ダークイーター③
五十嵐浩太は二階の部屋の隅で震えていた。それが寒さに依るものか、あるいは別の要因のせいなのか、五十嵐にはもう判断がつかなくなっていた。暗闇に白い息が漂う。目を閉じて頭を抱えても、夢から覚めることはない。
小さな交番の階段を上り切った足音は、扉の前で笑い声に変わった。それはもう興奮を抑える気はないのだろう。それの笑い声と一緒に金属同士が、かちゃかちゃと音をたてて擦れる。
扉の外に立つそれは、鍵束から選んだ鍵を穴に差し込む。それは何度も失敗し、その都度鍵を選びなおしては不器用に錠を回そうとする。五十嵐には無限の時のように感じられた。願わくば、それが正解に辿り着かんことを。
それがあてがった何本目かの鍵が、儚くも五十嵐の希望を打ち砕いた。鍵が穴にしっかりとはまる音が五十嵐の耳に届く。がっちゃんと錠が回転する。僅かな光に照らされてぼんやりと存在感を示すドアノブが回った。
音もなく扉が滑る。五十嵐は動けなった。
「ぐふふ、ふふ、ふふ」
それが姿を見せる。真っ黒だ。大柄な人間をさらに一回り大きくした怪物が扉の前に立っていた。真っ黒な体はアメーバのように不定形で脈打つように体表がうねっている。
「ぐふふ、ぐふふふふ」
どこから出しているのかも分からない笑い声が狭い部屋を満たす。部屋の壁で跳ねて反響し五十嵐の頭の中身を掻き乱す。五十嵐は必死に両手の平で耳を塞ぐが、狂った音波は指の隙間を縫って入り込む。五十嵐からは涙が流れ始めていた。
「五十嵐ぃ」
五十嵐は涙に濡れた顔をあげる。真っ黒なそれの体表から、人間の顔だけが浮かんでいた。五十嵐も知っている顔だった。
「逃げろぉ、五十嵐ぃ」
堂島郁夫は叫ぶ。波面のように揺れる怪物の体表から、顔だけを出して五十嵐を呼ぶ。
「堂島さん」
「逃げるんだ、五十嵐。こいつは無理だ。俺は知っている―」
堂島の顔が、怪物の体表でうねる波に飲みこまれそうになる。五十嵐は今にも破裂しそうな感情を抑え込み、両腕を怪物の体内に伸ばした。
濡れて蠢く何かが、五十嵐の腕に纏わりつく。堂島を掴もうと必死になるが故に、集中した五十嵐の指先に怪物の中身が絡みつく。それは五十嵐の腕を湿らし、やがて肩に到達しようとしていた。
「五十嵐、駄目だ。」堂島は溺れそうになっていた。
「今のお前では何もできないんだ。逃げろ、五十嵐。それしかない」
「堂島さんを置いてなんて」
怪物の体内から堂島の腕が伸び、五十嵐を掴むと手を握った。
「聞け、五十嵐。俺はもう駄目だ。お前だけでも逃げろ。頼む―」
堂島の顔は、言葉と共に怪物の体内に吸い込まれていった。五十嵐に叫ぶための時間は残されていなかった。怪物は五十嵐の首筋にまで体の一部を伸ばしていた。
五十嵐はもがき離れると、怪物に背を向けた。正面には窓が見えていた。
窓を開ける。部屋に寒風が吹き込んだ。五十嵐の頬に微小な氷が張り付く。五十嵐の眼下にはどこまでも降り積もった雪が広がっていた。
今一度、部屋の中に振り返る。まるで佇むかのように怪物はいた。
五十嵐は窓を背にすると怪物にむかって走り出した。五十嵐の様子に気付いた怪物は喜びに色めき立ち、体を大きくうねらせる。五十嵐は肩を入れて怪物にぶつかると、その弾みで階段を転がり落ちた。
真っ暗な五十嵐の視界が回転する。一瞬で一階の床が眼前に迫り、五十嵐は両手をついて痛みに歯を食いしばった。廊下に触れた指先から冷たさが昇ってくる。着地した衝撃が足裏を伝って膝を痺れさせる。
すぐ後ろで、どちゃり、どちゃりと重さのある音がする。振り返らずとも怪物が迫っているのが五十嵐には分かっていた。吸う空気は瞬く間に体温を奪っていく。
「いがらしぃ、まってくれよぉ」あの人の声で怪物が呼ぶ。
五十嵐の上げた顔の先に、給湯室の入り口が見えた。中に飛び込んだ五十嵐の目に刃が映る。五十嵐はそれを手に取ると廊下に出た。
「いがらしぃ、くるしぃよぉ」
階段を下りたばかりの怪物は廊下に出た五十嵐の姿を見つけると、喜びの声を上げた。水に濡れた足音が交番内に響き渡る。
五十嵐の涙は凍り皮膚に張り付いていた。奥歯を噛むと怪物をその目に見据える。右足を踏み込むと刃を立てて、怪物に飛びかかった。五十嵐の握った包丁は彼の覚悟に素直に答えた。
五十嵐が突き刺した刃は深々と怪物の身に飲みこまれていく。怪物が痛みに叫び、暴れる。五十嵐は体を翻し、何度も刃を刺す。横に裂き、縦に刃を振り上げる。怪物の体液が噴き出し、壁といわず交番を汚していく。
五十嵐の顔にも体液はかかり、だが瞬きすらしない。口を結び呼吸すらせず、包丁を振り回す。怪物の体液に時折、赤い液体が混じってとぶが五十嵐はそれを認識しない。
気付いた時には、怪物の体はまとまりを失い、半ば液状になって床に広がっていた。五十嵐は怪物の体液にまみれた堂島を見つける。
「堂島さん」
堂島は五十嵐の呼びかけに動かない。すでに制服はずたずたに裂かれていた。
「一緒に逃げましょう。早く」
五十嵐が堂島の肩に手を回した。重い体を引っ張り上げ二人は交番から離れていく。
やがて地平線の向こう側がうっすらと明るくなり始め、朝日に照らされた雪が虹色の輝きを見せる頃、五十嵐と堂島は交番から離れた田んぼを歩いていた。
「堂島さん。なんとか逃げ切れましたね」
堂島は返事をしない。支えられていた五十嵐の体から力なく落ちた。彼の背後には点々と血に混じって黒い液体が伝っていた。
「堂島さん」
雪に倒れた堂島は動かない。五十嵐は膝から落ちた。堂島の肩を揺さぶる。彼の体は五十嵐の動きに任せるがままだった。
五十嵐は叫ぶ。無音の白銀の世界に獣が叫ぶ。悲しみを吸い込み切れなかった雪を砕くような咆哮が溢れ出す。やがて涙が混じり、咆哮は嗚咽へと変わっていく。五十嵐は雪に突っ伏した。
五十嵐は夢を見る。
決まって同じ夢だった。夢となってなお、十二年前の冬は彼を苛む。
まともに眠れたことなどない。どこか体の落ち着けるところを探し、体を丸めて夜を過ごす。まともに気が立ち、僅かな空気の震えにさえ体は反応する。
彼を気遣う人もいる。寝床と暖かな食事を出してくれる人もいる。長く伸びた髪を、髭を切ってくれる人もいる。共に戦うことを決意した人もいる。
五十嵐はその全てに興味を示さなかった。彼らに見せる感謝は獣が一飯の恩を見せるのと同じものだった。彼の目に映るのは、先輩の命を奪った怪物だけだった。
その彼はいま、古代変形菌の対策班のオフィスにいた
「五十嵐浩太」
桜井の銃口の先に立つ男は、ほんの少しだけ瞼を動かした。
無残な様相の対策班のオフィスに二人は立っている。事務机の多くは潰され形を変えていた。床には書類と怪物の体液が飛び散っている。割れた蛍光灯が健気にも部屋を照らしているが、それも弱々しい。
「お前、どうやってここに」
「逃げろ」
「何を」
「後ろ」
桜井は五十嵐が自分を見ていないことに気付いた。ひたひたと桜井の背後で濡れた足音が迫る。振り返った先に見えたものに桜井は戦慄した。
巨大な黒い塊だ。自動車をさらに一回り大きくした巨大な古代変形菌がそこにいた。楕円形のそいつの体から六つの足が生えている。まるでゴキブリのようだと桜井は銃を構えていた。
「さくらいぃ、くるしいよぉ。たすけてくれぉ」
悲痛な願いと共に、怪物の体表から水面に浮き上がるように人の顔が表れる。鈴村の顔だった。目は黒く潰されている。垂れた黒い涙は蒼白した顔面に映えて美しさすら覚える。
「さくらいぃ、さくらいぃ」
怪物の体表に次々と人の顔が浮かびあがる。誰もかれもが知っている顔だった。苦悶の満ちた表情で対策班の面々は助けを乞い、唾を垂れ流す。
「さぁくぅらぁぃ」
その声はまっすぐに桜井の耳に届いた。桜井は声の主を必死に探す。
「管理官」
桜井は中村管理官に顔を見つける。彼の顔もまた悲痛に歪んでいた。
「おまえがぁ、おまえのせいでぇ」
桜井の眼前に古代変形菌の腕が迫りくる。しなる腕を目前にしても桜井は引き金に指を掛けることができなかった。怪物の振り回した腕が桜井を打つ。桜井の視界が暗転し、吹き飛ばされた先で背中に衝撃を受け痛みに息が詰まった。
「どうしておまえだけがぁ、ぶじなんだよぉ」
中村悠二郎だったものが叫び、怪物が腕を振り回す。桜井は屈んでそれを避ける。
「中村管理官」桜井が呼びかける。だがそれもやっと出した声だった。
「おまえにはふむきだったんだよぉ。おまえにはむりなことだったんだよぉ」
桜井の足が止まった。「管理官、俺はー」
すっかり眉の下がった桜井の体を、怪物の巨体が吹き飛ばす。桜井はオフィスの壁に叩きつけられて崩れ落ちる。ぴくりとも動かなくなった。
五十嵐がゆっくりとナイフを抜きだす。五十嵐の動きに、ただならぬものを感じたのか怪物は静かに体をむけた。
五十嵐が走り出す。怪物が腕を振りかぶった。上から、しなって迫る怪物の攻撃を躱し、怪物の腹の下に滑り込む。走った勢いのまま、ナイフを怪物の腹に突き立てると掻っ捌いていく。怪物の体液が勢いよく噴出し、床をさらに汚していく。
怪物の腹の下を滑り切った五十嵐に、暴れ狂う怪物の腕が当たり五十嵐の体が吹き飛ばされる。五十嵐が顔を上げた時、怪物の巨体が迫っていた。
「うおおぉっ」
怪物の上に飛び乗った桜井の姿が、五十嵐の目に映る。桜井は獣のような咆哮を上げ、引き金を引く。銃弾が怪物の体を貫く。桜井は引き金を引き続ける。弾倉が空になると入れ替え、今度は銃口を体内に捻じ込み撃った。
怪物の必死の抵抗を、桜井は飛び降りて躱す。五十嵐の落としたナイフを拾いあげた。
怪物の体に浮かび上がった人間の顔を切り刻んでいく。人間の悲鳴が部屋に響き渡る。桜井は吠え続け、怪物の周りを走り回る。
ようやく五十嵐の足が止まったころ、すでに怪物は身じろぎすら出来なかった。対策班のオフィスには異臭が満ちていたが、二人は気にもしていなかった。
桜井は黒く濡れたナイフを投げ捨てる。五十嵐はそれを拾いあげた。
「聞け、五十嵐。お前の妹が連れ去られた。お前なら追跡できるだろう」
「妹」
五十嵐はその言葉を理解できないようだった。もごもごと繰り返している。
「行くぞ、五十嵐」
桜井の目に迷いはない。頬をぬぐうと、怪物の体液に汚れきったスーツを投げ捨て走り出した。彼の後を無言で五十嵐も追っていく。
対策班のオフィスには捜査官たちの遺体と怪物だったものの残りばかりが、壊れかけた蛍光灯に照らされ艶ややかさを誰に見せるでもなく知らしめていた。
「あなたたちは」
わたしの目の前には三人の黒ずくめの男がいた。中央の男はタブレットを抱えている。
タブレットには中年の男が映っている。全体的にゆるくかかったパーマは短めで、側面はしっかりと刈られている。髭は短く整えてあり、傍から見れば今風の洒落た大人に見えるのだろうが、今のわたしにはそう思える余裕はない。
「君の仲間だ、ということは言っておこう」
「おいおい、どういうことだよ」武田先輩は檻から出つつも、まったく怯む気配がない。
わたしの中に予感があった。わたしを攫った黒ずくめの男たち。目を覚ました時、腕に刺さっていた器具類の数々と、男を蹴り倒し鉄格子を曲げる程の怪力。
そして見た夢。
「君の中にも古代変形菌がいる」
タブレットの男の言葉は現実味の帯びていない。単にわたしが認めたくないだけかもしれない。わたしの中に入り込む彼の言葉は文面以上の意味を持たない。それを理解することをわたしは拒否している。
「嘘をつくな」武田先輩が怒鳴った。
「嘘ではない。車で移動していた五十嵐君を連れ去り、この事務所で処置を施した」
「一体なんのために」
わたしの言葉は震えている。斎藤明彦の家で見た映像が蘇る。わたしもいずれ、あの黒い塊に変化していくのだろうか。
「五十嵐浩太を誘き出すためだ。彼の存在は我々にとって脅威だからね」
わたし達は言葉を失う。武田先輩の目が震えている。足元がおぼつかなくなり、頭がふらつく。自分が立っているのかも怪しくなってくる。天地が激しく回り始める。
「彼は、どうしてかは全く想像がつかないが、どうやら古代変形菌と同化した人間とを見分ける術を持っているらしい。その特技で我々を滅ぼそうとしている」
タブレットの中の男は嘆かわしく首を振る。だがすぐに顔を上げてわたしを見る。
「君は兄を探し、五十嵐浩太は古代変形菌をその身に宿した者を探す。君たちが互いに探し合えば、すぐに出会えるだろう」
わたしの目の前が回転している。目に見える範囲のものが混ざり合い溶けていく。
「五十嵐」
武田先輩の必死の呼びかけも虚しく、わたしは猛烈な吐き気と共に気を失った。
事務所のソファでわたしは目を覚ました。部屋の中には先ほど見た黒ずくめの男たちが行儀よく席に着いている。すぐにでも事務仕事を始めそうな雰囲気だ。
「回復が早いね。もう怪我の影響も残っていなさそうだ」
事務所の窓際にあるひと際立派な机の上には、さっき見たタブレットが正面をむいて置いてあった。男の一人が立ち上がると、タブレットをわたしの正面に向かせた。男は席に戻るとわたしを見る。男のサングラスのせいで物々しさが増しているような気がした。
「心配することはない。君を襲いはしない」
画面にはこれも、さっきの中年の男が映っていた。力強く笑みを浮かべるが、むしろきな臭さが増しているようにも映る。
「これも古代変形菌の力なの」
画面の中の男は頷く。「そうだ。人間の治癒力、身体能力を向上させる」
部屋の中を見回す。武田先輩の姿が見当たらなかった。
「武田君にも手は出していない。彼なら外で君を待っているだろう」
「あなた達は何者なの」
「僕の名前は森川だ。よろしく五十嵐君」
すぐにでも口にしたい言葉を堪える。だが、何かを発していないと恐怖に意識が飲みこまれそうになる。丁寧に言葉を選ぶ作業に、絶えず入る横やりが神経を突っつく。
「あなたの目的は」
「果敢だね。でもまあ、そうでもなければ、ここにいないだろう。そうだね、僕の目的は世界を平和にすることだ。そのために人と古代変形菌との融合を考えている」
森川の目には熱意があった。起業家が理想を語るそれに近いものを感じていた。
「君のお兄さんや対策班は古代変形菌を脅威と捉えていた。当初は僕も同じだった。日本で起きた古代変形菌の起こした事件を知り、僕も戦うことを選んだ」
「実際に人が死んでいるわ。多くの被害者もいる。そう考えるのは当然のことよ」
「だが考えが変わった。古代変形菌が目撃された最初の場所は決まって核実験場のそばだ。その事実が僕の考えを改めさせた。彼らは神の使いなのだとね。自らを滅ぼすまでに力を得た人類に罰を与えるための存在なのだと」
「そんなわけない。そんなのは妄言よ」
「だから僕は彼らと接触を試みた。神の意思を知ろうとした。そして知ったんだ、古代変形菌にも意識があり独自の言語を持っていることを」
画面の中の森川は熱に浮かされた宗教家のように振る舞う。今にも神に祈り始めるのではないだろうか。
「菌に意識があるとは思えないわ」
「変形菌は環境を考慮して餌まで最も効率の良い道筋を構築していくんだ。それも瞬時に判断してね。取捨選択だよ。それは限りなく人の作るものに近く、ネットワークを構築していると言っても過言ではないんだ。それに―」
森川の様子は夢を語る子供のようだ。ころころと表情の変わるその姿は、彼の本当の姿が純粋無垢であることを伺わせる。
「―過去の事件から、人間を吸収した古代変形菌が人の記憶を受け継ぐということが分かっている。そして僕はすでに彼らを受け入れている。僕の中に住む彼はと互いに信頼関係を築き上げている」
画面の中の森川の目が濁り始めた。数秒かけて白目が黒く変色していく。しばらくの間、濁っていた森川が瞬きを繰り返すと濁った白目は綺麗に戻っていた。
「それで人と融合したとして、どう世界平和につながるの」
森川は待っていたと言わんばかりに拳を作った。画面の中でも手が震えているのが分かる。画面から飛び出してきそうな勢いすら感じる。
「人間と古代変形菌を完全に融合させる。それを東京中に張り巡らされた地下鉄の路線に網目のように広げていく。いわば有機的ネットワークだ。僕らの意識はその中に保存される」
「イかれてる」
「人と古代変形菌の融合した有機的ネットワーク上には何の境界もない。すべてが平等で対等だ。僕たちは意識を縛っていた肉体から解放され、有機的ネットワーク上で一つになる。そこにはもう争いなど存在しないんだ」
狂信者だ。それ以外の言葉が見つからない。森川の話は妄想を通り越していた。恐ろしさすら感じる。
「さらに、有機的ネットワークは成長する。栄養を蓄えた古代変形菌は子実体を作り、胞子を撒く。そこから、さらにネットワークは拡大し、やがては世界を覆い尽くす。それが僕の目的だ」
「古代変形菌に人が殺されているのよ。そんなこと不可能よ」
「そうだ。だから僕はいまだに古代変形菌を探している。これ以上、無駄に命を散らさないためにね。そして彼らを殺して回る五十嵐浩太を探している。知っているかな、君のお兄さんは人殺しだ」
森川が指示を出すと部屋が暗くなった。天井からスクリーンが降りてくる。プロジェクターから照射された光はしばらく経って映像になった。
映像が流れる。そのどれもに兄は映っており、人の首や腹にナイフを突き立て、そこから古代変形菌の黒い体液が噴出する。兄は決して表情を変えない。何の感情もくみ取れない。
映像が終わり事務所は明るくなるが、わたしは顔を上げることができない。
「誘拐事件を起こしたのは、あなたたちなの」
「そうだ。僕が依頼した。首の回らない警備会社を見つけてね。何せ膨大な数の不特定多数のサンプルが必要だ。」
「この人達にも古代変形菌が植えつけられているの」
わたしは横をみる。黒ずくめの男たちは相変わらずサングラスをかけていて表情が分からない。わたしの言葉が耳に届いているかどうかも怪しい。
「その通り。古代変形菌は宿主の中で成長し、人の意思を学ぶ。やがて宿主と意識を融合させ新たな生物に変化する」
「あの黒い化け物ね」
「僕も君もいずれそうなる。そして有機的ネットワークの一部にね」
「教えて。どうして京子さんの家を襲ったの」
「あれは僕としても不本意な結果だった。一部の自信過剰な部下たちがやったことだが、全ては僕の教育不届きだった」
「なんとでも言えるわ」
「つけていたのは、あの若い捜査官だ。彼は飯田大輝の見つかったアパートにいた。五十嵐が戻ってくることを期待していたが、やって来たのは対策班の連中だった。君たちを見つけたのは偶然だった。君たちに殺意があったわけではない。ただ捕まえるために襲った」
「兄を探すために」
「そうだ。僕の邪魔はさせない。それが誰であろうと」
顔の前で両手を組んだ森川の目は黒く濁り始めていた。立ち上がり事務所を出るわたしに森川と彼の部下は何も言わない。力の入らない足でわたしは階段を降る。
何度か壁にもたれそうになった。
わたしがビルから出ると武田先輩は道路を挟んだ歩道に座っていた。胡坐をかいて腕を組んでいる。梃でも動かない雰囲気があった。
「板野警備会社」武田先輩が呟いた。
「知っているんですか」さっきまで入っていたビルを振り返る。レンガ模様の壁に社名の看板が下がっていた。窓のブラインドが降りていて中の様子は分からない。
「俺が追っていた会社の一つだ。聞いたろ、俺の記録」
わたしは頷いて返す。そもそも、武田先輩が古代変形菌と遭遇するきっかけになったのは、いくつかの関連した誘拐事件を追っていた時だった。これも森川たちが起こした事件なのだろう。
すっかり日は暮れていた。大通りから内に入った通りにいるらしい。道路沿いに商店や住宅が並んでいるがシャッターはすべて降りている。
「どこか、いく当てはあるのか」
「とりあえずは駅ですね。」
わたし達は歩きだす。歩きながら森川の計画を話した。武田先輩は相槌を打ちながらも終始、口を挟むことはしなかった。喋り終えると、どっと疲れが湧く。喉が渇いたが運が悪く自販機が見当たらない。
「とんでもないな、森川の計画」
「ですよね。本当にそんなことができるのでしょうか」
再び沈黙する。自動販売機を見つけたので財布を取り出した。「何か飲みますか」「いらん」「そうですか」と返し、暖かいコーヒーを選ぶ。口をつけている間も武田先輩はずっと待っていてくれた。
「これからどうする」
「あいつらが言うには、兄はわたしを探しやすくなるみたいです。でも―」
聞いてきたくせに武田先輩はぼんやりと空を眺めている。鼻をすする音が聞こえた気がした。
「―時間が経てば、わたしも、あの化け物みたいになるそうです」
「兄を探すっていうお前の目的は、一応は果たせるんだろうか。まあ、俺が頼んだことでもあるんだが」
「でも、兄は古代変形菌と戦ってきました。だからわたしも」
「兄貴に殺されるかもしれないか」
缶コーヒーを屑籠に投げ入れ、また歩きだす。最寄りの駅の標識が見えたが、そういえばまだ電車の走っている時間なのだろうかと、そもそもの疑問が湧いてくる。
「先輩はどうしますか」
「戦うよ。これを世間に公表する。事件のすべてを明るみに出すさ」
わたしに残された時間は少ないのかもしれない。それも兄を釣り出すためだけの時間だ。数日から数時間後、あるいは数か月後かにはわたしは人の姿を捨てることになる。
火事の家から京子さんをと共に脱出し、追突された自動車でさらに怪我を負い、武田先輩を助けるために黒ずくめの男と戦った。それもすべては兄を探すためだ。その結末がこんな形になって答えるとは。
今のうちに京子さんの病院に行こうかとも考える。人の姿のまま挨拶しておくべきだろう。その後はぶらぶらしていれば、そのうち兄が姿を現す。怪物になったわたしに兄は気付くか、気付かないかの内に殺してしまうのだろう。
結局、わたしに兄は救えない。救うつもりが利用されるだけになってしまった。わたしを殺した後も兄は独りで、暗い世界と戦い続けるのだろうか。
「連中が計画を話したからには、誰にも止められない自信があるってことだよな」
「でしょうね」
「映画の悪役みたいだよな」武田先輩が笑った。
「あれは悪役よりも、もっと酷いものですよ。自分のエゴを他人に押し付けているだけです」「悪役もそうだろう」「悪役は、ほらお金を欲しがるじゃないですか。あのテロリストと戦うニューヨーク市警の刑事の映画もそうでしょう。結局はみんなお金です」
武田先輩が高らかに笑った。いつの間にか両手を腰に当てていた。さらに一回り大きな声で笑うが、それは絵に描いたような悪役の笑い方で、騒音が深夜に響き渡る。わたしはとめようとするが、先輩はおかまいなしだ。
「ちょっと、先輩」
「なあ、五十嵐。俺たちは新聞記者だよな」武田先輩の声は大きい。
「だった、ですね。今は無職です」
「何度記事を潰されたか分からないよな」
「ええ。先輩が消息を絶った事件の取材もできませんでした」
「そうだったのか」と武田先輩は目を丸くする。「それでも仕事を辞めようとは思わなかっただろう」「わたしは何度かありましたよ」「そうなのか」とまた武田先輩は驚く。
「何度、記事を駄目にされても諦めたことはないよな」
記憶に自信はないが頷く。
「俺がお前の兄貴に助けられてからというもの、俺も古代変形菌の情報を知るためにあちこち飛び回った、それでだ、気付いたことがあるんだ」
「なんですか」
「至極当たり前のことを言うけどな、情報は残そうとしなければ、消えて無くなるんだ。怪物に襲われても、諦めずに生き延びたから情報になるんだ。人は生きている間は当然として、死んでも情報になっていつまでも残るんだ。俺たちはそれを忘れてはいけないんだ」
「だからよ、五十嵐。ぎりぎりまで抗おう。抗って記録に残そう。俺たちで終わらせることは難しいとは思う。だけどな、諦めずに伝え続けよう」
わたしの裡で在りし日の武田先輩の言葉が蘇る。だがそれを口にすることを武田先輩は嫌うだろう。わたしは代わりに微笑んで答えた。
「もう少し、かっこいい台詞で応援してださいよ。記者でしょ」
「実直さこそ記者の美徳だろう」
「分かりました。もう少しだけ頑張ってみます。でも、その時が来たら、お願いしますね」
武田先輩は頷くだけだった。兄の手にかかるのが先か、あるいはどうだろうか。
「じゃあ、一度家に戻って―」わたしは桜井を思い出す。彼は大丈夫だろうか。
「駄目だろ。森川の部下がお前の家に行っているんじゃないのか」
「でもそれじゃあ、先輩がくれた情報も持っていかれて」
「おいおい、俺を見くびるんじゃないぜ。この情報媒体多様の時代に、必死になってかき集めた情報を一か所だけに纏めているわけないだろう。他に隠している場所がいくつもある。保険は何個あったって足りないくらいだ」
「ひとまずはそこを目指しますか」
「ああ、野球だって九回裏ツーアウトからっていうだろ」
妙なたとえ話で盛り上げようとする武田先輩の姿に幾分か心が軽くなる。歩道でスキップを始める先輩に大学の頃からなにも変わっていないなと口元も緩む。
「おい、五十嵐」
武田先輩は足を止める。
「あれ、お前のお友達だろう」
わたしの視線の先にも黒ずくめの男たちを捉える。二人組はゆっくりとわたし達に近寄ってくる。まるで未来から来た殺人ロボットのようだ。夜にもかかわらず、かけているサングラスが演出に拍車をかける。
「狙いは多分、俺だな。どうする五十嵐」
「戦います。あんな気色の悪い計画を実行させるわけにはいきません」
「俺もまだ茸にはなりたくないからな」
「先輩は逃げて下さい。あいつらはわたしを攻撃してこないと思います」「後輩にだけ戦わせるわけにはいかねえだろ」呆れた表情で武田先輩を見る。どこで覚えたのか、なかなかに様になったファイティングポーズを取っていた。上下に跳ねて体を揺らしている。
わたし達と黒ずくめの男たちは互いに距離を詰める。履いていたパンプスを脱ぎ捨てて放ったわたしの蹴りを男たちは躱すと、一直線に武田先輩に駆け出した。
「先輩」わたしは翻って武田先輩に飛びかかった男の一人の脛に蹴りを入れる。男は空中で体勢を崩し、地面に潰れた。もう一人の男が武田先輩と向かい合う。
男が風を切って拳を突き出した。武田先輩は頭を屈めて躱すと、一気に踏み込み、低い姿勢から上体を起こす。武田先輩の放った拳が男の顎を突き上げた。割れたサングラスが宙を舞う。
「どうだ。俺のアッパーは」仰向けで道路に倒れた黒ずくめの男に武田先輩は蹴りを入れる。
「一体いつの間に、そんなことを」
「通信教育だ。元WBCウェルター級チャンピオンのー」
黒ずくめの男が何事も無かったように体を起こす。立ち上がるとスーツについた埃を払った。サングラスが取れて、その目が露わになる。人の目の色をしていなかった。
「おいおいおい。冗談じゃないぜ」
「先輩、逃げます」
「なんだよ、結局そうなるのかよ」
「早く」と言い切る前に武田先輩は駆け出していた。彼の背中を追いかける。
夜の町を駆けていく。背後を振り返ると黒ずくめの男たちも黙々とわたし達に迫っている。
「不味いな」
武田先輩が口にするまでも無く、うすうす感づいていた。入り組んだ道を走らされている。順調に逃げているように見えて、その実、段々と道幅が狭くなっていた。
「やられた」
先を走っていた武田先輩が立ち止まる。袋小路だ。辺りは廃工場で助けを呼ぼうにも期待はできない。街灯の光にも寂しさを覚える。
振り返ると、ゆっくりと近づいていた黒ずくめの男の姿が大きくなってきた。
「やるしかねえな」武田先輩は息を切らしながら、ポーズを取った。わたしもとにかく、相手が脅威に思えるようなポーズを取る。
突然、近寄って来た男の背後から光が差してきた。それが車のライトだと認識するまでに、数秒かかり、瞬く間に距離を詰めてくる。白の軽ワゴンだ。「これ以上は無理だ」と武田先輩が嘆く。
ワゴンは男たちのすぐ後ろに停まると、中からフードを被った男が飛び出してきた。
飛び出してきたフードの男は背後から黒ずくめの男に飛びかかる。男の手に光に反射してナイフが見えた。それで黒ずくめの男の首を横に引いた。男の首から間欠泉のように血が噴き出し、それを塞ぐように黒い液体が溢れ出す。黒ずくめの男は血を流して地面に倒れる。
フードの男は、すかさず片割れにもに切りかかる。ナイフをその身に受けたもう一人は糸の切れた人形のようにその場に崩れた。
二人の黒ずくめの男が道路に倒れた。その間にナイフを持った男が立っている。
わたしの視線はフードの男に釘付けになっていた。痩躯で背が高い。目元は長い前髪で隠れているが揺れる前髪から覗く目元がわたしに似ていた。わたしの記憶が更新される。
「お兄ちゃん」
わたしの口から自然とこぼれ落ちた言葉が、兄をこちらに振り向かせる。
長く伸びた前髪から覗く、細い刃のような目がわたしを見る。
諦めかけていた大切な人がそこに立っていた。その姿はすぐにでも闇夜に溶けていきそうにおぼろげで、それでも車のフロントライトを背に受けて兄はそこに立っていた。
「お兄ちゃん。わたしよ。裕子よ」
兄は動かない。
「助かったよ。五十嵐浩太」その兄に武田先輩が歩み寄る。「やりすぎな気もするけどな」と地面に倒れた黒ずくめの男を避ける。
兄は武田先輩に顔をむける。だが一言として口を開かない。しばらくわたし達を見ていたが、体を翻して離れていこうとする。
「お前、それはねえだろう」武田先輩が慌てて兄の肩に手を置いた。
「せっかく家族に出会えたのに、何かいったらどうだ」
兄がぼそぼそと言葉を絞り出す。枯れ果てた兄の声は記憶にある、かつてのそれとはまるで違う。どこから声を出しているのだろうか。
「五十嵐はなあ、ずっとお前のことを探してきたんだぞ。危険だと分かっていても、俺が引き込んだこともあるが、真実を知って、それでもこっち側に来てくれたんだ。そんな妹にかける言葉もあるんじゃないのか」
「妹」
兄の動きが止まる。兄の目がわたしに向けられる。
わたしたち三人は沈黙する。
「五十嵐裕子」呼ばれた方を見れば、軽ワゴンのドアが開き、見知った顔が出てきた。
「桜井さん」
ワイシャツ姿の桜井はあちこち古代変形菌の体液で汚れていた。だが彼のまなざしは病院で見たものとは、まるで違って見えた。
わたしの視界の終わりに何かが動いている。黒ずくめの男がどうにか体を起こそうとしていた。彼の手元に銃が見える。銃から発せられた赤い光の点が揺れながらも、兄の体を捉えていた。
「お兄ちゃん」
わたしは跳んでいた。兄の体を突き飛ばす。瞬間、肩に衝撃を受けた。わたしの体から熱いものが噴き出す。わたしから噴き出した血の一滴一滴が粒になってゆっくりと宙を舞っている。すぐに、わたしの体に空いた穴から黒い液体が溢れ出し穴を塞いでいく。
どう抑えようにも息が浅くなる。焼けつく痛みを肩に感じてもなお、瞼が重くなってくる。目尻から涙がこぼれ頬を伝って落ちる。
「お兄ちゃん」
崩れ落ちる妹の体を五十嵐浩太はとっさに抱きかかえていた。
「裕子」
五十嵐浩太の体に僅かに妹の血が掛かり、それに混じった黒い液体を五十嵐浩太は見逃さなかった。妹の肩を塞ぐ黒い液体に五十嵐浩太は目を見開き吠えた。
意識を失いつつあった五十嵐裕子の耳には、潮のさざめきが聞こえ始めていた。




