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ダーク・イーター  作者: loveclock
解決編
15/19

ダークイーター④

 耳のまわりを漂う静かな音色は一定の間隔で寄せては返している。潮の音だと気付くまでにそう時間はかからなかった。

 目を開くとわたしの視界一杯を海が占めていた。見上げれば鼠色の空に月が輝いている。月のまわりに漂う雲は霞のようで、月にかかっては輝きを柔らかくする。

 あたりを見回す。斜めになった艦橋が目に入った。お尻の感触は固くて冷たく、わたしが目覚めた場所は同じように斜めになった甲板の上だった。沈みかけた甲板の終わりで波が白い泡を出したまま固まっている。

 わたしはこの場所を覚えている。以前、来た時は森川の部下に捕まった後だった。その後、板野警備会社のビルで目覚めた。

 やはり時の流れがないようだった。月の明かりや波の音がわたしに届いても、視界一杯に広がる夜の海は絵に描かれたように変化がない。それでも不思議な事は恐怖はない。

「こんばんわ、五十嵐裕子」

 かけられた声に振り返る。月に照らされて、禿頭に立派な髭を蓄えた男性と黒い液体にまみれた少年が手を繋いでわたしを見ている。二人の表情は穏やかで、とても幸せそうだった。

「あなた達が古代変形菌なの」

「そうです」禿頭と髭が特徴的な男性が口を開いた。「もう少し正確に言えば、あなたに警戒心を持たれないために、私の記憶から呼び起こし姿を借りたのが、この二人なのです」

「ここは、あなたの記憶の世界なのね」

 わたしはこの二人を覚えている。以前、訪れた時わたしはこの二人にかけられた声で自分を取り戻した。そして現実世界に帰っていった。

「そうです。ここは私の記憶と裕子さんの知識をお借りして作り上げた精神世界。裕子さんが意識を失った時に、私が貴方の意識を招くことで構築される世界なのです」

 口を開いた少年の顔は蒼白そのものだったが、それがかえって彫刻のような美しさを印象づける。本来、彼の白目だった部分は綺麗に黒く染まっていたが、瞳は明るい紫色の混ざった空色に輝いていた。

 両手をついて立ち上がる。思っていた以上に体が軽く、バランスを崩しそうになったわたしを古代変形菌の二人が手を伸ばして支えてくれた。

「ありがとう。わたしの中の隣人さん」

 二人は一瞬、驚いたがすぐにまた微笑んだ。「いい響きですね。隣人さん」

「隣に座ってもいい」と尋ねると二人は、一人分の間を空けて腰を落とした。わたしもゆっくりと続く。わたし達は甲板から並んで海を眺めている。

「拒絶されると思っていました」

「自分でも驚いているくらい」

 わたしが笑って返すと、二人はほっとしたように頬を緩めた。今までのは緊張を持った微笑みだったのだろうか。意外と人間臭いところがあるのだなと思い、そういえば、この世界はわたしの精神世界でもあったと思い返す。

「あの時、わたしに声をかけてくれたの、あなたよね」

 武田先輩と再開した時を思い出す。対面した黒ずくめの男と戦う契機になったのは不意にかけられた彼の言葉だった。

「そうです」と二人は俯いた。「余計なお世話というものでしたか」

「いいえ。あなたが声をかけてくれなかったら、もっと悪い状況に陥っていたかもしれなかったわ。本当にありがとう」

 わたしの言葉に二人は顔を上げた。微笑みがどこか誇らしげなものに変わっていく。わたしの中に暖かいものが広がっていく。

「不思議に思っていたのだけど、この景色はどこのものなの」

「ここは一九七六年のインド。ムンバイの沖合です。私の親はここで人間を知りました。この姿を借りた親子、アレクサンドルとユーリを吸収して」

「人間を知った」

「はい。私の親となった変形菌はソビエトで発見された個体でした。彼はそこで研究されていましたが、まだあなた達が自我と呼べる程のものは持っていなかったのです。ですが事件が起きました。この少年、ユーリを吸収したのです」

 ユーリ少年の顔に影が落とされる。見上げれば姿をはっきりさせた雲が月を覆っていた。影の中でユーリの空色の瞳が妖しく踊る。一対の青色のホタルが影に舞う。

「そこで初めて自我を得ました」

「森川が言うには、古代変形菌たちは最初から自我を持っている、らしいけど」

「それは正確ではありません。本来、私達は人類の想像したような意識を持ってはいません。これらは全て人を吸収した古代変形菌の新しい変化なのです」

 雲が流れ、再びユーリの顔に月光が指す。輝きを取り戻したユーリの瞳は夜の海を貫くような眩しさを持っている。

「私の親を研究していた、ユーリの父親でもあるアレクサンドルは逃亡を図りましたが、結局この地にてユーリと共に生涯を終えることを選びました。二人を吸収した私の親は海中に没しましたが、漂着した先の土地で子実体を作り、世界に胞子を撒いたのです」

 今度、口を開いたのはアレクサンドルの方だった。真っ黒に焼けた肌に白髪の混じった口髭は彼に対する印象を学者から遠ざけているほどだが、やはりというべきか、仕草や佇まいにそれらしきものは感じていた。

「世界中の古代変形菌は皆、同じようにして人を吸収し自我を得たのね」

「はい。ですが、一部の古代変形菌は人を吸収した結果、争いなどの負の側面ばかりを知り、そこにばかり影響を受けてしまいました」

「それが今までの事件につながるのね」

 二人は頷くだけにとどまった。先ほどまで見せていた月にまた雲がかかる。二人の表情も曇り、わたしまで暗雲とした気持ちになってしまう。

「どうして、それを知ることができたの」

「私は一時期、森川が管理する『マザー』と呼ばれる巨大な変形菌と繋がっていました。『マザー』自身もまた、世界中に散っていた様々な変形菌たちの集合体であり、それで私は受け継がれた情報を知ることができたのです」

「待って、じゃあ森川はその『マザー』を使って計画を考えているのね」

「はい。彼の計画の根幹はそこにあります」

 わたしは確信に手を握っていた。得た情報を念仏を唱える様に繰り返す。必ず武田先輩に伝えなくてはならないと。

「心配しなくても、忘れませんよ。」

 アレクサンドルの眼差しは落とされた影の下であっても柔らかだった。隣を見ればユーリが同じような表情を浮かべる。わたしは頬が熱くなるのを確かに感じた。

「こんなことをあなたを前にして言うのも気は進まないのだけど、わたしの時間は限られたものだし、できる限り早くこの事を伝えないとね」

 わたしの言葉を聞いた二人は人が変わったように勢いをつけて迫る。わたしは思わず仰け反った。

「諦めないでください。気を悪くされるかもしれませんが、わたしは変形菌としてこの地球に生きていたいのです」

 森川の計画によれば、わたしは何時になるかは分からないが、そのうち人の姿を捨て、巨大にも膨れ上がった古代変形菌に変化するらしい。その事実をわたしの中の隣人が知らないはずはなかった。

「あなたにもいつ変化するのかは分からないのね」

 二人は暗い面立ちのまま頷いた。諦めかけていた事とはいえ、それでも砕かれた僅かな希望にわたしの心も微かに沈んだ。

「私にもその意思はありません。ですが、それが何を原因にして起きるのか、それがいつになるのか私にも分かりません」

「そうなの。でもね、わたしはもういいかなって思ってる。」

「お兄さんに会えたから、ですか」

 悲しみに眉を下げる二人に、わたしは笑って返す。目的を果たすことは出来た。短い時間ではあるだろうが兄と過ごす時間も残されている。思い返してみれば、京子さんの家を訪れてから一度も笑う暇がなかったなと呑気にも考え始めている。

「あなたのお兄さんはそれを望みますか」

 わたしの溢した願いは波の音がさらっていく。二人には聞こえていないようだった。

「でも、他に手立てもないわけだし」

「あなたは忘れていますよ。まだ可能性が残っていることを」

「可能性」自然と鸚鵡返していた。

「それは、私から言うべき言葉ではありません。然るべき人があなたにはいますから」

 真っ先に思い浮かんだ人はわたしの脳裏でなぜか胸を張り高らかに笑っている。思わず両手でイメージをかき消した。「別にあの人のことをそんな風には思ってない」

 わたしを見て妙な笑顔を浮かべていた二人だったが、すっと目つきが変わった。わたしも振り回していた両手を下げる。

「もしかしたら、裕子さんと私が互いの種族の今後の鍵を握るかもしれません。森川の計画に利用されることは勿論、全ての古代変形菌が人と争うことを望んではいません。そのためにも必ずや森川の野望を阻止しなければいけません。私達には、それが出来る力があります」

 アレクサンドルとユーリが溜をつくる。わたしは唾を飲んだ。

「『マザー』もそれを望んでいません」

「それは朗報ね。分かったわ。できる限りのことはしてみる」

 二人は表情を緩める。それに影響を受けてか、鼠色だった空が仄かに温かみを持ち始める。いつの間にか空と海との境に一筋の白い光が見えた。

「わたしの体が今どうなっているのか分かる」ここの来る直前、わたしは兄をかばって銃弾を受けたはずだった。

「現実世界のあなたは森川の部下の攻撃から、五十嵐浩太を守るために負傷しました。気を失ったあなたと五十嵐浩太を仲間の二人が車に乗せて脱出しています。今は桜井氏の指示の下、隠れ家で休息を取っています」

「怪我は治るの」

「時間はかかりますが。傷跡も残さずに治りますよ」

「ありがとう」

 やがて水平線の向こうから輝きを伴って太陽が頭を覗かせる。夜空は色を変え、遥か遠くの頂点を突き抜くような青が広がっていた。

「また、力を貸してくれるかしら」

 立ち上がったわたしを光が包みこんでいく。あまりの眩しさに目が滲みる。まともに目を開けることすら難しく、二人の姿を捉えることもできない。

「もちろん」

 二人の言葉を最後にわたしは記憶の世界を旅立ち、桜井の指示の下、訪れた隠れ家の一室でわたしの意識は蘇る。


 まだ重たさを感じる瞼をうっすらと開けば、和室の天井が目に入った。部屋の中は薄暗く、横を見ればオレンジ色の光を放つランタンほどの光源が部屋の隅で健気にも働いていた。寒さを感じず、わたしを包みこむように布団が暖かさを持っていた。 

 口が乾いて舌が張り付きそうだった。水分を求めて視線を巡らすと、半開きのふすまの向こう側、部屋の外の廊下を半裸の男性が横切っていく姿が映った。

「武田先輩」想像以上にわたしの声は枯れていた。一度の呼びかけでは目的の男は振り返らない。

「桜井、この家にガス通ってないのか。シャワー冷たくてびっくりしちまったよ」

 部屋の外から聞こえてきたのは、すっかり調子を取り戻したらしい武田先輩の声だった。

「武田先輩」相変わらずの掠れた声だが、さっきよりも大きく声が出た。

 どたどたと立てていた足音は廊下で一度止まり、今度はその足音が段々と大きくなる。それにつれて頬は自然と持ち上がる。まだ意識ははっきりしないが、それでもわたしの中に膨れ上がる感情が熱を持つ。

 足音はふすまの裏側で消えたが、すぐに勢いよく横に滑った。半分開いた瞼から覗けた武田先輩は腰にタオルを巻いただけの半裸だった。

「五十嵐、目を覚ましたか。おっと悪い。シャワー浴びていたんだ」

「大丈夫です」

「ここがどこか分かるか」

「桜井さんの隠れ家ですよね」

 武田先輩はぽっかりと口を開けた。「そうだけど。でも、どうして」

「私の中の隣人が教えてくれました」胸に手を当てるとほのかに暖かさを感じていた。

 武田先輩は訳が分からなさそうにしていたが、無理矢理納得するように力強く頭を振った。「そうか、そうだよな。よかったよ。本当に」

 口を動かしているうちに視界が晴れてくる。ゆっくりと体を起こす。掛かっていた布団がずれて落ち、武田先輩は慌てて近寄ってきた。「まだ無理をするな。ゆっくりしていろ」

「兄は」

「二階だ。怪我は大丈夫か」

 肩に痛みはない。撒かれた包帯をゆっくりとはがす。肌にはボタンほどの大きさのかさぶたが出来ていた。

「熱や痛みはないのか」武田先輩に言われて気付いた。どちらも残っていない。強いていえば、肩のかさぶたに痒みがある程度だろうか。

「これも古代変形菌の力か」

「傷跡も残らないらしいですよ」

「そうだとしても、俺にはいいや」

 肩をすくめる武田先輩を見つめる。武田先輩も顔を整えるが半裸であるがゆえか、どうにも締まらない。よく見れば、まだ髪から滴が垂れている。

「兄に合わせてください」

 武田先輩は何も言わずに手を差し出す。両手を武田先輩の手に伸ばして布団から起き上がる。そのまま肩を借りて二階に上がっていく。一段ずつ足を上げると聞こえてくる、隙間風よりも弱々しい寝息はわたしにだけ聞こえて欲しかった。

 階段を上がりきり、六畳ほどの部屋に入ると中にはすでに桜井さんがいた。半裸の武田先輩に抱えられたわたしに気付くと、少しだけ眉をひそめる。

 布団の上で五十嵐浩太は寝息を立てていた。

「撃たれたお前を五十嵐は咄嗟に抱きかかえたんだけどな。肩から出た古代変形菌の体液を見てぶっ倒れちまってよ。どうにか車に乗せて逃げてきたんだが」

 兄の顔色は薄暗い部屋を差し引いても陶器のように白く、血管が浮いて見える。寝息がなければ本当に生きているのかどうかも怪しく思えた。

「兄の様子は」

「呼吸は安定している。ただ眠っているだけだ」桜井は静かに口を開く。

 部屋の中が沈黙する。ただ一定のリズムで兄の呼吸音だけが満たしていく。

「着替えてくるわ。風邪を引きそうだ」と武田先輩は両肩をさすって部屋から出ていった。

「何かあれば呼んでくれ。下にいるから」と桜井さんも後に続く。

 立ち去った二人の後ろ姿を見てわたしはそっとふすまを閉じた。部屋の中にわたしと兄が残される。

 瞳を閉じたままの兄の顔に手を置いた。呼吸に合わせてわずかに頬が上下している。顔を近づければ肌の色にほのかに暖かみが戻っていたことに気付く。

 幻ではない。確かにここに兄はいる。十二年前にぱったりと姿を消していた兄はわたしの目の前で眠りについている。その事実がにわかには信じられず、わたしの中に様々な感情が渦巻く。

 兄の手を握る。硬く、荒れている。彼の顔に流れる温かみはまだ、ここまでは到達していないらしい。すこし握り返された気がした。

「裕子」

 脆く割れそうな呼びかけに目を見開く。兄の目がうっすらと開かれていた。長いまつげが小刻みに揺れている。

「お兄ちゃん」

「元気だったか」

「ええ、ずっと、ずっと元気だった」

「そうか」

 わたしの握る手を兄はすこしの力を込めて握り返てくれた。わたしは両手で彼の手を掴む。

「また会えてよかった」

 兄の手がわたしの指にもたれかかる。部屋の中にまた寝息が満ち始める。わたしはそっと兄の手を布団に戻した。

 わたしの諦めきっていた心が震える。灰をかぶった炉に火がくべられる。火の種はすでに、わたしの中の隣人に貰っていた。酸素を食らった炉は激しく炎を噴き出す。やがて燃え尽きた炉からひと振りのむき身の剣が吐き出された。

 剣は輝く。わたしの心を覆っていた諦観の泥を乾かし、剥がしていく。

 兄の胸に額を重ねる。鼓動が伝わってくる。彼は確かに生きている。コツンと兄の胸にぶつけ、わたしは立ち上がった。


 薄暗い階下に戻ると話し声が聞こえてきた。ただの会話のようで、耳をすませば互いに文句を垂れているだけのようにも聞こえた。声を頼りに廊下を進むと、微かに明かりの漏れた部屋が見える。中を覗くとキッチンで武田先輩と桜井さんが揃って食事を取っていた。

「五十嵐は大丈夫か」

「少しだけ話ができました」

 二人は驚きをあらわにするが、それだけにとどめたようだった。「まあ、座れよ」と武田先輩は椅子を進めてくる。

「この家、暗いですね」

「ここは公安の隠れ家の一つだから、普段は使われないんだ」

 桜井さんはカップ麺を啜りながら答える。彼の顔にかかるように湯気が昇っていた。

 わたしの隣に座る武田先輩はしっかりと厚着に着替え終えていた。彼は彼でコンビニ弁当にカップの味噌汁を合わせていた。「食べるか」と焼き鮭を箸で見せびらかす。

「あまり、食欲はないです」

 武田先輩は何かを言いたそうに口を動かすが踏み込んでこない。代わりに勢いよく白米と味噌汁を掻きこんだ。それが仇となったのか激しく咽かえった。

「桜井、悪い、水くれ。水」

 胸のあたりを必死に叩く武田先輩に桜井さんは黙ってペットボトルをよこした。受け取った武田先輩は勢いよく口をつけ、喉が音を立てて飲みこんでいく。桜井さんもカップの底に残ったらしき麺を掻きこんだ。

「ごちそうさまでした」武田先輩が両手を合わせると乾いた音が部屋に響いた。「いやあ、久しぶりにしっかりしたものを食ったわ。満足、満足」

「もう、歩き回っても大丈夫なのか」桜井さんは割った割り箸をカップの中に入れている。

「はい。本調子ではないですけど」

 武田先輩は鞄からノートパソコンを取り出した。マウスを動かすと薄暗い部屋に目覚めたパソコンの画面が光って武田先輩の顔を照らす。武田先輩は画面を見て頷くと、差し込んだUSBメモリーを桜井に投げて渡した。

「それが約束のものだ」

「それって武田先輩の集めた情報ですか」

「ああ、君たちが眠っている間に寄り道をしてな」

「お前、桜井と約束したんだろう」

 桜井さんにでまかせを並べ病院から抜け出した事を思い出す。ほんの半日前の出来事なのに、ずいぶんと昔の出来事のように感じられる。

「ようやく、果たせたな」桜井は受け取ったUSBメモリーをワイシャツのポケットにしまった。

「さて、じゃあ行くとしますか」二人が立ち上がる。わたしも慌てて続いた。

「ちょっと待ってください。どこに行くんですか」

「どこって、森川の計画を止めるんだ」「ああ。奴の計画の進行度は不明だが、手をこまねている時間は無い。手当たり次第に当たっていくだけだ」二人は口々に述べてはキッチンを去ろうとする。

「わたしも行きます」

「いや、お前はここにいろ。兄貴の面倒を見てやれ」

 武田先輩の漂う空気が一変した。薄暗い部屋の中でも彼の目が鋭く光り、わたしをこの家に押しとどめようとしていた。

「どうして、そんなことを言うんですか。さっき言ってたじゃないですか。諦めるなって。最後まで抗おうって」

「考えが変わった。五十嵐、大井川先生を覚えているか」

「先輩の情報の中にあった名前ですよね。確かー」

「古代変形菌の研究者だ。もう俺が言いたいことはわかるよな」

 わたしの中の隣人と話したことが蘇る。彼はわたしの知識から精神世界を作ったと言っていた。可能性はまだ残されていると。

「俺も情報を見返して思い出したことだけどな、大井川先生はCDCで古代変形菌の研究をしていた。だから、人と古代変形菌とに関する治療方法の研究をしていた可能性はある。大井川先生でなくても、おそらくCDCでもだ」

 わたしは気付かずに拳をつくっていた。心の裡を占めるのは怒りではなく焦りだ。

「それに、森川に近づいて一番危険なのはお前だ。後のことは俺たちがやる。心配すんな、ちゃっちゃと終わらせるからよ」

 室内の寒さが感じられない程に蒸気しているのが分かる。

「君のお兄さんの様子も見てやってくれ。いざという時に彼を守れるのは君しかいない」桜井さんが武田先輩の補足をする。

「でも、森川がどこにいるのかは分かってないですよね」

「何が言いたいんだ」

「わたしも戦います」

「あのなあ、五十嵐」

「わたしにしか出来ない事があるはずです」

 今にもわたしに掴みかかろうとする武田先輩を桜井さんが制す。

「何か考えがあるんだな」

 二人はじっとわたしを見る。ほとんどそれは睨まれているようにすら感じられた。

「もう一度、板野警備会社に戻ります」

 今度はわたしが二人を睨む番だ。キッチンが静寂に包まれる。暫く睨み合っていたが痺れを切らすように二人が深く息を吐いた。武田先輩は腰に手をやって頭を振っている。 

「分かった。俺が一緒に行こう」桜井さんが少しだけ口角を持ち上げた。「武田さんは五十嵐さんのお兄さんと一緒にここで待っていてくれ。分かったことがあったら連絡をする。」

 勝手に話を進める桜井さんに嫌な顔を見せることなく、武田先輩は肩をすくめると唇を変な方向に曲げた。わたしは思わず脱力する。隣に立つ桜井さんも、どことなく気が緩んだように見えた。

「分かったよ。五十嵐の面倒は俺がみよう。二人で先に行っていてくれ」

 三人で家の外に出る。敷地内に軽ワゴンが停められてあった。桜井さんはまっすぐに運転席にむかっていく。すっかり静まり返った住宅街は冷気の膜に包まれている。寒さに吐く息も白く上がった。

「五十嵐、頑張れよ」

 武田先輩の視線は優しさが感じられて、妙に気持ちが悪かった。

「わたし、そんなに弱くないですよ」

「仕事、辞めたくなったことがあるんだろう」

「先輩にだってあるんじゃないですか」

 武田先輩はそっぽをむいて鼻の先を掻いた。軽ワゴンがエンジンを震わせる。深夜の住宅街に似つかわしくない、ともすれば荒々しさすら感じる鼓動がわたしを待つ。

「生きて、また会いましょう」

「そうだな」

 桜井の待つ軽ワゴンに乗り込む。サイドミラーに映る武田先輩の姿はわたし達が乗る軽ワゴンが角を曲がるまで消えることはなかった。


 通りの街並みに見慣れた建物が増え始めると、ほどなくしてレンガ模様のビルが姿を現した。控えめな板野警備会社の看板はわたしの心拍数を上昇させる。

 少し距離を置いた所で桜井さんが車を停めた。エンジンを切ると、前のめりになってビルの様子を伺い始める。同じような姿勢を取ってビルを注視する。出たときと同じようにビルの窓にはブラインドが下がっていた。

「作戦は」

「正面突破です」

 車から降りると桜井さんが先行した。建物に背中を沿わせるようにして板野警備会社に近づいていく。ビルの敷地に踏み込み、階段を上がっていく。二階に入ると、武田先輩を助け出した時と同じように廊下と二つ三つ部屋の入り口が見えた。

 わたし達が扉に近づいたとき、まさにそこから大柄な黒ずくめの男が一人姿を見せた。桜井さんはすかさず距離を詰めると、男の膝を折って跪かせる。背後に回ると首を回し締め上げた。ぐったりした男が床に倒れ狭い廊下の幅を取る。

「他にいないか部屋を見てくる」

「出来れば、パソコンも起動しておいてください」

「パスワードを要求されると思うが」

「試してみたいことがあります」わたしの言葉に桜井さんは背中を向けて部屋に姿を消した。

 目を閉じて指先に神経を集中させると、気絶した男の耳の穴に指を入れた。

 森川はネットワーク状に拡大した古代変形菌に人の意識を保存すると言っていた。わたしの中の隣人も、古代変形菌は人と知識を共有できるとも言っていた。

 深く息を吐きだし想像する。自分の指の先端が映像で見た古代変形菌のように黒く変化していく。それは蛇のように細く、男の体内を道筋に沿って這っていく。指先に一瞬、走った痺れは逆にわたしの指を通って、腕を伝わり背筋を介して脳へと伝わる。

 頬を涙が伝う。それに色が着いていることは見なくても分かる。瞼の裏に男の意識が古ぼけた映写機のように時折、ぶつ切りに飛びながらも流れ始める。

 意識を集中させ男の記憶を早送りに回す。再生された記憶のなかで男は、幸せそうに生活を送っている。都内のマンションに妻と息子と暮らしている。彼を家で待つ人が居る。彼もわたしと同じただの人間なのだ。

 早送りし続けてようやく、目当ての画像が表れた。板野警備会社でパソコンを前に座る男の視点だ。男がキーボードをたどたどしく打っている。男の指先の動きを記憶すると目を開いた。

 大きく口を開く。肺が酸素を欲しがっている。一呼吸の度に汗が床に落ちる。喉が渇いて痛みが走った。痛みに咽かえると、部屋から桜井さんが顔を見せる。わたしの様子を見て、一瞬仰け反った。

「大丈夫か」桜井さんはポケットからハンカチを取り出した。

「パスワードが分かりました」頷いてハンカチを受け取る。頬に当てて拭うとハンカチに黒い筋が出来ていた。

 部屋に入って起動してあったパソコンを前に、記憶で得たパスワードを打つ。横を見れば、桜井さんが気絶した男を縛っていた。

「どうやって森川を探す」

「彼は東京中の地下鉄網に古代変形菌を張り巡らせると言っていました」

「ああ、聞いたよ。元々、俺と武田君はそのネットワークの中心を目指すことを考えていた。正確な場所は手当たり次第に探すつもりだったが」

「森川は『マザー』と呼ばれる古代変形菌を計画の軸に考えているらしいです。恐らくはネットワークのサーバー的な役割を持っているのでしょう」

「つまりは『マザー』を探せば、そこに森川がいると」

「可能性は高いです」

「誰から聞いたんだ」桜井さんは露骨に眉をひそめる。

「わたしの中の隣人です」

「信用できるのか」

「彼も森川の計画には賛同していません。それに、ほら」とパソコンを指し示す。「彼の協力がなければ、地図とにらめっこしていたかもしれませんよ」

 男を部屋の隅に縛り上げて、わたしの隣に立った桜井さんはパソコンを見る。小さく溜息をついて、わたしを見た。

「で、パソコンにその『マザー』の情報があるのか。計画の根幹だろう、そんな大事な情報がこの下端の会社にあるとは思えないが」

「でも、ないとも言えないでしょ」

 目ぼしいファイルにクリックを繰り返すと、画面上に複雑に模様の引かれた画像が表示された。直線や曲線は交差し、その線上には大小様々な点が打たれ傍には数式が並んでいる。ともすれば計画書のようにも見て取れた。

「桜井さん、ちょっとこれを見てください」

 画面を指さす。桜井さんも画面に顔を近づける。

「これ、森川の計画表じゃないでしょうか。でも、この線上の黒い丸はいったい」

「確か、やつの計画は『マザー』を根幹に据えたネットワークの構築だったはずだな」

「ええ。地下鉄の路線を利用して古代変形菌を広げたものです」

 桜井は考えこんでいたが、ふっと晴れたように顔を上げた。事務机の書棚から地図を探しだすと、都内の地下鉄の路線のページを開いた。わたし達は画面と地図帳とを見比べる。

「この画像の模様、路線図に似ていますね。というか、そのまま抜き出したような」

「たぶん、この線上の黒い丸は『マザー』を補佐するための古代変形菌だ。サブのサーバーとでも呼ぶべきか」

 わたしの中にも閃くものがあった。

「『マザー』だけで東京中をカバーすることは難しいということですか」

「ああ、『マザー』の情報処理能力を拡張し、かつ負荷を低減させるために、この黒い丸たちが線上に一定の間隔で置かれているんだ。そしてこのサブサーバーの中心にあるのが―」

 画面上の特に大きな黒い丸達を指でなぞる。描かれた線を無視して丸と丸とを結んでいくと一つの大きな円が表れた。円の中心点を突く。そこには、まるで遠慮しているかのように身を隠す小さな黒い丸があった。

「これが『マザー』」

「そこに森川がいるかもしれないな。すぐに武田君に連絡しよう。五十嵐君は場所の特定を急いでくれ」

 やけに古い携帯電話で連絡を取る桜井さんの横で、じっと画面を睨む。まずは森川の計画を止める。後のことは、その時に考えればいい。


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