ダークイーター①
われわれは理性によってのみではなく、
心によって真実を知る。
パスカル『パンセ』
車から降りて見上げた相変わらずの空模様に、思わず表情も曇った。
東京から車で二時間ほどの距離にある、北関東の町の空は今にも雨が降り出しそうだった。住宅街に隣接する農地の一角は切り取られ有料の駐車場になっている。意外にも混み合っていたが十年近く利用していたので、それほど駐車に手間取ることもなかった。
季節の移る時期は雨が降りやすいのかもしれないと今朝のニュースを思い出す。「関東地方を中心に西から流れた雲が発達し、ところにより、にわか雨が降るでしょう。お出かけの際は傘を忘れずに」
後部座席から鞄と傘を忘れずに持ち出し駐車場を出る。目の前の交差点で信号が変わるのを待つ間も、あたりに遮るものはなく、絶えず寒風がわたしの羽織ったコートの上から寒さを擦りつけてくる。
信号を渡ると、住宅街が並び始める。歩を進めても自動車こそ時折行き交うが、歩行者とはすれ違うこともない。この天気でわざわざ外に出歩くもの好きもいないだろうが、それでも目に入る光景に寒さが、さらに身に染みる。
先日、武田先輩の残した資料を精査していた、わたしの目にとある名前が留まった。
新聞記事には昭和五十一年の春、北関東の町で女子大学生が暴漢に襲われた事件が述べられていた。女子大学生の名前は戸上京子とある。この時、彼女を助けたのが、まだ若かった堂島郁夫巡査と彼の先輩だった。
灰色の壁を持つ一戸建てが目に入り、わたしの胸に重いものがのしかかる。一戸建てと歩道を区切る門構えは、決して大きくはないが立派だ。そこから覗ける玄関前の庭に人が立っていた。予期せぬ出来事に驚き、インターフォンに伸ばしかけた手が止まる。
「京子さん」
わたしの呼びかけに、何かしらの作業をしていたらしい初老の女性が振り向き、微笑む。
「あら、五十嵐さん。お元気そうね」
堂島郁夫は兄の先輩にあたる警官だった。堂島京子は彼の妻になる。十二年前、事件に巻き込まれ身内を亡くした京子さんとは事件以降も度々、様子を伺い合うようになっていた。
「雨が降りそうだから、早くこっちに来て」
軽く会釈するわたしに、京子さんは小さな歩幅で足早に近づくと門構えにかかっていた閂を外した。口を開く間もなく、彼女は足取り軽く家の方へと戻る。
呆けたわたしの視線の先から、京子さんはあっという間に玄関ドアの向こう側へと姿を消す。空を見上げれば先ほどよりも光が少なくなったように見え、わたしも足早に玄関にむかう。
隅々まで掃除のいき届いた玄関には塵一つ見当たらない。ぱたぱたという足音が聞こえてきそうなほどに京子さんの背中は軽く、まるで年を感じさせない元気さに抱えていた気持ちも幾分か軽くなった。
靴をそろえて上がると、居間へと続く廊下から京子さんが顔をのぞかせた。
「郁夫さんに顔を見せていって」明るい京子さんの顔から、どうしても影を感じてしまうのはわたしの勝手な思い込みだ。
居間に入ってすぐに仏壇が目に入った。室内の照明に照らされて黒く艶やかさをしらしめる仏壇にも埃は被っていない。京子さんから線香を受け取り、火を点けると気品のある香りが部屋に漂う。仏壇に沿えて、両手を合わせると目を閉じた。
再び目を開けた時、京子さんは台所に立っていた。
「もう、十年近くになるのね」お湯を沸かす傍でお茶葉の入った缶を取り出し、小さじで急須によそっている。
「十二年です」わたしたちはそれぞれ、木目調のテーブルの丸い椅子に座った。
お湯が沸くまでの間、京子さんとお煎餅をかじる。「もらいものだけど、どうかしら」と京子さんは微笑みを絶やさない。
やかんが鳴き、お湯が沸いたことを知らせる。京子さんは席から立ちあがって急須と湯呑をテーブルに並べる。お湯を注がれた急須から、色味と香りを伴って液体が湯気を立てながら湯呑に場所を移す。お茶を注がれた陶器の器は温かく、口をつけると苦みが口に広がった。
「最近、めっきり寒くなってきて、辛いわねぇ」
「そうですね。天気も悪いし、余計に身に染みますね」話に相槌を打ちつつも、わたしの心は京子さんの言葉を捉えていない。
「そうよね。洗濯物を干すのも嫌になっちゃうわ」
自分で目線が泳いでいるのは分かっている。お煎餅は一口かじってそのままだ。両手で固く包んでいる湯呑の温かさばかりが伝わっている。
「新しく見つかったことがあるのね」
京子さんがまっすぐに私を見る。彼女の面影には、かつて「絶対に見つかるわ」とわたしを励ましてくれた優しさが残っている。だが、その目はわたしの揺れる心を捉えて離さない。逃げることを許さない強さがある。
「実は、お話があります」
「私に分かることなら、どんなことでも答えるわ」
鞄からクリアファイルを取り出す。武田先輩の残した靴箱から持ってきた新聞紙が挟んである。
「この記事に記載されている女子大生は京子さんのことですよね」
まじまじと新聞記事を見つめる京子さんの表情には、様々な思惑が混ざって絡み合っているように見えた。
「ええ、そうよ。よくわかったわね」京子さんは降参したように笑った。「でもね、隠していたわけじゃないのよ」
そうだろうとも思う。まさか四十年も昔の事件が、失踪した知り合いの事件と関係しているとは露にも思わないだろう。わたしにしても、武田先輩の残した資料の中になければ気づきもしなかったに違いない。
「じゃあ、これがきっかけで」
「そうよ。この時に郁夫さんに助けられてね。もうあの人ばかり気になっちゃって」京子さんの照れ方は、まるで少女のそれで、見ているこちらが恥ずかしくなる程だった。次に投げかける質問を用意した、わたしの心がちくりと痛む。
「この時の暴漢のことを覚えていますか」
京子さんに会いに来る前に、この事件については事前に調べて回っていた。事件の内容を調査していく内に、暴漢の身なりが黒ずくめの者だと分かったことは、わたしに確信を与えた。武田先輩を襲った連中と身なりが同じだからだった。
言葉を受けた京子さんは口を結び、じっと記事に視線を落としている。今でいえばストーカーによる事件だ。この後、被害こそなくなったものの、心に深く傷が残っていることは想像に容易い。
「これもお兄さんの、五十嵐浩太さんにつながるのね」
再びわたしを見る京子さんの顔は真剣なものだった。わたしは頷いて返す。
「あれは、そうね。わたしが居酒屋さんで働いていた時の事よ。アルバイトでね。見られていると思った時には、もう付きまとわれていたわ」
京子さんの顔色は過去を映し出すように、声色は絞り出すように当時の状況を述べる。
「そう、決まって雨の日だったわ。ある夜、襲ってきたのを、わたしは寮母の長谷さんと一緒に逃げ出してね。助けてくれたのが郁夫さんだったわ」
京子さんの瞳から輝きが失われていく。わたしの心の裡にのしかかってきた物に、体が押し潰されそうになる。
「郁夫さんたちは拳銃を撃ったの。だけど立ち上がってきたわ。叫び声を上げると、逃げていったの」
わたしは京子さんの手を握っていた。彼女の手は小刻みに震えていた。目の前に座る女性の小さくなった姿が、鼻の奥をつんと突き刺す。
「ありがとうございました」
「いいのよ」京子さんは頭を振って笑った。
わたしの手からそっと京子さんが離れていく。
「浩太さんについて新しくわかったことがあるのね」
「実は会社の先輩から、新しい情報をー」
耳に音が届く。何かが弾けるような音だ。降り出した雨が屋根にあたって弾けているのだろうか。それにしてはいやに音が軽い。
京子さんは怪訝な表情を浮かべながら、しきりに鼻を動かし周囲を見回す。わたしの鼻にも妙な臭いが届く。京子さんが振り返り、わたしもそちらを注視する。ガスコンロが目に入った。
焦げ臭い。だがコンロに火はついていない。やがて目がにじみ出し、部屋の上部が白く霞んで見えるようになると、わたしたちの間に焦燥感が漂い始める。
「五十嵐さん、後ろ」
京子さんはわたしの背後を指さす。手が震えていたが、それは別の感情によるものだと、わたしは振り返って分かった。
庭に人が立っていた。
サッシを通して見える庭先に三人、立っている。黒を基調とした服装でまとめ、曇り空にも関わらずサングラスをかけている。そのせいで表情は分からない。口を一の字に結び、庭先からガラスを通して、わたしたちを見ている。
彼らの足元から煙が上がっている。白い煤がガラス窓に張り付き汚していく。彼らの足元で燃える何かが、ぱちぱちと音を立て目に見えて火が大きくなっていく。
「火事です」
「燃えているわ」
わたしたちが叫んだのは、ほとんど同時だった。様子に気付いた黒ずくめ人達は肩をゆらしている。笑っているのだと気付いたとき、彼らの口角は異様なまでに持ち上がっていた。
外で燃えているものが炎をたてる。白かった煙は色を変え、黒く空へと膨れ上がる。すぐに窓ガラスの隙間から部屋の中に入り込み、わたし達に迫りくる。
京子さんが大きく咳き込んだ。振り返ると、部屋のあちこちから黒い煙が入り込んでいた。
「京子さん、これを」
すぐさま鞄からハンカチを取り出し、背中を丸めて煙にむせかえる京子さんの口にあてがう。咳き込む京子さんを抱き抱えて居間を出る。とにかく外に出なくては。
「そんな」
廊下を抜け玄関が目前に迫ったところで、わたしの足は止まった。玄関ドアの擦りガラスに黒い人影が映った。焦るわたしをよそに、煙はその量を増し検知した報知器がけたたましく鳴り響く。
家の裏手から出るしかない。姿勢を低くしながら来た道を戻り、キッチンへと向かう。
「風が」
僅かにわたしの頬をなぞるように風が当たった。家の中にたまっていた空気が流れ始め、向かうはずの裏手に黒煙が流れていく。誰かが窓か扉を開けたに違いない。わたしの足に力が入る。
再び、居間に戻ると目の前に炎に包まれた部屋が広がった。赤色が目に眩しく、薄目でいるのがやっとな程だ。黒々としていた仏壇にも炎が魔の手を伸ばし、隅から燃え始めている。あちこちで燃えたものが割れ、乾いた音をたてる。
「ぐふふっ」
体を舐めまわすような笑い声に、わたしは京子さんを抱えたまま燃え上がる居間に立ちつくしている。視界に映るのはキッチンに立つ黒ずくめの連中だった。
わたし達を見つけた彼らは再び下品な笑い声を上げると、目標であろう、わたし達を指さし互いに頷き合う。
黒ずくめの連中がゆっくりと歩み寄る。まるで火を恐れない彼らの様子に、じっとりと汗をかきながら、わたしは固まる。追いつめられた。
「い、郁夫さん」
横で苦しそうにする京子さんが小さく声を出し、そしてわたし達の眼前に巨大な物体が倒れ込んで来る。その物体の衝撃でわたしは床に体を打ち付けられ、耐え切れず手を離した京子さんの体も崩れ落ちる。
堂島郁夫の仏壇だった。炎を纏ってなお黒々とした仏壇はわたし達と、迫る黒ずくめの連中の間に倒れて遮る。キッチンから近づいて来た黒ずくめの連中は逆に居間に閉じ込められ、叫び炎に悶え始めた。
黒ずくめの連中の叫び声を背に受けた、わたしの目に映るのは玄関だけだった。もう他に出口はなく、わたし達の体力もない。長い間を炎に包まれ過ぎた。
燃える家に息をすることさえ苦しく、視界がはっきりとしない。手をついて立ち上がることすらも難しい。ぐったりした京子さんをどうにか引き寄せると、膝をついて這いつくばるように玄関を目指す。
ほうほうの態で辿り着いた玄関にわたし達は崩れ落ちる。なんとか体を起こして扉を押すが、びくともしない。扉の向こうから聞こえる下品な笑い声も耳に遠く、酸素を求めて口を開くが喉が焼け付くように痛い。
熱気と黒煙がわたしたちを蝕んでいく。口を開けても入るのは熱気ばかりで、空気が吸えず意識が途切れそうになる。京子さんの顔すら、はっきりとしない。
わたしの手は縋るようにドアノブに伸びる。指を掛けて体の中に残った欠片ほどの意識でドアノブを押す。涙すら熱気に乾いていた。
静かに玄関ドアが開いた。わたしの目に堂島家の庭先が映る。
「五十嵐裕子」
外に立っていたのは黒ずくめの連中ではなかった。
「五十嵐裕子」
背の高い人だ。輪郭だけが分かる。目の前から聞こえる声は男性のもので、必死にわたしを呼ぶ。
さらに二度、三度わたしの名を呼び、わたしは曖昧に頷き返す。外から流れてくる空気がわたしの体を冷やしていく。途切れかけていた意識が少しずつ繋がり始める。
「おい、死ぬんじゃないぞ」
体がふわっと持ち上げられる。曇っている空が目に眩しく、見上げた空から雨が降りかかった。男性は、わたしを燃える家から遠くに降ろすと、再び玄関へと走っていく。わたしの視線の先に玄関近くで倒れている黒ずくめの男が映った。
遠くからサイレンの音が、空気を切り裂いて耳に届く。次第に高まる音量に耳を塞ぎたくなるが、両手すらも動かすことが出来ない。サイレンの音量が最大にまで高まったところで、ふっと音が途絶えた。
もぞもぞと体を動かす。冷たい風に頬を撫でられたまま横たわる私の目に、鮮やかな赤い車体が入る。 車内から飛び出してきた消防隊員たちが放つ怒号が辺りに響き渡り、周辺の住人が顔を出す。消防隊員の動きは素早く、すぐにも堂島家に大量の水が被せられ始めた。
わたしは消防隊員の一人に強引に抱えあげられる。すぐに救急車も姿を表し、道路に停まった車体から隊員とストレッチャーが飛び出してきた。抱えた消防隊員にそのままストレッチャーに乗せられる。
すぐに酸素マスクをかぶせられる。次々にかけられる声にわたしは朦朧とした意識で、どうにか頷くが、それもあやふやだった。最後に見えた光景は、玄関から慌てて飛び出してきた男性が京子さんを、救急隊員が引っ張って来たストレッチャーに乗せる姿だった。
わたしの目の前を看護師が忙しなく行き交う。わたしに気付いた様子の看護師が、質問しているのが分かるが、だが何を言っているかまでは理解できず意識は再び沈む。ようやく話せるようになるまで回復するのに、わたしは半日以上を眠りに費やした。
「五十嵐裕子さん、だね」
ベッドの上で体を起こした、わたしの前には二人組のスーツ姿の男性がいた。病室にわたし以外のベッドは無く、個室という特別な待遇からも警戒心が身を固くしていた。
「心配する必要はない。私達は君の味方だ」椅子に腰を落とした初老の男性がゆっくりと喋る。
二人組の男性の内、一人には見覚えがあった。堂島家でわたしと京子さんを助けてくれたのは彼だった。
「私は中村という。後ろのは君を助けた桜井だ」
部屋に差し込む午後の陽気に照らされて、桜井が表情を柔らかくする。彼の手には包帯が巻かれてあった。
「危ないところだったな」
「京子さんは」
間髪をいれない発言に二人は一瞬固まり、だがすぐにペースを取り戻したように空気を緩めた。
「堂島京子もこの病院で治療を受けた。医者によると、命に別状はないらしいから安心してくれ。しばらくは入院することにはなるだろが、君が心配するようなことは起きないはずだ」
「わたしが京子さんの家に行ったせいで」
「偶然だ。君が堂島京子に近づいたことと、連中が君たちを襲ったことは不運が重なっただけだ」
わたしの中で何かが引っかかるのを感じた。眉をひそめ、中村と桜井を交互に見るが二人の表情に変化はない。ごく穏やかなものだった。
「医者は一週間ほど入院することになるだろうと言っている。無事退院出来たら、君たち二人をしばらくの間、我々の元で保護すー」
「ずっと、監視していたんですね」
穏健な会話を無理やり切る。わたしの睨みに目の前の男二人は、顔を見合わせることもなく面を被ったように表情を隠した。
「まずは、君たちの命を救ったことに感謝してくれてもよいのではないだろうか」
「ありがとう」
わたしの言葉に中村は目を細めて頷いた。両手を組むと改まった様子でわたしの正面に向き直す。
「君は、我々が探している五十嵐浩太の弟だからな。彼と接触する可能性は考えて当然だろう」
「十年近くも監視していたんですか」
「君が行動を起こした理由を知るまでは話す事はない。どこから斎藤明彦の情報を知ったのか。そして彼から知り得た事があるのかどうか」
中村の年相応に垂れた瞼の奥から覗く瞳はうろんで思考が読めない。新聞記者の頃、時折こういった人に取材をしたことがあったが、情報を得ることは難しかった。
「我々にも信念がある。守るべき国民を傷つけてまで敵を排除しようとは考えない。ただし、君の気が変わるまでは病院に留まってもらうことは分かってもらいたい」
「協力しろと」
「その方が、君とっても安全だ。危うく命を落としかけたのだから」
睨みつけるわたしに、中村は立ち上がり見下ろす。スーツを翻し背中をむけると音も立てずに部屋を出ていった。残された桜井がさっきまで中村が座っていた椅子に腰かける。
「ちくしょう」
ぽつりとこぼれ落ちた独り言を掴むように握りしめた拳は、ベッドに叩きつけられず弱々しくベッドの上に置かれるだけだった。事がそう簡単に運ぶとは思っていなかったが、わたしの想像以上に迫る困難は強大で数が多い。
いつまでもここにはいられない。中村は情報を渡すまではわたしを病院から出すつもりはないらしいが、仮に渡したところで蚊帳の外に放り出されるだけだろう。今の私には部屋の壁に集めた情報だけが全てだ。
あれを失うことは武田先輩の意思をも裏切ることになる。
「落ち着いて」桜井はわたしの両肩を抑える。「傷にさわるよ」
妙に広さを感じるようになった部屋を見回す。憎らしいほどに清潔感の溢れる部屋だ。
「管理官も言っていたけど、俺の名前は桜井」
わたしが睨み返すだけで、彼は肩をすくめた。どうにかして、こいつを引き込むか。あるいは隙をついて出し抜くか。
「焦る気持ちも分かるけど、少しの間だけでも休んだ方がいい。それに、俺がいなかったら、あんたたちは死んでいたよ」
「あんたが連れてきたんじゃないの」
「まさか。尾行には細心の注意を払ってる」
「どうだか」そっぽをむく。先ほどまで見せていた窓の向こうの太陽は姿を消し、空には灰色が広がっていた。ぽつりと窓ガラスに雨粒が当たって模様をつくった。
「兄さんを知っているようね」わたしの脳裏にモニターに映された兄の写真が甦る。
「悪いけど何も言えない」
「京子さんの家を取り囲んでいた連中は、どうなったの」
わたしの記憶が正しければ燃え上がる堂島宅の中に三人、玄関外に一人、黒ずくめの男がいたはずだ。彼らも病院に運ばれたのだろうか。
「それも言えない」
「つまりは生きているってことね。死んだらわざわざ隠す必要もないものね」
「ご勝手に」
困り果てたような受け答えをする桜井を睨む。素直な人のように見えるが、それも装っているだけかもしれない。何もかもが疑わしく、焦りが心を占めていく。
「ねえ、知りたくない。誰も知らない情報。あんたの同僚も出し抜けるような。あんたの、あの中村っていう上司に褒められるような、とびっきりの情報」
「俺の仕事は国民を守ることだ。手柄を立てることじゃない」
「あっそう」
先ほどまでの桜井の温和な態度が段々と強張っていく。眉をひそめ、けん制するかのようにベッドに手を置いた。
「余計なことは考えない方がいい。君の見張りについているのは俺だけじゃない」
「あなたたちはどこまで知っているの」
わたしの質問に桜井は肩をすくめるだけだ。その仕草が馬鹿にしたように映る。彼の気持ちには、そういった感情はないのかもしれないが、じれったさに爆発しそうだ。
「取引をしないかしら。わたしを自宅まで連れて行ってくれたら、情報を渡すわ」
「わざわざ君が行くまでも無い。同意が得られれば、中村管理官と部下が君の部屋を捜索する」
「ちょっと、それどういうことよ」思わず身を乗り出す。体のあちこちが痛むが気にもしてられない。
「連中を捕まえるためのチャンスなんだ。」
「そんな理由で納得できる訳ないじゃない」
「この瞬間も、連中は人々に危害を加えようとしている。彼らを止めることができるのは、俺たちだけだ」
頭に血がのぼったのが確かに分かった。怒りに震える両腕を伸ばして桜井の胸倉をネクタイごと掴み、引っ張り込む。
「おごってんじゃないわよ。あんた達になんかにねえ、力なんか借りなくても兄を探し出すし、わたしを襲ってきた連中も捕まえて、まとめてあんた達の目の前に突き出してやるわよ」
鼻先にかすめそうな桜井の顔を睨む。桜井の眉間の皺は固く寄り瞳は微かに震えてはいるが、臆せずにわたしを睨み返す。きつく結ばれた口が震えている。さっきまでの穏やかな表情は消え、瞳越しに怒りがふつふつと伝わってくる。
「離してくれないか」
桜井がわたしの手首を掴む。桜井の低く感情を抑えた声に、わたしは指をほどいた。
「わたしは病院を出たい。あなた達は情報が欲しい。そういうことよね」
桜井は納得しかねた表情でスーツの襟を正し、ねじ曲がったネクタイを直している。
「情報を渡すわ。ただし、行くのはわたしとあんただけ。中村は抜きよ」
「人の話を聞いてないのか、君が行く必要はー」
わたしは鞄からスマートフォンを取り出し、分かりやすく見せつける。
「このスマートフォンは家のパソコンと同期しているわ。指先一つでパソコンの中のデータを消すことができるの。もし、あんた達が無理矢理データを引っ張り出してきても、スマートフォンに知らせが来るから、わたしはこの場でデータを消すことができる」
果たしてわたしのはったりは通用するのだろうか。自信はないがやるしかない。
「わたしを自宅まで連れて行ってくれた場合にのみ、パソコンに隠してある情報を渡すわ」
桜井は、どんどん詰め寄るわたしとスマートフォンとを一切の表情を変えずに交互に見比べる。
「お互い時間は無いはずよね。あの黒ずくめの連中がわたしを探していない理由は無いわ。わたしの家を探し出すのも時間の問題よね。どうするの、このままわたしと口論して時間を無駄にするか、それとも素直に従って情報を得るか」
口からでまかせを並べるが、むしろ現実味を帯びているような気がしてならない。
「さあ、どうするの」
桜井は口を開かない。だが瞳は雄弁に語る。迷いが生じているのが手に取るように分かる。
してやったり、とわたしは心の中で呟いた。
「少し、時間をくれないか」
桜井はやや俯いたまま立ち上がり、扉の向こう側に消える。しばらくすると、外から話し声が聞こえるようになった。どうやら桜井と彼の同僚が話し込んでいるらしい。
話し声が消え、やや間が空いて病室の扉が静かに滑る。しかめっ面の桜井が立っていた。
「すぐに発つ。外にいるから、準備を終えたら出てきてくれ」そう言い残すと桜井は再び扉の向こう側に消えた。
スマートフォンを鞄に戻すと、病室の隅に畳んであった服に着替える。いまだに染みついている臭いに、火事の記憶を呼び覚まされ、えずく。胃から上がって来たものを飲みこみ着替え終えると、わたしは自分の頬を二度叩いた。
闘いはまだ始まったばかりだ。
「桜井から連絡がありました。五十嵐と共に彼女の自宅に向かうと」
病院を出るまで僅かばかりに顔を見せていた太陽は、曇り空に覆い隠されていた。そのせいで廊下は薄暗く、一定の間隔で蛍光灯が廊下を照らしているが、それがかえって不気味さを際立たせる。
そんな様子の廊下を物怖じもせず、中村は早足で個室にむかっている。傍について歩くのは鈴村だった。五十嵐たちの入院する病院から離れていた中村悠二郎は、対策班が居を構える都内のビルに帰っていた。
「たぶらかされたか」
中村の冗談に鈴村は眉一つ動かさない。独り言になった冗談はふらふらと空を漂い消えていく。
「病院内に置いておかなくてもよろしいのですか」
「構わない。しばらくは連中も五十嵐裕子に手を出すこともないだろう。あそこまで観衆に晒されたんだ。暗がりを好む陰気な連中には耐えられんだろうさ。それよりもだ―」
二人の足が扉の前で止まる。灰色の扉には取っ手が付いているだけで、他に特徴らしいものもない。
「―こいつから、情報を聞き出すことが先決だろう」
中村が扉を開ける。室内は暗い。部屋の中央には裸電球に照らされて男が一人、椅子に座っていた。両手は椅子の背もたれに縛られている。男は中村に気付くと顔を上げたが、すぐにまた顔を伏せた。
「桜井の手柄だな」
中村は部屋の中央に歩み寄る。部屋には中村の部下が数人立っている。部屋の暗がりから中村と椅子に縛られた男の様子に神経を尖らせていた。
「堂島家の玄関は寒かったか、それとも暑かったか。板野智明」
中村が男の目の前に立つ。
「少し前に団地にて死体で発見された飯田大輝を覚えているか。いや、大学からの付き合いのある友人を忘れるはずはないだろう」
板野と呼ばれた男はじっと俯いている。
「飯田大輝はお前の警備会社の社員だったそうだな。社長ともあろうものが、老人の家を襲撃するなんて卑怯な真似をするとはな。落ちぶれたものだ」
中村は板野の顔に手を伸ばすと、顔をこちらに向かせる。板野の両目は黒く濁り、口から垂れる唾液は黒く滴っていた。
「聞け、板野。お前が感染していることは分かっている。もはや板野という人間の意識が残っているとも思っていない。だが、こうしてお前を生かしているのは、お前に価値があるからだ」
中村の靴に板野の唾液が垂れてかかる。中村は掴んでいた頭を離すと、部下の用意した椅子に座り、手を組んだ。
「何もかも話してもらうぞ」
曇り空のまま陽は沈んでいた。橙色の街灯が点き始め、辺りを温かみのある色で照らす。仕事を終えた人たちの帰宅ラッシュも終わり、ビル街には人の影もまばらだった。
中村たちが板野智明に対し尋問を始めた頃、ビルの外に人影があった。横一列に並んだ五人の黒ずくめの男たちはじっと、対策班の入るビルを見上げていたが、やがて寸分たがわず足並みをそろえると、そのビルへとむかっていった。




