ダークイーター②
「車をとってくる」と言い残した桜井を、わたしは病院の入り口で待っている。雨は止み、見上げた灰色の雲の切れ目からは、僅かに夕日に焼けた赤い空がのぞけた。明日は天気がよくなるかもしれない。
「洗濯物を干すのも嫌になっちゃうわ」
言葉と共に京子さんの顔が浮かび上がる。勝手に残してきたことを、もう後悔している。すべて終えたら、いの一番に合いに行かなくてはならない。
しばらくして、病院の駐車場に黒のセダンが姿を現した。それなりに広い駐車場をぐるりと回ってくると、わたしの目の前に止まった。ウィンドウが下りて中から桜井が顔をのぞかせる。
「乗ってくれ。急ごう」
わたしが助手席に乗り込むと桜井は静かに車を発進させた。
病院の駐車場を出て、道路をまっすぐに進み信号をいくつか曲がると、片側二車線の大通りに出た。その間も互いに片時も口を開くことはなく、車内の沈黙は保たれていた。
時折、横を見ては桜井の様子を伺う。背筋をしっかりと伸ばしながら、両手でハンドルを握る姿に、思わず笑いが出そうになる。
「何だ」
「いいえ。何も」
道路は順調に流れている。この調子ならば自宅に到着するまで、そう時間はかからなそうだ。視線を窓の外に移すと歩道を行き交う人が目に入った。
自転車を漕ぐのはお母さんだ。年はわたしと、あまり変わらないように見える。後ろと前に幼子を載せて歩道を行く。彼女らをジョギング中の中年男性が避ける。傍を歩くのは厚手のコートを羽織った老夫婦だ。二人は車輪付きの籠を引いて、ごくゆっくりと歩を進める。
つい先日まで、わたしも彼らと同じような日々を送っていた。必ずくる明日を信じ、今日を生きる。それが当たり前に続くと信じている。
兄を諦めていたわけではない。年を経ることに、か細くなっていく兄への希望を抱えて生きるよりも、心の奥底に隠して生きる方が楽になっていた。
わたしの日常は唐突に崩れた。武田先輩の家は燃え、消息は途絶えた。そして京子さんの家も燃えた。わたしにも必ず明日が来るとは限らない。戦わなければならないのだ。日常を勝ち取るために。武田先輩と兄を探しだし、二人を日常に連れて戻さなくてはならないのだ。
「そのままで聞いてくれ」
桜井が口を開く。思わず頭を動かしそうになったが、こらえる。
「君から見て左後方だ。着けられている。シルバーのミニバン、練馬ナンバーだ」
信号が赤になったのか、車の流れが止まった。サイドミラーに視線をむける。ミラーに曲がった姿のミニバンが映る。
「いつから気付いていたの」
「病院を出て少し経ってからだ」
「どうするの」脳裏に堂島家の出来事が蘇る。
「一度迂回する。撒いてから、君の家にむかう」
「自信はあるの」
桜井は頷くと、ウィンカーを出す。車線を変えると、先の信号機の手前に見える細い路地にむけてハンドルを切った。突然の出来事に驚いたらしく、背後でクラクションが夕方の街に鳴り響く。
住宅街の道路を直進していると、サイドミラーに小さくシルバーのミニバンが映った。丁度、大通りをこちら側に曲がってこようとしている。
ミニバンの姿を確認してかどうか、桜井は右に左にハンドルを切る。迷路の様相を呈している住宅街を知っているかのように車を進める。
バックミラーに映るミニバンは必死にわたし達を追いかけようとしているが、わたし達が曲がる度にバックミラーから姿を消し、やがて映ることすらなくなった。
次第に中規模のビルや商店が並び始める。住宅街を抜け、大通りにほど近いところを走っているらしい。片側一車線の赤信号に桜井がブレーキを踏む。振り返っても件のミニバンは姿を現さない。横から視線を感じれば、咎めるような目で桜井がわたしを見る。
「油断するなよ」
信号が青に変わり桜井はアクセルを踏み込む。丁度、交差点の中央に差し掛かろうというところで、対向車線から蛇行しながら車が突っ込んできた。
白のコンパクトカーだ。かなりの速度を出しながら、大きく車の頭が振れている。タイヤがアスファルトと擦れる音が辺りに響き渡る。運転しているのは老人で、驚き目を見開いていた。
「クソッ」
「危ない」
桜井がブレーキを踏んで大きくハンドルを回す。横滑りした車体の回転に体が振り回される。だが老人の運転する車も曲がり、わたしたちの乗る車にはすんでのところで触れず、街路樹にぶつかって停止した。
「大丈夫か」
「ええ」心臓が飛び出そうとはこの事なのかと、胸を抑える。
「まったく、あいつー」
突然、背後から衝撃を受けた。わたし達を乗せた車は受けた衝撃を動力に勢いよく前進し、不幸なことにわたしの意識は鮮明で、目の前に電信柱が迫っていた。
車体が電信柱にぶつかる。ウィンドウが粉みじんに割れて、わたしに降りかかる。爆音と共にエアバッグが噴き出す。前後に激しく体が揺さぶられ、車内にぶつかった頭部が、鈍い痛みに支配される。
乗っていたセダンが激しく異音を奏でる。息が浅い。体中が痛み、どうにかエアバッグを押しのけて、歪んだドアを蹴とばす。頭を抱えたまま外に崩れるように出る。掌を見れば赤く濡れていた。
交差点が騒然としていた。誰もが立ちつくし、わたし達を見ている。
わたし達の乗っていた車のすぐ後ろに、シルバーのミニバンが停まっていた。前方が大きく凹んでいる。追突されたのだと気付いた時、ミニバンのドアがスライドし中から黒ずくめの男たちが降りてきた。
「桜井さん」
車内に戻る。運転席の桜井はエアバッグと座席に挟まれてぐったりとしている。呼びかけるが反応がない。両手を伸ばして、桜井の体を掴み引っ張り出す。
「桜井さん、起きて。あいつらが」
服が掴まれ、そして無慈悲にも引っ張られる。サングラスの男に抱え込まれた。もがくわたしに男はスプレーで何かを拭き掛ける。
意識が落ちていく。薄らいでいく光景の中で桜井は最後まで動かなかった。
「板野は、どうしますか」
縛られたままの板野を尻目に、個室を出た中村だったが、一足先に外で待っていた鈴村が声をかけた。
「あのままでいい」中村はポケットからハンカチを取り出すと黒い液体で汚れた手の甲を拭った。「今はまだ、焦る必要はない」
早歩きの中村の後を鈴村がついていく。文字通り山のように残った書類仕事を、少しでも片付けなければならない。さして期待はしていないが、桜井が五十嵐から情報を得る話もある。個室に残した板野に対しての質問もまだ途中だ。
中村は昂っていた。指揮官はいかなるときも冷静であるべきだと考えていたが、今の中村にそれは難しかった。抑えようとしても自然と足の運びが早くなる。後ろを歩く鈴村は、そんな上司の様子を珍しく思っていた。
戻った事務室の扉を開けた中村は固まった。次いで部屋の中の様子を目にした鈴村がスーツから拳銃を取り出して、引き金に指をかけようとし、それを中村は制した。
「どうもはじめまして、私の名前は森川といいます。ベンチャー企業『H&Ns』の代表をしています」
事務室には中村の知らぬ五人の男が立っていた。彼らは一様にサングラスをかけ黒い帽子を被り、黒いコートを羽織っているが、それぞれが微妙に異なったデザインをしていた。中央に立つ男の手にはタブレットが抱えられてあり、画面には中年の男が映っていた。
「弊社の業務提携先の社長である、板野智明を返して頂きたく参上いたしました」
「そんな男はいない」中村は冷たく言葉を放つ。
画面に映る森川という男は、ぼそっと「挨拶もなしか」と呟いた。緩くパーマのかかった前髪は目にかかる程度に長く、丁寧に刈り揃えてある顎髭と合わせても、中村の目にはキザッたらしく映る。
団地にて死体で発見された飯田大輝と個室にいる板野智明。彼らの背後を洗えば、雇い主が見えてくるはずだと中村は踏んでいたが、まさか向こうから姿を見せるとは。
「事を荒立てようとは考えていません。板野を返して頂ければ、私どもはすぐにでも退散いたしましょう」
「一体なんの話をしているのか分からないな」
いつまでもとぼけ続ける中村に、タブレットに映る男は声を上げて笑い始めた。
「いいえ、私どもは板野がここにいることを知っています」
「君たちは不法に侵入している。犯罪者と話すことはない。すぐに出ていかない場合は武力行使も考えるが」
「こちらとしても、同じことを考えています」
タブレットの中の男は手を振る。すると黒ずくめの男たちはコートの中から拳銃を取り出した。横一列に並んだ四つの銃口は二人に向いている。
「もう一度、言います。素直にこちらの要求を飲んでいただければ、決して事を荒立てるような真似はしません」
「お前たちを私は、いや私達はずっと追ってきた」
中村の荒げた言葉に、タブレットに映る男は表情を無くした。
「のこのこやってきた馬鹿な鼠を逃がすと思うか」中村は不敵に笑う。
「そうですか。残念です」
タブレットの男は悲し気に画面の中で俯いた。
「鈴村、撃て」
怒鳴った中村が拳銃を取り出す。二人は一斉に引き金を引く。銃声が十数発繰り返される。銃弾を浴びた黒ずくめの男たちが、その場に崩れ落ちる。銃声が止み、硝煙立ち込める事務室で中村は肩で息をしていた。
「鈴村、大丈夫か」
「はい。体に異常はありません」鈴村は懐から新たに弾倉を取り出し交換していた。
中村は自身の体と辺りを見回す。自分の体に痛みはない。辺りにも弾痕はなかった。
「こちらから一方的に撃っただけのようです」
「連中の死体を確認する。ついてこい」
銃口を床に倒れた黒ずくめの男たちにむけたままま、二人は近づく。
足元に男たちの遺体があるところまで来ると、中村は腰をかがめた。男のサングラスを取る。黒く濁った瞳からは生気が消え失せ、もう動かないことを確信させた。
「どうしますか」
「解剖に回せ」
中村が死体の顔に手の平を当てた時だった。その中村の腕を死体の手が掴んだ。死んでいたはずの男の上半身が起き上がる。一人を皮切りに、次々と横になっていた男たちが続いていく。中村たちを視線に捉えると体が震えはじめた。
「中村悠二郎」
床に転がっていたタブレットから男の声が事務室に轟く。
「あなたのことは調べがついています。警視庁公安部NBC捜査課の担当管理官。あなたは故メドヴェージェフ博士から得た研究を頼りに、日本でも発生していた古代変形菌による事件の対策のために、この班を立ち上げた」
中村は振りほどこうとするが、男の腕は固くもがくほどに締め付けてくる。
「あなた方だけが秘密を知っているわけではないのです。そして私の考えはあなた方とは違う」
中村の腕を掴んでいた男の口が大きく開いた。目から黒い液体が流れている。
「もし、出会いさえ異なっていれば、あなた方にも理解できたでしょうにー」
男たちの口から勢いよく、黒い液体が吐き出される。体内のものを全て吐き出すかのような勢いだ。五人の男たちは体から液体を吐き切ると、空気の抜けた風船のように薄くなった。
吐き出された液体が意思を持つかのように集まっていく。まとまり始めた黒い液体は球形を形作っていた。人を裕に丸飲めそうな程に膨れ上がった黒い塊からは、丸太程の太さを持つ腕が生える。質量に耐え切れなかった事務室の机が潰れた。
「鈴村、下がれ」
中村は掴まれていたゴム皮のような男の手を振り払う。鈴村と共に銃を構えたまま後ろに下がった。
「中村管理官」
銃声を聞きつけた部下たちが事務室に雪崩れ込んできた。入って来た部下の目の前には自動車ほどの黒い塊と相対する中村の姿が映っていた。
「来るな、逃げろ」中村は叫ぶ。
「―残念です」タブレットの映像の男は心底残念そうにつぶやいた。
それが、中村たちが聞いた最後の言葉だった。怪物は何層にも重ねたような声色で、空気が張り裂ける程の叫び声を上げる。
銃声と叫び声にうめき声、物が壊れる音に肉が潰される音。タブレットの中の男はただ、ひたすらに俯きながら、それらを聞いていた。
「でも、大丈夫。あなた方も、私達と一緒になりますから」
「大丈夫ですか」
声をかけられた桜井が目を覚ます。スーツ姿のサラリーマンが心配そうに桜井の顔をのぞき込んでいた。手を借りて体を起してもらうと、交差点には人が溢れていた。傍にいた主婦や学生たちは交通事故の現場にスマートフォンを掲げている。
交差点にはシルバーのミニバンと桜井達が乗っていたセダンが止まっていた。セダンの前部分は電信柱に衝突したせいで激しく損壊し、後部は突っ込んだミニバンの形に凹んでいる。桜井はようやく追突された事実を飲みこんだ。
もう少し見回せば、街路樹に追突した白のコンパクトカーが見え、老人と警察官が立っていた。恐らくは事情を聞いているのだろう。
正直にいえば、あの老人が憎かった。だが彼に当たったところで時間は戻らない。いまは五十嵐と共に、彼女の自宅を急ぎ目指すほうが先決だ。「横になっていたほうがいいですよ」と助言するサラリーマンに礼を言いつつ、運転していた車を見る。
助手席は空になっていた。
「助手席にいた女性を知らないか」
桜井を介抱したサラリーマンは首を振る。「誰か、知らないか」と桜井は声を上げる。すると人ごみの中から、壮年の女性がおずおずと口を開いた。
「灰色の大きい車から出てきた人たちに抱えられて」女性は大通りを指さす。
「それで、そいつらはどこに」「ごめんなさい、そこまでしか分からないわ」
「クソッ」桜井は地面を殴った。畜生。油断していたのは俺だった。後を追うか。追えるのか。手掛かりがないんだぞ。
一度、中村管理官に応援を頼むしかない。桜井はポケットからスマートフォンを取り出すが、画面は割れていた。
「クソッ。クソッ」
体を満たしていた苛立ちが言葉になって溢れ出す。
桜井はスマートフォンを地面に叩きつけると、周囲の助けを振り払い大通りにむかって駆けだした。痛みよりも憤怒が勝っていた。
日は既に暮れていた。
夢を見ている。
そう思わずにはいられなかった。
目を開いたわたしの視界には夜が広がっていた。どこまでも暗く、だが嫌な色ではない。海だと気付くのは、もう少し経ってからで自然と耳に届いた潮騒がわたしの心を癒す。
半月が雲と仲良く夜に浮いていた。あたりには靄が漂っている。月が照らしてくれているせいか心細さは感じない。
あたりを見回すと、どうやら自分の立っている場所が甲板だと分かった。傾きかけていることに気付き、まさか沈みかけている途中なのかと慌てるが、時が止まったかのように、それ以上の変化がない。見上げた空の月や雲も動かない。
時の停まった夜の世界に、わたしは独り立っている。
直前の事が、霞みがかったように思い出せない。誰かに抱えられた記憶があるのだが、それ以上のことが思い出せない。
「ここは、私の記憶の世界です」
突然の声に振り返る。二人分の影がわたしに近づいてくる。月明かりに照らされて明瞭になった二人はわたしに微笑みかける。禿頭に立派な髭を蓄えた眼鏡の男性と、黒い液体にまみれた青白い少年。二人は手をつなぎ、微笑みを絶やさない。
「はじめまして、五十嵐裕子」
呼びかけられ、わたしは自分が五十嵐裕子であることを思い出す。
「もう、起きる時間です」
二人の体が曲がり始める。驚き戸惑っていると、月がぐにゃりと曲がった。慌て出すわたしを面白がるように、この夜のあらゆるものが異様なほどに曲がり、かき混ぜられていく。まるでパレット上で混ぜ合わされた絵の具のようだ。
出来上がった絵の具の色は黒く、そしてわたしの意識は黒に吸い込まれて暗転する。
電子音が一定の間隔で鳴っている。目を開けると、格子模様の白い天井が目に映った。腕に違和感を覚えれば、点滴針が刺さっている。体を起こすと、わたしは患者衣に着替えていた。
わたしが横になっていたベッドを囲うように布製のパーティションが立っている。傍にはわたしが生きていることを証明するための機械がキャリーに乗っていた。両腕には点滴針以外にも色々と張り付いていた。
「ここは」
頭が妙に重く手で触ると包帯が巻かれてあった。ベッドから降りる。力の抜けた両脚はまるで自分のものではないようで不安だ。
パーティションの間から顔を覗かせ、見えた景色に驚き気が抜けた。普通の事務所が目の前に広がっていた。
綺麗に並ぶ事務机の上にはノートパソコンが見える。窓のブラインドは降りており、壁に沿って並ぶ本棚には仕事に使うのであろう資料が整理されていた。病室というよりは会社のオフィスと言った方が正確かもしれない。
恐らく、オフィスの一部分に機材を運び病室にしたのだろう。
パーティションの裏にわたしの衣服が、これも綺麗に畳んであり、手を伸ばして掴もうとすると、背後で点滴スタンドが音を立てて倒れた。すっかり点滴針が刺さっていたことを忘れ、不味いと思った時には声が聞こえていた。
「誰かいるのか」
敵対心を感じない。むしろどこか聞き覚えのある声だった。
腕に張り付いていた器具やらを抜いて、衣服をひったくると素早く着替えた。パーティションをかき分けて事務室の空間に入る。商社やあるいは雑誌編集などのごく一般的なオフィスに思える。明かりはついているが、部屋に気配はない。
「おーい。誰かいるのか」
声の主は、どうやら事務室の外にいるらしい。半開きになったドアから廊下が見え、そろりと廊下に出る。二、三部屋に続く扉が目に入った。その最も端の扉が開いていた。わたしは恐る恐る足をむける。
照明の落ちた部屋はさほど広くはない。部屋の奥に見える小窓の外は暗く、すでに夜も更けっているようだった。
「おい、そこにいるんだろ。腹が減ってるんだ。早く飯をくわせろよ。いつもの時間を過ぎているぞ」
部屋の床から天井にかけて棒が伸びていた。それが横一列に十数本ならんでいる。檻だ。檻の中央は格子状の扉になっていた。動物を入れるにしては大きすぎる。
檻の中央に誰か座っていた。暗くて顔は分からない。妙に体格がよく見えるのは厚手のコートを着ているからだろうか。頭はぼさぼさで、なるほど、これが鳥の巣頭かと納得してしまう。
「おい、そこにいるんだろう。早く飯をくれよ。楽しみがそれしか残っていないんだ」
両腕を縛られているのがわかったが、檻の中の人物はとても囚われているような立場には思っていないようだ。その不敵な態度と相まって、聞こえる声の主にわたし思い当たるものがあった。
「武田先輩、ですか」わたしの声は震えていた。
檻の中の男は黙った。わたしは檻に近づく。廊下からわずかに届く光に照らされてシルエットだけが分かる。
「武田先輩ですよね」
「お前、五十嵐か」
「先輩」
わたしは檻に飛びつく。檻が大きな音を立てた。
「おいおい。五十嵐。慌てるなよ。俺はどこにも逃げやしねえよ」
「先輩、わたしです。五十嵐裕子です。ああ、生きていたんですね。本当に生きていたんですね」
「そんなに急かさなくても俺は死なないぞ」
武田先輩がけらけら笑う。つられてわたしも笑い、目尻から頬を伝って涙がこぼれた。
「よかった。本当に」
「そんなに簡単に死んでたまるかよ」
わたしの手は自然と武田先輩の方へと伸びていく。檻の間から先輩の頬に指先が触れる。
「五十嵐、そこにいるんだろ。悪いんだけど、飯をくわせてくれないか。いつもなら、この時間になると、連中が飯を持ってくるんだけど、なぜか今日はまだないんだ」
「わかりました。何か探してきます」
「悪りぃな」
武田先輩の囚われていた部屋を飛び出し、事務所の机を片端から漁る。引き出しの中に菓子パンやらチョコレートやら無造作に突っ込まれてあった。両手で持てるだけを抱えて武田先輩の囚われていた部屋に戻る。
「先輩、持ってきました」
「おう、悪いな。もうそれだけが楽しみで。檻に投げてくれればいいから」
「灯りつけますね」
「いや、待て」
部屋の明かりを点ける。檻の中にいた武田先輩の目元は布で覆い隠されていた。
「先輩、目が」
「え、ああ。いや、すまん。誤解させたな。別に見えないわけじゃない。目隠しされていただけだ。それに、急に明かりを点けられると眩しくてかなわなくてな」
檻の間から手を伸ばし武田先輩の目を覆っていた布を剥がす。見間違えるはずのない顔だった。髪の毛は伸ばしっぱなしの上に髭はぼさぼさで、頬はやつれているが確かに武田耀司その人だった。
「お久しぶりです」
武田先輩は肩をすくめて鼻を鳴らすが、観念したように笑った。
「それにしてもよく、ここが分かったな」
「えっ」
「助けに来てくれたんだろ」
武田先輩に食べ物を渡す。先輩は渡された傍のものから次々に口に突っ込んでいく。食べかすがとび、すこし檻から距離を置いた。
「いえ、その。わたしもここで目を覚ましたんです」
「あ、ああ。そうか。悪い」武田先輩は心底バツが悪そうに頬を掻いた。
「とりあえず、この檻から出ましょう」
「そうだな。いつ連中が帰ってくるかもわからんし。多分、事務所のどっかにスペアキーくらいはあるだろう。悪いなあ、お使いばかり頼んで」
「謝らないでください。わたしは自分の意思でこの道を選んだんです」
立ち上がり部屋を出ようとしたときだった。
―自分を信じて
「先輩、なにか言いましたか」ふいに聞こえた声に足を止めた。
「いや、なにも」
武田先輩は檻で菓子パンをむさぼり続けている。そもそも、こんなに優しく囁く人ではない。「できれば飲み物も頼む」とすでに呑気だ。
―君なら、檻を破れるよ
「先輩、何か言いましたよね」
「何も言ってねえ」
―急いで。奴らが帰ってくる
わたしに呼びかける声に振り向く。武田先輩は「何も言ってねえぞ」とわたしが文句を言うよりも早くふんぞり返った。
さっきから聞こえ続ける声に首をかしげる。あの黒ずくめの男たちに捕まった時に何かされたのか。そういえば、妙な夢を見たなと思いながら部屋を出て、わたしの足が止まった。
廊下の奥から黒ずくめの男が一人むかってきた。男はわたしを見ると雰囲気を変え大股で近づいてくる。口をきつく結んでいるのが見える。
―大丈夫、君なら闘える
逃げ場はない。謎の囁きを信じるしかない。見よう見まねでボクシングのポーズを取る。脚も手も震えている。生まれてこの方、喧嘩には無縁だった。
―蹴って
男が走り出した。瞬く間に距離を詰めてきた。口の中は乾ききっている。わたしの脳内に響く言葉のとおりに足を振った。だが格闘家の繰り出すハイキックには程遠く、わたしの蹴りは男の膝の高さまでが精一杯だった。
その足が風を切って音を生む。まるで格闘家の蹴りのような速度を持ったわたしの足は、男の脚に命中する。
蹴りを受けた男が体勢を崩す。廊下に倒れ込むと膝を抱えて悶えた。大の大人が膝を抱えて叫び声をあげている。戸惑うほかない。わたしの蹴りに男を泣かせる威力はないはずだ。
―もう一度、今度は顎を蹴って
顎を狙って勢いよく蹴り上げる。つま先に手応えがあった。まともに蹴りをもらった男はうめき声を上げると、さながら潰れたカエルのように仰向けに倒れて泡を吹いた。
―大丈夫。彼は死んでいない。早く君の大事な人の所へ
「大事じゃない」
不意の言葉にわたしは大声で反論しつつ、先輩の部屋に戻る。肌が熱いのはひと悶着あったせいだ。
「おい、さっきすごい音がしたぞ。何があった」檻の中で先輩は目を丸くしていた。
「先輩、離れていてください」
檻を掴む。力を込めて引くと檻は抵抗もなく、まるで熱された飴細工のように曲がっていく。武田先輩は唖然としてわたしを見る。
「お前、新聞記者を辞めてボディビルダーでも目指しているのか」
「そんなことよりも早く。このビルから出ましょう」
「いいや、それは駄目だー」
声に振り返る。黒ずくめの男が三人立っていた。中央の男はタブレットを持っている。映像の中の男が口を開く。妙にキザッタらしい。
「―君は、もう我々の仲間なのだから」
桜井がエレベーターから出ると、対策班の入っている階層は静かだった。
廊下の照明が不規則に点滅している。蛍光灯が外れかかっているものもある。陰惨な廊下がさらに仄暗さを増していた。いつもは誰かが忙しなく往復しているはずだ。
「誰かいないのか」桜井は拳銃を取り出す。何かがおかしい。
歩を進めると足音が湿っていることに気付いた。桜井は腰を落として床をぬぐう。
黒い液体だった。桜井の焦燥が確実なものになる。何者かに見られているような気すらしていた。周囲の壁という壁に穴があけられ、誰かがそこから覗いているのではないか。
桜井は走り出す。目指す先は事務室だ。脚を前に出す度に痛みがぶり返す。だがすぐに扉が見え、桜井は中に飛び込んだ。
「そんな馬鹿な」
オフィスの中は荒れ果てていた。不気味に点滅する蛍光灯に照らされて書類が飛び散っている。机は凹むか、あるいは異様にも二つに裂かれているものもあった。その全てに黒い液体がぶちまけられてあった。
足裏に廊下から続く不快感を覚え続けながらも、桜井は部屋を歩き回る。
「おい、誰かいないのか。頼む、返事をしてくれ」
桜井を動かし続けていた憤怒は、灰になりかけていた。次第に心を占めるのは、捜査官が持ってはならない感情だった。
「頼む。誰か生きていてくれ」
声は弱々しいものになり、桜井の拳銃が角度を落とし始める。歩幅が小さくなる。桜井の口は悲嘆に震えていた。
そのせいで気付くのに遅れた。部屋の奥に男が立っていた。背中を向けている。
「動くな」
桜井は精一杯の勇気を持って銃口をむけた。互いに口を開くことはなく、黙々と歩を進め男に近づく。時折、男の呼吸音が聞こえてくる。
桜井に気付いた影はちらりと彼を見る。握った拳銃を知ってもなお、緩やかに桜井に向きなおした。
「動くなと言っている」
言うや否や桜井は目を見開いた。男の顔は知っていた。桜井にとってはむしろ、黒ずくめの連中であって欲しかった。まさかこっちを引き当てるとは。
「お前は」
男はまるで感情の消えたような視線で桜井を見ていた。その目元が隠れるまでに長い髪から覗く鋭い視線から、桜井は目を離すことができなかった。