたその声は二人きりでなければ届かなかっただろう。

「もう起きても大丈夫なのか」

「ああ」

「そうか、よかった」武田は傍に腰を落とす。お弁当と飲み物をさりげなく近づけるが、彼の視界には入らないようだった。

「元気、だったか」

 五十嵐の言葉に武田はしばし瞬き、笑みがこぼれるのを抑えられなかった。

「ああ、ずっとな」

「すまなかった」

 予期せぬ言葉に武田は反応を見失った。まさか、そんな事が聞けるとは露にも思っていなかった。

「いや、気にするな。俺が勝手に着いていっただけのことだ」

 かつて武田の前でナイフを振るっていた男は、まるで別人のような佇まいでいる。これが本来の五十嵐浩太の姿なのかもしれない。武田はこっそりと五十嵐裕子に感謝を述べていた。よく俺の頼みを成就させてくれた。

 五十嵐がペットボトルに手を伸ばし、武田はそれを手渡す。キャップを外すと五十嵐は口に少しずつを含みながら喉を潤す。

「裕子はいるか」

「いや、桜井と出発した」

 五十嵐のまとう空気が一変した。武田はほとんど反射的に返した自分の言葉に後悔した。

「俺もいこう」

「待て待て、無理をするな。お前、ぶっ倒れたんだぞ。まだ休んでいたほうがいい」

「裕子は撃たれた。俺をかばって」

「それは、そうだが。だけどな、お前はずっと独りであの化け物たちと戦ってきた。だけどな、今は俺たちもいる。少しくらいは休め」

 立ち上がった五十嵐の両肩を抑える。武田は、まだ不安定さの残る五十嵐を難なく抑えることができたが、それがまた彼を不安にさせた。

「休めない。裕子の体に、体には―」

「ああ。古代変形菌がいる」

 五十嵐が頭を抑える。低く呻き声を上げるが、それは獣のものよりも、隙間風のようにか細いものだった。

「武田、裕子は人間なのか」

「人間だよ。間違いなく」

「俺が殺めてきた者の中には、怪物になった者もいた。教えてくれ、裕子もそうなるのか」

 武田は喉にまでせりあがって来た言葉を無理矢理に飲みこんだ。五十嵐は様子から察したかのように視線を落とした。

「ずっと何も考えていなかった。俺はただ切っていた」

 階下のキッチンには彼のナイフが置いてある。五十嵐の眠っていた間に、刃に流水を当て続けたが遂に黒い液体が完全に落ちることはなかった。恨みがこびりついたようだった。

「彼らも同じ人間だった」

 五十嵐の表情は歪んでいた。ただ無心に己の敵を切り刻んでいた獣が、ようやく人と交わったことで後悔に蝕まれている。再び形を作りつつあった五十嵐の心に纏わりついて砕こうとしている。

「身勝手に思うか」

「俺には分からない。だが、分かっていたとしても口には出さないとは思う」

 武田は自身に言い聞かせるように言葉を選ぶ。選択を誤れば五十嵐の心は二度と元に戻らない。

「もう終わったものは帰ってこないんだ。それがいずれは怪物になる運命だったとしても」

 暗い部屋の中で人に還りたい獣は瞳を震わせ、赦しを求めて人の言葉にすがりつく。

「全てが終わったら、罪を償えばいい」

 五十嵐の体から嗚咽が溢れ出す。

 武田の尻ポケットが震えた。画面には電話番号だけが表示される。武田は迷いなく画面をタップする。聞こえてきたのは桜井の声だった。いくつかの受け答えを繰り返すと、武田は通話を終わらせる。

「だけど、その前にまだやるべきことがある」

 武田のスマートフォンにメールが届く。ファイルを開くと、五十嵐裕子と桜井が板野警備会社で調べた『マザー』の予測地点が記載されていた。

「お前の妹の助けになるんだ」


「落ち着きのない男だ」

 板野警備会社のビルを出たところで桜井さんは携帯電話をしまう。名前がなくとも誰のことを言っているのかが、分かってしまう自分がどうしてか情けなかった。

「昔からずっと、あんな感じです」車に乗り込む。

 ビルで手に入れた地図帳と印刷した森川の計画表を照らし合わせて、『マザー』のある場所は大方の目星はついていた。スマートフォンで調べたその場所は中規模のビルの建設現場だった。

「だが、仕事はできる」

 運転席に座った桜井さんがニヤリと笑う。隠れ家でわたしがキッチンに入った時も、武田先輩と特別に険悪であるという風には見られなかった。仲が良いという程ではないが、意外と馬は合うのかもしれない。

 以前とは桜井さんの持つ雰囲気が違って見える。どこか澄み切った彼の横顔はもっと遠くを見据えている。そう思ってふと、わたしに中で気になったことが浮かび上がる。

「対策班の方に連絡はしましたか」

 桜井さんはちらりと視線を横に滑らすが、すぐにまた前を向きなおした。キーを回してエンジンをかける。

「対策班の方たちには―」

「死んだ。俺が殺した」

桜井さんの言葉に不意打ちを受ける。言葉がでない。

「君が連中に連れ去られた後、俺は応援を求めて対策班のオフィスに戻ったが、すでに荒らされた後だった。そこで君のお兄さんと、そして古代変形菌の怪物に遭遇した」

 淡々と事実を口にする。それ以上にもそれ以下にも言葉は意味を持たない。あるいは持たせないようにしている。

「俺の同僚や上司たちは皆、巨大化した古代変形菌にほとんど吸収されていた。そうなったらもう助ける術はないだろう」

「今もオフィスは」

「多分、そのままだ。君のお兄さんと合流し、急ぎ君達のもとに駆け付けたというわけだ」

 桜井さんはハンドルを握ったままだ。軽ワゴンは主人の命令を待ち、体を震わせている。エアコンが車内を温める。わたしは口を開くことができない。何を発してもそれは軽薄なものになってしまう。

「多分、あの男だろうなと思う。君を堂島家から助け出した時、俺が玄関で倒した男だ。君のお兄さんが古代変形菌を宿した者を探しだせるように、奴らにも互いに分かるものがあるのだろう。多分、それが原因だ」

 桜井さんは小さく息を吐き、何かを呟くかのように口を小さく動かしたが、エンジン音にかき消され、わたしの耳に届くことはなかった。

「もし、君が冥福を祈ってくれるのならば、目の前のことに最善を尽くしてくれ。彼らもそれを望んでいるはずだ」

 桜井さんはアクセルを踏み込む。彼の固く結んだ唇は僅かに震えているように見えた。


 暗い車内でわたしのスマートフォンが輝く。デジタル表記の時計はあと数時間もすれば陽が昇ることを知らせた。

 助手席から見える都内の道路は閑散としていた。時折、流しのタクシーが対向車線を行き、こんな時間になっても乱立するビル群の窓は煌々としていた。歩道には、とぼとぼと人の歩く姿が見える。

 地図を見る限り目的地である建設現場は都心から少しだけ西に行った所にあった。建設計画によると来年の春辺りに中規模のオフィスビルが建つらしい。立てた予想が正しければ、森川の計画の根幹である『マザー』があるはずだった。

「もうすぐ着くぞ」

 桜井さんの言葉通りに、次第に道路の左手側に真っ白な仮囲いが見え始める。温度をもたない純白の鉄壁は何もかもを寄せ付けないような威圧感を持っていた。

 その鉄壁に囲われて建築途中の建物が天守閣のようにそびえ立っていた。全体を防止用ネットと足場に覆われている。少し背伸びをすれば組み上げられた鉄骨が見えるが、建物の半分ほどはコンクリートが壁を作っていた。

「どこかに入り口があるはずだが」桜井さんは速度を緩める。

「一周回ってみましょう」

 桜井さんが再び加速させる。二回左折すると左手正面に灰色の従業員用の通用口が見えた。街灯に照らされて寂しくも存在を主張している。

 桜井さんは正面を見据えたまま車を停めた。わたしにもその理由が見えていた。

「いかにもという感じだな」

 通用口のそばに数メートル間隔で監視カメラが設置されていた。いたずらを防ぐために設置している所が増えていることを知らないわけではないが、それでもただの建築現場には多すぎる。

「こんなに監視カメラが必要でしょうか」

「当たりだな」

 その台詞に鼓動が早まる。気が昂り思わず唾を飲みこんだ。

「二人の到着を待つか」

「武田先輩はともかく、兄はもう―」

 はっとして桜井さんを見る。わたしを見つめる桜井さんの視線は優しいものだった。彼は軽く息を吐くと、固まっていた肩をほぐすように動かす。

「武田君は君が一番危ない場所にいると言っていたが、俺は奴の計画を止めることができるのも君達だけだと思っている」

 桜井さんが自身の背後に手を回して拳銃を取り出した。一度、弾倉を確認するとわたしの手を取って握らせた。

「俺が気を引く。君はその隙をついて中に入れ」

「だったら、これは桜井さんが持っているべきです」銃を送り返す。

「いくら君が特別な力を持っているからといっても、それが銃に勝るかと言われれば、絶対ではないだろう。選択肢は多い方がいい。使うかどうかは置いといてな」

 わたしの納得のいかない顔に桜井さんは笑顔を見せる。「君は降りて待っていてくれ」車のドアを開けると冷気が車内に吹き込んだ。「少し離れていろよ」

 指示通りに軽ワゴンから離れる。桜井さんは最後にもう一度わたしの目を見る。軽ワゴンが猛烈な勢いで排気を始めた。深夜のビル街にけたたましく軽ワゴンが唸り声をあげる。

 地面を掴み損ねたタイヤが回転し白い煙を巻き起こす。悲鳴にも似たタイヤのスリップ音が消えた時、軽ワゴンは白い弾丸となった。残像を残すほどの速度で直進した白い弾丸は大きく弧を描き仮囲いに衝突した。遠目にもエアバッグが爆発したのが見える。

 天守閣を守っていた金属製の仮囲いは叫び声を上げて折れ曲がり、そのいくつかが軽ワゴンにもたれかかってフロントガラスを割った。

 軽ワゴンのフロントが大きく凹む。運転席は向こう側になっているせいで桜井さんの様子が分からない。

「出て来いよ。森川の人形ども。俺はここだぁ。ここにいるぞぉ」

 軽ワゴンの反対側から桜井さんが姿を見せた。ほっとしたのも束の間、通用口から黒ずくめの男たちが次から次へと姿を現す。わたしは思わず物陰に姿を隠した。

 桜井さんはわたしを見つけると頷き、走り出した。黒ずくめの男たちが桜井さんを見逃すはずはなく彼の後を追いかけていく。後には仮囲いに追突しボンネットから煙を上げる軽ワゴンとわたしが残された。

 通用口に駆け寄る。扉の前に立ち、ドアノブに手をかけるが回らない。何かしらの仕掛けで、自動で鍵が掛かるようだ。

―こっちです

 焦るわたしの中で声が反響する。

―仮囲いを見てください

 軽ワゴンの衝突で仮囲いの間に隙間が出来ていた。隙間に手を入れ、力を込めて押しのける。金属製の壁があっけなく横に倒れ、暗闇に満ちた中の様子が露わになる。

「ありがとう」

 聞こえるように声を出して、闇の中へと足を踏み出す。足の裏から気配が昇ってくるような気がした。


 想定していた以上に建築現場は明るかった。周囲には街灯もビル群の明かりもある。奥まったところまでは、はっきりしないものの足元や頭上を目視で確認できるくらいには光源が確保できていた。

「誰かいるのか」

 突然、聞こえてきた声に動きが止まる。知っている者の声ではない。すぐそばのコンクリートの柱の影に飛び込み、両手で口を塞いだ。

「妙な音がして下から上がってきたんだが、何か知っているか。爆発したような音だがよ。様子を見に行ったきり帰ってこないやつもいるし」

「地下だ」心の裡でわたしは叫ぶ。森川の計画は地下鉄の鉄道網を利用するものだった。地上部分は奴の計画に関係ないのだ。

「おい、聞いているのか」

 声の主はこちらの場所までは分かっていないらしい。男の足音がわたしの鼓動と同調する。近づいてくる男の足音を鼓動がかき消す。耳元まで心臓が跳ね上がりそうだ。

―立ってください

「返事くらいしろよ」 

 柱を背もたれにそっと立ち上がる。

「お前、うちの社員じゃないな。どこだ、どこにいる」男の声が荒ぶる。

―貴方のすぐ右横にいます。彼はあなたとは反対の方向を見ています。

「社長に報告をする。どこに逃げても必ず捕まえてやるぞ」

―右足を出して

 素早く右足を出す。踵に固い感触があって、悲鳴と共に固い地面を重いものが滑る音がした。わたしの出した足に引っかかって男が転んだ。

「お前っ」

 黒ずくめの男の姿が街灯に照らされて明確になる。転んだ衝撃でサングラスが外れ男の真っ黒な目が露わになった。男は片膝を着くも、すでに拳を握り込んでいた。すぐにでも塊のような拳を繰り出すのだろう。

―左手を開いて顔の前に出してください

 男の放った石のような拳は、わたしの眼前で左手の中に収まった。衝撃が手の甲を貫き、痺れとなって腕を伝う。男は目と口を大きく開けて茫然としている。

―左手を大きく回して

 瞬時に離した左手を男の手首に掴みなおす。腰を落として左手を大きく振り回した。男の体が残像を伴って大きく錐揉み回転する。男は地面に背中から落ち、呻き声を上げると動かなくなった。

―ナイスファイト

「どうもありがと」

 倒れた男の元に駆け寄る。男の耳に指を入れると、以前と同じ要領で指先に意識を集中させる。男から流れた痺れが瞬く間にわたしの腕を伝って脳へと昇ってくる。男の記憶がわたしの瞼の裏に流れ込んでくる。

 男の地下の通路を練り歩く視界が瞼の裏に浮かびあがる。男の記憶の中に特に厳重に施錠された扉が映った。扉の前には歩哨の代わりか特に大柄な黒ずくめの男が立っている。扉が開き、伽藍堂の部屋に背後から照明を浴びた、巨大な古代変形菌の影が姿を映し出される。

「やっぱり。予想はあってた」

 肩で息をする。立ち上がろうとして頭がふらついた。そのままコンクリートの柱に体を預けて息を整える。目元を拭うと袖に黒い跡が染みついた。

―大丈夫ですか

「このぐらい何でも無い」

―前方に進んで右を曲がってください。途中転がっている鉄パイプの束に気をつけて

「分かった」

 隣人はまるで暗闇が見えているかのようにわたしを導く。仄暗いビルの中を隣人の指示に従いつつ進むと地下へと続く階段が姿を現した。

「ここからが本番ってわけ」

 階段の遥か下方に見える僅かな蛍光灯を目指し飛ぶように下っていく。段々と気配が濃くなっているような気がしていた。


「手間取らせやがってよぉ」

 黒ずくめの男が振り回した腕が、桜井の顔を歪ませる。男は幾度も拳を振り、その度に桜井の体が左右に振られる。倒れそうになる桜井の体を、黒ずくめの男たちが両脇を抱えて支える。男が最後に顎を殴り上げ、口から血が舞った。

 街灯の明かりにすら隠れる路地裏で桜井は血と唾が混じったものを垂らしていた。アスファルトには抜け落ちた桜井の歯がいくつか転がっている。

「お前の仲間はどこにいる」

 桜井の片目はすでに腫れあがっていた。残りの方にも切った額から流れ出た血がかかり、視界の半分が赤く染まっている。何度も殴られた弾みで、口の中のあちこちが切れていた。口を閉じても抜けた歯の隙間から風が入って滲みる。

「さっさと吐いた方が楽だぜ」

 男が桜井の腹を殴る。嗚咽と共に桜井の体が大きく曲がる。

「さぞかし、無謀な連中だろうなぁ」

 桜井を痛めつけるために黒ずくめの男が振りかぶった拳は、背後から伸びた手に止められた。何者かの手は震えている。黒ずくめの男の腕の軋む音が聞こえてきそうだ。

「ああ、無謀だぜ。捕まった仲間を助けるくらいにはな」

 黒ずくめの男が後頭部に拳を受け倒れた。桜井の両脇を抱えていた二人の男は瞬時に戦闘態勢を取るも、その二人も背後から何者かに殴られて崩れた。

「待たせたな。桜井」

 暗闇に武田耀司と五十嵐浩太が立っていた。桜井は思わず、苦笑した。「どうしてここが」

「俺には奴らの居場所がわかる」五十嵐浩太が答える。

「そうだったな」

「五十嵐はどうした」武田が手を伸ばした。

「先に行かせた。俺は囮だ」桜井は差し出された手を握り返す。「まだ死ねないな」

「なんか言ったか」「いや独り言だ。気にするな」

 桜井の視線の先で五十嵐浩太はほんの少しだけ唇を持ち上げていた。

「行こうぜ、タクシー待たせているんだ」

 桜井は肩を貸そうとする武田の申し出をやんわりと断る。嫌というほどに顔は殴られたが、それ以外にほとんど傷はない。走る分には問題はないように思えた。

「五十嵐君、ナイフは」

「俺はもうナイフは使わない」そう口にする五十嵐の目に迷いはなかった。

 三人は暗い路地裏を駆け抜ける。大通りに待たせたままのタクシーに飛び乗ると五十嵐裕子の元へと急ぐ。


 階段を降り切り、中途半端に開かれたままの扉を押し開けた。中に踏み入れると地下の様相はまるで地上とは異なっていた。病院のように清潔感のある白い壁に人感センサーのLEDライト。建築途中の地上とは比べるまでも無く完成していた。

―まっすぐに進んでください

 地下通路に入ってすぐ、目の前の曲がり角から黒ずくめの男が表れた。わたしを見つけて男は戸惑い、だがすぐに声を上げた。「侵入者だ」

 わたしは腕を伸ばす。黒く変色したわたしの腕は男の頭を掴むと、その勢いのまま男を壁に叩きつける。男は壁にもたれたまま、ずるりと床に落ちた。

 通路の奥から、黒ずくめの男たちが人感ライトに照らされて走ってくる。臆する必要はない。わたしには彼らを打ち倒す力がある。男たちにむかって走り出す。黒く変色させた腕を伸ばし、男たち目がけて叩きつける。

 一度目の攻撃を受けても倒れなかった男たちに今度は脚を伸ばし振り回す。男たちの脛を打ち、彼らがひっくり返った。その頭上を跳び超える。

―正面の突き当りを左に曲がってください

 迷路のように複雑に入り組んだ通路をわたしの中の隣人は迷いなく導く。時折、角から飛び出してくる男を黒い腕でいなす。息が上がって頬を涙が伝う。だが足を止めるわけにはいかない。

 通路の幅が大きくなっていく。この場所には見覚えがあった。倒した男の記憶で視た景色だ。記憶には特に厳重に施錠された扉と、それを守る守衛がいたはずだ。そしてその扉の奥にわたしの目的のものがある。

 通路の果てにその扉が見えた。錆び色の観音開きの扉の前には、記憶の通り大柄な男が立っていた。

 大柄な男はわたしの姿を認めると走り出した。地割れが起きそうな程の足音が迫りくる。わたしは腕を振りかぶり、男に目がけて叩きつける。

 男は通路の途中で急停止すると、腰を深く落とした。不味いと思った時には、男はわたしの攻撃を躱し、両腕でわたしの黒い腕を抱きかかえた。

 男はそのまま、わたしの腕を振り回す。慌てて腕を元の長さに戻すが、それも間に合わず通路の壁に顔を激しく擦りつけられる。

 男は抱えていた腕を放り投げ、わたしの意識と体が廊下を転がる。男は瞬く間に距離を詰め、咄嗟に組んだわたしの腕を蹴り飛ばして弾くと、馬乗りになった。

 間髪入れずに男が拳を振り下ろす。頭を動かし寸でのところで躱す。男の拳が通路の床を凹ませ破片が舞った。

 股間を蹴り上げるが、男はびくともしない。むしろ笑ってわたしを見下ろす。男の両腕がわたしの首を締め上げる。ちぎれそうなほどの圧力を感じる。頭の中に滞留した何もかもが限界を超えて爆発しそうになる。

―手を伸ばしてください

 両手で男の頭を鷲掴みにする。だが男は笑みを強くした。わたしの手に力が入らないことを分かっている。黒い指の合間から綺麗に並んだ真っ白な歯が姿を見せる。

 男の顔の穴という穴に指を伸ばす。わたしの意識がちぎれるのが先か、分断されそうな意識を指先に集中させ、そしてわたしの指は男の頭の奥底に到達する。

「うああっ」

 叫び、男の脳内に入った指に力を込める。男の神経に一気にわたしの記憶と意識を流し込む。指先が灼けつきそうだ。耐え切れなくなった男が白目を剥いて口から黒い泡を吹いた。操り主を失った人形のようにふらふらしている。

 馬乗りの男の体を押すと力なく倒れた。男から逆流した痺れがわたしの全身を蝕む。酸素が足りず、視野が霞んでいる。せがむ肺に答えるべく大きく口を開けるが、今度は体が渇きそうだ。

 棒になった足で錆び色の扉の前に立つ。電子錠になっていた。指を電子錠の穴に入れる。指先が痺れて電子錠がショートする。痺れの残る腕で重い扉を押し開けた。

 目の前に広大な空間が広がった。部屋の中央に、照明に照らされて山のような古代変形菌が鎮座していた。『マザー』がそこにいた。彼女の鼓動が部屋を満たしている。ごくゆっくりとしたものだ。中にいるだけで、わたしの鼓動も同調していくようだった。

「早かったね」

 タブレットに映っていた男がそこにいた。ゆるくかかったパーマに短く整えてある顎髭の男は回転椅子に腰かけ、不気味に微笑んだ。

「森川」

「初めましてではないか。でも不思議な感じだね」

 森川の机にあるパソコンからはいくつもケーブルが伸び、それらが床を占拠する機器を経由して『マザー』へと繋がっていた。

「君が倒した彼はUFCの選手でもあったんだよ」

 伽藍堂のような空間には穴が三つ開いていた。『マザー』の体から伸びた管はそこから外に出ていっている。おそらくは地下鉄の線路へと続いているのだろう。

「さて、君は何をしにここへ来たのかな」

「あなたを捕まえに」

「できるかな」

 森川の頭に目がけて腕を伸ばす。高速で迫ったわたしの黒い腕を森川は難なく掴んだ。掴まれた腕の指を伸ばし森川の耳の穴を目指すが、それもわずかに届かない。

「なるほど。そうやって彼を倒したんだね。確かにパワーでは彼には勝てないだろう。だがね」わたしの指の踊る様を森川はのぞき込む。

 森川がわたしの腕を掴み引っ張り上げる。体が宙を舞い、そして床に叩きつけられる。背中を打ちつけられ、目に火花がちらついた。わたしの服から何かがこぼれ落ちて、からからと音を立てて回転する。

 拳銃だ。体で隠すように急ぎそれを拾い上げる。

「女性に手を上げることは嫌だが、僕の計画の邪魔をするのならば、それも致し方ない」

 森川は気付いていない。ゆったりと席から立ち上がると、わたしに歩み寄る。密かにグリップを握った。

「なにか隠しているのか」

 眉をひそめた森川が足を止めた。すかさず銃口をむけ、人差し指を引く。破裂音と共にわたしの体を瞬間的な衝撃が伝う。

 森川の頭が果実のように弾けた。あたりに森川の欠片が飛び散る。しばらくの間、ふらふらと立っていたが、力を失ったように背後に倒れた。

 『マザー』の鼓動とわたしの吐く息だけが部屋に聞こえる。森川の体はぴくりともしない。

「なるほど正確な射撃だ。君たちは随分と仲が良いように見える」

 森川がゆっくりと起き上がった。頭の半分が黒い塊に変化している。剥き出しになった歯茎が上下し隙間から舌がうねる。

「まだ充分とは呼べないが、計画を実行に移すとしよう。君は危険だ」

 森川の体が黒く溶けていく。液体はまとまり始め楕円形の塊になると脚を生やし『マザー』へとむかっていく。

「待て」拳銃を撃つが、森川だった古代変形菌は巧みにそれを躱す。

 森川は大きく跳ねると『マザー』の体に飛び込んだ。森川の体が『マザー』と溶け合い一つになっていく。

 『マザー』の体が大きく震えた。彼女の早まった鼓動が部屋を揺らし、わたしの体を揺さぶる。彼女から伸びた管が鼓動ごとに太さを増していく。脈を打ち、外界にその存在を知らしめようとしている。

「裕子」

 声の方に振り返る。扉から兄たちが部屋に入ってきていた。

「五十嵐、逃げろ」武田先輩は半泣きだ。

 今一度『マザー』を見上げ、膨れ上がる彼女を前に深く息を吐いた。怖くてたまらない。自分がどうなるのかも分からない。でもあいつを止められるのは、多分わたしだけだ。

「行ってきます」兄たちに微笑む。

 『マザー』にむかって走り出す。彼女の腕がしなってわたしに迫る。横に飛び、前に転がる。手を着いて立ち上がる。足を止めない。止めてはいけない。

―跳んでください

 『マザー』を目前にわたしは跳んだ。文字通り、宙を跳んでいる。次第にわたしの視界を『マザー』が占めるようになり彼女に体に手が触れる。ゆっくりと体が飲みこまれていく。柔らかく暖かった。

 閉じていく瞼に抗い、どうにか見えた景色は悲痛な顔で駆け寄る兄達の姿だった。


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