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ダーク・イーター  作者: loveclock
解明編
11/19

インタールードB

 暗い部屋の中に二人の男がいる。時刻はまだ正午を回ったばかりだが、立地が悪いのか部屋に日差しは入らず、部屋の明かりが点いていないせいもあって、気が滅入りそうなほどだ。

 八畳の部屋には椅子が二つ置かれていた。男たちはそれぞれに腰を落としていた。男の一人は手を椅子の背もたれに縛られ、猿ぐつわをされながらも毅然として前を向いている。少し前までは布袋まで被されていたのだから、拘束のフルコースともいえる状況だった。

 もう片方の男は俯いていた。表情は分からない。男の手には刃渡り十数センチはあるナイフが握られ、鈍く光り、その存在感を示している。

 サッシを通して外にベージュの建物が見える。横一列に並ぶベランダが建物を彩る模様のようだ。今、二人が向かい合っている部屋の広さから鑑みるに、縛られた男は団地の一室に閉じ込められていることをすでに理解していた。

「飯田大輝」

 部屋の窓と扉が閉め切られているせいで、澱んだ空気が次第に熱を帯び始めるかと思いきや、いつまでも寒さがぬぐえない。縛られた男は両足のつま先を曲げたり擦り付けあったりしていたが、呼ばれて顔を上げた。

 俯いていた男が口を開き、飯田の猿ぐつわを外した。唾液が布を濡らしていたが、嫌がるそぶりも無く部屋の隅に投げ捨てた。

 飯田は男を改めて観察する。前髪が長く目元がほとんど隠れてしまっているせいで、男の表情が読めない。肌は極端に白く、血管が透けて見えそうだ。ナイフの柄を握る指には遊びがあり、男が平穏な生活を送る類でないことを伺わせる。

 だが、プロではないというのが、飯田が持つ率直な感想だった。誘拐の隠し場所としては、不正解ともいえる団地に人質を匿うとは。少しでも声を上げれば聞きつけた住人が助けにくることは十分にあり得る。

 男の持つナイフが唯一の不安要素だったが、飯田は何度かシミュレートを重ねるも、いずれとして目の前に座る痩躯の男を組み伏せることは容易だった。

 結局のところ飯田が助けを求めて声を上げることをしなかったのは、彼の過去の経験に基づく自信に依るもので、目の前に座る男の誘拐ごっこに付き合ってやろうと呑気にも構えていた。

「小学生ですかね」

閉めきられ鬱屈した部屋の雰囲気とは反対に、外から子供たちの無邪気な声が聞こえてきた。帰宅途中のようで、これから誰の家で遊ぶのかといった議論が繰り広げられている。

 飯田はなるべく友好的に捉えられるように話しかけた。男は相変わらずの様子で俯いている。発した言葉が聞こえていないのだろうかと、もう一度、同じことを口走ろうとする。

「近くに小学校がある。子供も通るだろうさ」

 飯田は驚いた。話しかけた内容も誘拐犯とするには、ずいぶんと間抜け内容だと思ったが、ナイフを持つこの男の受け答えも似たようなものだった。当たり前の事実が特別なことのように思える。

「飯田大輝」

 再び、自分の名前を呼ばれ飯田は口を閉じた。

「一九七○年、六月七日生まれ。大学生の時はアメリカンフットボール部に所属し全国大会で優勝。同じ大学のチアリーディング部の妻とは卒業後に結婚。現在は都内に一戸建てを構え、高校生と中学生の娘たちと共に順風満帆な生活を送っている」

「家族には手をだすな」

 今度は男が黙る番だった。飯田の剣幕に押されたのか、男は一時口を閉じたが、またすぐに再開した。

「卒業後、一般商社に就職するが退職して自衛隊に入隊。三十手前で除隊し、現在は民間の警備会社に勤めている」

 飯田が友人に誘われ共に立ち上げた会社だ。普通の警備会社としてやっていけたのは、はじめの二、三年限りで、近年は人に言えない仕事のほうが増えてきた。

「よく調べたな」

 飯田は、この男に恐怖を感じていなかった。誘拐にも慣れていた。むしろ飯田が請け負う業務の一つですらあった。だが家族のことになると膝が震えだす。すでにこいつからの要求の電話が会社か家族にとんでいるのだろうか。

「目的はなんだ。金か情報か」

「あんただ」

 消え入りそうな声で言うと、男はようやく顔を上げた。長い前髪の隙間から覗く視線が、飯田を射貫く。口を開けるが言葉が出ない。

「気付いていないだけだ」男の口調からは諦観すら感じる。

「何の話だ」飯田の問いかけに男は答えない。

 男が立ち上がった。刃が飯田の目の前の高さまで持ち上げられる。縛られた飯田が身構える。足先の冷えは気にならなくなっていた。

「何が知りたいんだ」つま先で畳をしっかり踏みこむ。

「奴らだ」

「奴らって、誰だよ」

「お前の中の住人が知っている。話してもらうぞ」

 男がナイフを下向きに持ち替えた。瞬間、飯田は体勢を後方に崩しながらも男の持つナイフを蹴とばそうと左足をすばやく振り上げた。

 飯田の放った蹴りは空を切った。目を見張る。男は僅かに肩をそらしただけで、飯田の左足をかわした。男が飯田の右足首を掴んだ。足の裏にナイフの切っ先を当てる。

 小粒の石を踏みつけた時のような、こそばゆさが生まれるが、それは体をせり上がっていくうちに嫌悪感に変化し、巨大な獣に背中を舐められているような錯覚すら覚える。

 土踏まずに触れた切っ先に重みを感じ、飯田は歯を食いしばった。冷たい刃が靴下を貫き、筋繊維を裂いていく。裂かれた肉の奥から流れ出た血が靴下を濡らしていく。

 飯田は喉の奥から湧いて出てくる感情を抑えられず、悲痛な叫びが部屋に響き渡った。


「眞島少年を襲った怪物をなんとか倒した後、俺たちはあの怪物について調査を開始した。だが有力な情報を手に入れることは難しかった。そんな時だ、武田君と君のお兄さんが町にきたのは」

 和室に差し込む光は柔らかく、ほのかに温かみを感じる。座卓を挟んで正面に座る斎藤明彦は過去に起きた怪物との邂逅を話し終えると湯呑に手を伸ばした。

 わたしは斎藤がお茶をすする様子を見ている。創作にしても、B級映画よりもひどく安っぽい話だ。

「信じろという方が無理な話だ」

 斎藤は湯呑を座卓に戻して私を見る。目尻のしわは細く柔らかく重なっていく。

「だが、真実だ。町に住む老人に聞けば皆が同じことを口にするだろう。怪物を見たとな。まあ、いくら言っても信じられないだろうからな、見た方が早い」

 斎藤は手招きして、わたしに隣に来るように促す。畳んでいたノートパソコンを開き、マウスを操作して映像ファイルを呼び出した。迷いの無い手つきに驚き感心してしまう。

 映像を再生させる。監視カメラの録画のようだ。画質は悪く、画面に出る時刻表示で夜中に撮られたものだと分かった。

「この映像は武田君がくれたものだ」

 監視カメラはエレベーター前のフロアを映している。エレベーターの扉が開き、中から警備員の男性が姿を表した。手を口にあてて欠伸をしている。

 警備員がフロアに一歩足を出したと思いきや、何かを見つけたように固まり、慌てた様子でエレベーターの中に戻った。ボタンの前で激しく腕を震わせているのは、連打しているからだろう。

 ゆっくりとエレベーターの扉は閉まっていく。完全に閉じ切ったかどうかという、その時だった。画面の外から黒い塊が表れ、扉に衝突した。衝撃の余波でカメラの画像が一瞬乱れる。

 しばらくの間、怪物は扉に張り付いていたが、無駄だと考えたのか来た方向へと姿を消していった。ずるり、という音が聞こえてきそうな動きに鳥肌が立つ。

 斎藤が動画を数秒戻すと一時停止させた。扉に張り付く怪物の姿が表れる。「怪物の体をよく見てくれ」

 わたしは画面を睨む。画質が悪いせいではっきりしないが怪物の体が黒いのは分かる。その体に楕円形の白いものが、いくつも張り付いていた。

「これ人の顔ですか」

 わたしの言葉に斎藤は頷いた。

「こいつが、俺たちの遭遇した怪物だよ。どうやら日本各地のみならず、世界中で存在が確認されているらしい。それも武田君がくれた情報だ」

「映像は他にもありますか」

「ああ」

 斎藤の再生する映像には時と場所を違えども、その全てに黒い塊の怪物の暴れる様子が映っていた、どれも本物と判断するには材料が不足していたが、かといって嘘にも見えない。

「この怪物の正体は、目的は」

「どちらもはっきりとしない。理由があって人間を襲ってはいるのだろうが、ただ人間を食っているだけか」

「斎藤さんはどのように考えていますか」

 斎藤は腕を組むとじっと目を閉じた。「うーむ」と唸って考え込む姿は、ほとんど切り株だ。部屋の四方を支える飴色の柱木と若草色の畳と相まって森の中にいるように思えるのは想像力が過ぎるだろうか。

「俺の私見は、あの怪物は人間を捕食しているのだと思う。先ほど話した眞島少年の件では、死んだ怪物から融けかかった人間の体が出てきた。それに少年を餌に俺を釣ろうとしたことからも、ある程度の知識があることは想定できる」

「人間を栄養にする」

「人間が他の動物を食べるように、人間を捕食する生き物がいてもおかしい話ではないとは思うが。だがそれでもー」

 斎藤は口をつぐむと渋い顔で空を睨んだ。視線の先に顔を見たこともない少年の顔が浮かんでいるようだった。

「兄は元気そうでしたか」

 無理矢理話題を変えると、斎藤は瞬きを繰り返した。

「ああ。元気だったよ。ただあまり喋らなかったから、詳しく聞かれると困るが」

 斎藤は困ったように笑い、わたしもほっとする。「私の兄だと、よくわかりましたね」

「一度だけ妹がいると話したらしい」

 わたしの鼓動が跳ねた。口の中が急に乾く。わたしの湯呑はすでに冷めきっている。

「同じ苗字の知り合いがいることに偶然を覚えた武田君も調べ、それで君の名前が表れて驚いたそうだ」

「どんな様子でしたか」

「物静かな人だったよ。俺と武田君との会話にはあまり絡んでこなかった。必要な時だけ口を開くといった感じだった」

 気を遣われている。「一緒に行動をしていたのですか」

「詳しいことは俺にも分からないが、どうも武田君は五十嵐君に助けられたことがあるらしいが、連れてくることには相当難儀したようで、翌日には武田君を残して町を去っていったよ」

「その後のことは分かりますか」

「いや。武田君も慌てて彼の後を追って町を出ていってな。それきりだ」

「兄は何か話しませんでしたか。どんな些細なことでも構いません」

 思わず身を乗り出したわたしに、斎藤は首を振った。「食事時ですら姿を見せなかったよ。友恵さんは、息子の嫁さんだが、少なくともいい気分はしなかっただろうな」

 斎藤が座卓の上に鍵を置いた。鍵の頭は青いプラスチックで覆われている。二桁の番号が記されていた。

「武田君が置いていったものだ。自分の身に何か起きたら、この鍵を開けて中の物を持っていってくれと言われたが、これは君にふさわしいものだと思う」

 わたしは手を伸ばし鍵を取った。「どこの鍵かは」

「調べれば、すぐに出てくると言っていたよ」斎藤は首を振って笑った。


「もう帰りのバスはないだろうから、今夜は泊まっていきなさい」

 斎藤明彦の昔話は存外に長く、だが気付いたときにはすでに太陽は水平線の向こう側に姿を消していた。わたしは言葉に甘えて斎藤宅の一室を借りた。

 宴会とまではいかないものの、息子の斎藤剛士はしきりにお酒をすすめてきたが、息子夫婦が腕を振るった夕飯は、しばらくの間ちゃんとした食事を取らなかったわたしにとっては満腹感以上のものを与えてくれた。

 その後に頂いたお風呂も、かわいい二人のお孫さんたちによる執拗な質問攻めも、わたしのすり減らした感情を覆っては癒していく。純粋という言葉も知らないような子たちが目を輝かせる姿に、かつての新人だった頃の自分が重なる。

 わたしは布団の中で昼間の話を思い返す。武田耀司の住んでいたアパートが火事で焼失し、本人は消息を絶った。残されたメモを頼りに、見知らぬ土地に住む老人に会った。そして消えた武田が十二年間、探し続けた兄と関わっていたことを知った。

 肉体も精神も疲労困憊していたが、中々眠りにつけない。明かりの消えた部屋でわたしは天井板をぼうっと眺めている。思考はまとまらず、だが起き上がり整理するほどの気力はわたしの中に残っていない。

 黒い怪物。この町の自警団が戦った存在。「俺も助けになれないかと思っていろいろ探っているが、情報がなくてな」と斎藤は申し訳なさそうに頭を下げた姿に、わたしも慌てて続いた。

 残された情報から推察するに、兄はあの夜、怪物から辛くも逃げ延びた。その後、各地を転々とし、人知れず怪物と戦っている。その過程で武田先輩を助け、つきまとわれていたのだろう。

 腕時計の針が枕元で回っている。

 兄が消えたのはわたしが高校生の時だった。例年よりも早足だった降雪の夜に、兄は上司と共に交番に向かい姿を消した。警察は今も捜査を継続している。だが、もう十年近く前の事件に新しい情報が出てくることは稀で、進展はない。

 布団から手を伸ばして鞄を引っ張った。手触りだけを頼りに、中から革の手帳ケースを手に入れる。手帳を開くと、斎藤に貰った鍵が頬を跳ねて、布団に転がり落ちる。勘を頼りに探し拾い上げる。

 鍵を暗闇に掲げた。

 武田先輩は兄に助けられたことが起因して新聞社を辞めたのだろう。その後、アパートは火災に合い本人は姿を消した。

 兄と怪物に関する事実を武田先輩はひた隠しにしていた。そのことに腹が立たないわけではないが、わたしの中の怒りはどこか置き去りにされたようだった。

 わたしのできることは。

 重くなり始めた腕を下げると鍵を手帳に戻した。

 鍵の先に武田先輩の残した情報がある。それはきっと兄にも通じているはずだ。

 ようやく重くなり始めた瞼に安堵しつつ、だがそれは不確かで気付いたときには、部屋に朝日が差し込んでいた。


 対策班室の入るオフィスはしんとしていた。定規で計ったように整列したデスクに座る者はいない。皆が国を守るために身を粉にして働いている。

 中村悠二郎は読んでいた書類から顔を上げた。自身もまた外に出ることを望んでいたが、暗に部下たちから止められていた。もう年なのですから無理をしないでくださいと。

 無機質な明かりを放つ蛍光灯の下、並べられた十台ほどの事務机はその灯りを受けて、白く輝く。まるで墓標のように見え、そして頭を振った。縁起でもないことを考えるな。

「中村管理官」

 オフィスの扉が勢いよく開かれ、姿を表した四角い顔の髭面が、中村を睨みつける。本人にその気がないとはいえ、もう少し柔和な態度は取れないものかと、鈴村の今後を案じてしまう。

「五十嵐裕子の足取りが掴めました」

「どこだ」

「Y県A町です」

 久しく聞いていなかった地名に、中村は笑みがこぼれるのを止められなかった。「そうか、ずいぶんと懐かしいな場所だな」

「昔、調査にむかったという」

「ああ。確か斎藤明彦の住んでいた町だな。」

「よく覚えていますね」

「一度話した相手のことは結構覚えているもんだ」

 胸ポケットから煙草を探り、だが弄った手は空を切る。妻と娘に取り上げられたことを思い出し、肩をすくめた。

「追いますか。何か情報を手に入れた可能性もあります」

「いや、そこまでしなくていい。そうだな、桜井を監視に着けとけ。そういえば、その桜井から大井川史久に接触した後の報告を受けていないが」

「急がせます」

 鈴村は踵を返す。大柄な体が風を切ってオフィスを出ていった。

 若干、鈴村の迫力に押された、中村の口から溜息がこぼれた。優秀な人材ではあるが、少々融通が利かないところがある。性格は顔に出るとは鈴村のための言葉ではないだろうか。

 中村は席から立ちあがり窓に近づく。ブラインドの隙間からビル街を伺う。月が高く上り、街に不釣り合いな公園を照らす。オレンジ色の街灯が照らす通りに人の姿は無い。

「五十嵐浩太。君はいまどこにいる」

 直後、静まり返ったオフィスに呼び出し音が響く。ほとんど同時に、部屋を出ていった鈴村がものすごい表情で携帯電話を片耳に当てながら戻って来た。

 受話器を取った中村は、団地の一室で飯田大輝が死体で発見されたことを知らされた。


 翌日、斎藤剛士は新幹線の停車駅まで送ってくれた。バスで帰ると言ったのだが、笑顔で無理やり軽トラに押し込まれた。ブレーキペダルを踏まない荒々しい運転にまともな会話などできるはずが無く、何度かわたしの胃に危機が訪れた。

 新幹線の中で斎藤から貰った鍵について調べると、どうやら最近できた会社の倉庫の鍵のようだった。使用料を支払えば、荷物を預かってくれるサービスをしているらしい。東京に戻って来たわたしは、その足で京浜地帯沿いに構える店に向かった。

「申しわけございませんが、武田様からの支払いが滞っておりまして。延長料金をお支払い頂けないと、荷物をお渡しすることはできないのですが」

 鍵を預かっている旨を伝えると、暇そうにしていた店員は素直に応じてくれたが、提示された金額に思わず、財布からお金を取り出す手が止まってしまった。しっかりと領収書を切ってもらい、わたしは倉庫から荷物を取り出す。

 武田先輩の預けていた荷物は靴箱二つ分だけだった。

 ふと思い立ち店員に質問した。「いつから料金が止まっていましたか」

「ええと、先々週ですね」あくびをしながら、店員はパソコンの画面を見ている。

 武田先輩が交わしていた契約を解約し、わたしは店を出る。道路でタクシーを拾い、幸い運転手は気を利かせてトランクに荷物を置かせてくれ、都内のマンションに帰った。

 部屋に戻ったわたしはテーブルの上で先輩の残した二つの靴箱を開ける。出てきたのは新聞記事の切り抜きをまとめたファイルに書類の束、USBメモリーとSDカード、あるいは名刺や写真などもあった。それらは持ち主の性格を表すかのように無造作に突っ込まれていた。

 ファイルを手に取る。伏せんが貼り付けられてあり、そこのページにめくるとX県警の巡査二名が行方不明になった記事が切り貼りされていた。同じページには見解をまとめたものも張ってある。すぐに兄のことだと気付いた。

 わたしは手の赴くままにページを捲る。関東近郊に住む女子大学生が謎の暴漢に襲われた事件、地方新聞の少年が山に入ったまま消息を絶った事件も切り貼りされている。これは斎藤明彦の町の話だろう。

 一度ファイルをテーブルに置き、目に着いたUSBメモリーを手に取る。『No.1』とマジックで走り書きされていた。パソコンに差し込むと、ずらりと音声ファイルの並びが表れる。先頭のファイルには『最初に聴くこと』と名前がつけられてあった。

 カーソルを合わせてクリックする。再生され、すぐに耳に届いたのは武田先輩の咳払いで、これは大変、耳障りだった。

「あー、えーと、緊張するな。まあいい。よし言うぞ、この音声記録を誰が聞いているのかは分からんが、恐らくこの記録を聞いている時、俺はすでにこの世にいないだろう。いいね、一度言ってみたかったんだよ、この台詞」

 無意識にもマウスカーソルは早送りに置かれていた。数秒だって無駄にしたくはないが、重要な話を聞き逃すかもしれない。この男の考えることは理解出来た試しがない。

「俺の名前は武田耀司。元東経新聞の記者で、今はフリーと言う名のー、まあ現在はフリージャーナリストだ。その方が格好はつく」

 クリックしかねない人差し指を必死に堪える。

「前置きはこれくらいでいいだろう。俺は過去に起きた誘拐事件を追っていた。まあ、詳細は後で語るとして、俺はこの誘拐事件の取材を重ねていくうちに、他の事件と関連していることに気付いた」

「そのころから、自宅には怪しい郵便物が届くようになったし、不審な電話がかかってきたこともあった。会社の上司も俺の心配をしてくれたが、俺は危険を承知で飛び込んでいった。そんな時だった。とうとう、そいつらが姿を表した」

「そいつらは夜だっていうのに黒づくめでな。黒の帽子に、サングラス、黒のコートっていうなりだった。葬式にだってもう少し明るい格好をするぜ。それで、どうにか撒こうとしたんだが、気付いたらそいつらに囲まれていた。窮地に陥った俺の前に現れたのが、五十嵐浩太という男だった」

 突然聞こえてきた兄の名にわたしの鼓動が一段跳ねた。

「黒づくめの連中と対峙していると、連中は口から体液を吐き出した。吐き切ったとき、人間の体は空気の抜けた風船みたいにぺしゃんこになっていた」

「液体はすぐにまとまって球形を作ると、丸太みたいな腕が何本も生えてきた。気付けば他の連中も同じようになっていた。人間の皮を被った怪物だったんだ」

「俺は五十嵐と共に闘い、なんとか逃げ延びた。聞けば五十嵐も怪物に襲われてからというものの、ずっと独りで戦っているらしい。俺は協力を申し出たが、無視された」

「助けられた恩を返したいという思いもあったし、なによりあれは俺たち人間を襲う怪物だ。だから俺も一緒に戦うことを決めた。まあ結局、五十嵐と行動を共にできたのはわずかな間だけだったが」

「俺は怪物たちについて調査を開始した。この靴箱に入っているのは、俺があちこち飛び回って手に入れた情報だ。この音声を聞いているあんたは、斎藤さんが信頼のできる相手だということだよな。俺はあんたを信じるぜ」

 音声から、武田先輩の自信に満ちた表情が透けて見えそうだ。『最初に聴くこと』は終わった。

 音声ファイルの一覧をスクロールすると『オリバー・レイノルズ、インタビュー』のファイルをクリックした。再生されスピーカーのむこうから聞こえてきたのは意外にもしっかりとした英語を口にする武田と、おそらくはオリバーであろう老人の声だった。

 二人の会話を聞きながら、わたしは靴箱の中にある資料を読みふける。

 目を移した先の書類の束を持ち上げると、黒いデザインのUSBメモリーが転がり床に落ちた。拾い上げ、ノートパソコンに差し込む。表れたのは英語で書かれた書類ファイルだった。少なくとも三十近いファイルの並びは壮観で、眩暈すら感じる。

 妙な英単語があると気付いたのはすぐだった。元々英語は不得意だが、それゆえに読めないものは綺麗に読めない。だがそれは中途半端に読めてしまう。

「はじめに」

 小難しい英語が並ぶ中『hajimeni』と名付けられたファイルがあった。武田先輩が悪ふざけで入れたものだろうか。不審に思いながらもマウス上で人差し指を二回上下させる。


 武田君へ。

 まずは、突然メールしたことを謝らなくてはならない。あの時、空港で君にメールアドレスが使えるかどうか尋ねたのは、もしかしたら君が私のかわりに世間に真実を伝えてくれるかもしれないと思ったからだ。

 私が送ったメールには、数年間で得た研究のすべてが記録されたファイルを添付してある。おそらくはこのメールを送って間もなく私はCDCを追われるだろう。

 研究書類を翻訳する時間は無かった。すまない。難解な単語ばかりが並んでいるだろうが、君なら理解できると信じている。

 だが、まずは前提として君にまず、話しておくことがある。私の研究についてだ。私の専門は変形菌だ。

 私がCDCに呼ばれたのはその菌類についての研究を行うためだ。

 そもそも変形菌という生き物とは何なのかという質問だが、動物と茸の特徴を合わせた生き物だと思ってくれ。

 変形菌は餌を求めて移動する。バクテリアなどを捕食し、ある程度の栄養を得るか、環境の変化などによって姿を変えると、子実体を形成する。子実体は胞子を撒いて数を増やしていく。それが変形菌だ。

 だが私がCDCで見た変形菌は普段よく知るものとは全くの別ものだった。それは巨大な黒い塊だった。およそ大人の人間ほどの大きさを持っていた。

 ただの変形菌ならば、わざわざ国外から学者を呼ぶ必要もない。本来、変形菌は人間とのかかわり合いをあまり持たない生き物だ。

 この変形菌はただの変形菌ではないということだ。私は彼らを古代変形菌と呼んでいる。

 第二次世界大戦の終戦前後を境に、ニューメキシコ州近郊で、黒い体の怪物に襲われる事件が頻発した。合衆国は軍を派遣し怪物を抹殺すると事件を封印したが、数年後、ネバダ州近郊で同様の怪物の目撃証言が多発した。これもまた軍が出動し怪物を抹殺している。

 その怪物の正体が変形菌だ。この変形菌は人を襲う。

 合衆国政府は抹殺することで変形菌に対処してきたが、近年になって新たな発見があった。彼らの中に人間の姿を模倣する者が表れ始めたのだ。発見された人型の変形菌は、経済界の重鎮の一人だった。おそらく、かなり昔から活動していたはずだ。

 私は彼らを研究し目的を探るために呼ばれた。

 では変形菌はなぜ大戦後に現れ始めたのかという疑問が出てくると思う。

 結論から述べるとそれは核実験だ。ニューメキシコ州ではトリニティ実験が行われ、ネバダ州でも地下実験が行われている。核兵器の何が契機となっているかは分からないが、だが核によって変形菌は目覚めている。

 CDCの調査に依れば、イギリス、フランス、ソ連、中国、インド、他にも多くの国で核実験は行われ、その都度、付近で変形菌の襲撃が起きている。

 最も古い目撃記録は、一九〇八年は帝政ロシアの時代に起きたツングースカ大爆発によるものだとされているが、ソ連では六十年代に核実験を繰り返している。きっと他にも古代変形菌はいるだろう。

 これは一九七六年にソビエトから亡命した空軍パイロットが持ち込んだ情報で、当時の研究者責任者はアレクサンドル・メドヴェージェフという人物だった。

 先ほど彼らを古代変形菌と呼称したが、これは決して比喩表現などではない。彼らが発見された付近の地層は約1億5万年のものだった。彼らは人間よりもはるか昔からこの地球に生息していたのだ。

 彼らの目的が何なのか。単純に考えるならば、自分たちを増やそうとしているだけだ。これは生物として当たり前の行動だとも考えられる。だが、であるならば人の姿を取ることの説明が困難なのも事実だ。

 一方的に巻き込んで申し訳なく思う。もし私の身に危険が訪れたとき、君なら行動を起こしてくれることを祈っている。

                        大井川 次郎

 

 深夜の住宅街に赤色ランプが音も無く回転している。何事かと付近の住人が規制線いっぱいに近づき、警察官たちが壁をつくって制していた。運転する鈴村は警察関係者の車両傍に車を停めた。車外に出た中村の首筋を木枯らしがなぞり、マフラーを忘れたことを後悔する。

 中村の見上げた先、小高い丘の上にある住宅団地は警察の持ち込んだ照明機材に強く照らされている。二人の姿を見つけた警察官が近寄り、事件現場に案内する。

「中村管理官」

 警察官の群れを掻き分けて桜井が姿を見せた。興奮しているのか頬が赤い。鈴村は歩み寄ると「子供じゃないんだ、はしゃぐな」と桜井を叱咤する。年の離れた兄弟をみているようだ。

「五十嵐か」

「おそらく」桜井は平気そうな顔をしている。「こちらです」

 四階建ての集合住宅が二棟、並んでいる。中村たちが向かう棟は、捜査関係者と持ち運ばれた機材で賑わっているが、もう片方の棟は蛍光灯が外されていた。部屋の窓にカーテンは無く中は暗い。暗闇から誰かに見られているようで中村は視線を逸らした。

「捨てられた団地か」

 壁に走ったままのヒビと脱色したクリーム色の集合住宅に、人の手が入っていないのは目に明らかだった。

「ええ、電設の社宅だったそうですが、倒産し他の会社に譲渡されたらしいです。ただ譲渡先も買ったはいいものの使い道がなく、潰すにはお金がかかるということで放置されていたとか」

「良いところを選んだな、五十嵐は」

 狭い階段を多数の捜査員とすれ違いながら上がり、廊下に出ると刺激臭が鼻を突いた。傍に立っていた捜査員がよこしたゴム手袋とマスクを装着する。

「二〇三号室です」

 遺体の発見された部屋も捜査員や鑑識が忙しくなく出入りしていたが、中村たちを見ると、皆がそそくさと出ていった。中村たちは部屋の入り口に立つ。

「入るぞ」

 入ってすぐの玄関とキッチンは、バケツをひっくり返したように広がった黒い液体に汚れていた。強い刺激臭に顔をしかめる。混じって漂うのは血の臭いだ。

 キッチンの奥の和室に入る。部屋の中央に人の残骸があった。ところどころ体が欠け、スーツが凹んでいる。

「あれが、飯田大輝の死体か」中村の問いかけに桜井は頷いて答えた。

 飯田大輝の死体は半ば溶けかかっていた。彼の遺体も黒い液体にまみれている。キッチンと同じように部屋一面に広がった黒い液体を、ものともせず中村は飯田の遺体の残った部分に触れる。すでに鑑識の手が加わっていたが、それも気にしない。

「これは五十嵐だけではないな」中村は残った足を拾い上げる。粘ついた音がして四肢から足首が取れた。「脚の裏に裂傷だ。刃渡り十五センチ前後。五十嵐の獲物だな」

「というと」

「五十嵐は、この男を拷問にかけたのだろう。足裏から裂いていくのはあいつの得意技だ。だが、連中にばれたんだろうな。部屋に混じって臭う血臭は、多分あいつのだ」

「飯田の拷問の最中に連中に見つかり、逃げたと」

「その可能性が高い。部屋の黒い体液は連中のものだろう。ひと悶着あったと考えるのが妥当だ」

「流石ですね」桜井の皮肉とも褒め言葉とも取れる言葉に眉をひそめるが、恐らく悪意はないだろう。この仕事に不向きなぐらいに純粋で、前向きな青年なのだ。

「何年追い続けていると思う。お前がまだ高校生くらいのころからだぞ」

「管理官、脳がありませんね」鈴村は頭の方に回っていた。

 飯田の目はこれ以上無いくらいに開いていた。口は半開きになっており飯田の体験した恐怖が伺える。額から上にあるはずの物が無く、ぽっかりと空間になっていた。

「桜井、見てろ」

 中村は自分の手で飯田の顔を上に向けさせる。口に両手指を差し込むと力を入れてひと息に飯田の口を開いた。鈴村が光を当てると乾きかけた粘膜が反射する。「舌をめくれ」

 桜井はそっと手を伸ばし、舌の先端をつまむ。わずかにのこった水分が指先で滑る。舌の裏、ピンク色の体組織上に黒い斑点がぽつぽつと見える。

「これが連中に感染している証だ」

「脳みそがないというのは」

「連中が持っていったんだ」飯田の顔を戻す中村に代わって鈴村が答えた。「貴重な情報源だからな」

「この飯田という男の詳細は」

「民間の警備会社に勤めていたとのことですが、この会社も黒ですね。警備名目で好き勝手していたようです。誘拐に脅迫。あとは現場の清掃なども」

「誘拐していた男が逆に誘拐されるとはな」鈴村の口調はこんな場所であっても変わらない。

「誘拐」中村の脳裏に閃くものがあった。「おい、鈴村、その警備会社を徹底的に調べろ、連中につながるはずだ」

 頷いた鈴村は一足早く部屋を出ていった。手袋をごみ袋に投げ入れ、中村たちも部屋の外に出る。

「桜井、そういえば大井川史久にはもう会ったのか」

「はい。ただ大井川次郎氏からは何も受け取っていないと」

 中村の足が止まる。疑うことが常の、この仕事に置いて純粋さは命取りになる。

「分かった。大井川氏についてはもういい。それよりも鈴村から五十嵐の妹は知らされているな」

「はい。五十嵐裕子の監視につけと」

「ではさっそく向かってくれ」

 桜井は元気よく頷くと、狭い集合住宅の廊下を駆けていく。傍に立っていた捜査官が桜井に驚き、慌てて避けた。

 中村は桜井の背中を目で追っていた。彼の身に何かが重大な出来事が降りかかる前に異動させるべきかもしれない。そんなことを考える自分が嫌になっていた。


 カーテンを引くと水平線から太陽が顔を見せた。一睡もしなかった顔に朝日が染みる。窓を開けると、冬も近づき始めた朝の空気が、火照ったわたしの肺に貯まった空気を冷やしていく。

 部屋に振り返る。リビングに面した広い壁には、武田先輩の残した情報と、夜通し働いたプリンターが吐き出したファイル文書、隠し撮りされた写真などが画鋲で張りつけてある。

 付箋と私的な意見を書き込んだメモを張りつけ、それらから類似性のあるものを選んでは紐で関連付けていく。海外のサスペンスドラマなんかでよく見る表現だったが、意外と思考がまとまるものだと壁を見て感心した。

 僅か数日で世界はめまぐるしく変化していく。

 まだ、探し残したものはないかと、靴箱をひっくり返すと裏面にガムテープが張ってあった。塞ぐための穴かと思いきや、中央部分が僅かに盛り上がっている。そっと剥がしてみるとSDカードがあった。

 パソコンに差し込むと、ファイルが一つだけ表示された。クリックするとパスワードを要求され、武田先輩に関わる英数字を思いつく限りにキーボードに叩くが一つとしてあたらない。わたしはふと壁を見た。中心にあるのは兄が消えたことを報道する記事だ。

 キーボードに20061215と打ちこんだ。兄が消えた日付けだ。正解だったらしく、ファイルが開かれる。文書ファイルと画像ファイルが一つずつあった。マウスカーソルを文書ファイルの上に置いた。

 

 この文章を五十嵐裕子が読んでいる事を信じる。

 まずはずっと黙っていたことを謝る。すまなかった。お前を巻き込みたくなかったこともあった。

 ただ、今の俺はかなり不味い状況になっている。この文章を書いている間も常に電話は鳴り続けているし、アパートを監視されている気がしてならない。

 だから端的に述べる。

 兄貴を探せ。そしてお前の力であいつを救ってくれ。


 画像ファイルにマウスカーソルを合わせた。なぜか手が震えている。部屋にクリック音が連続する。

 男性の写真だ。目元は長い前髪で隠れている。痩躯で肌は白い。うっすらと血管が浮いて見える。鼻は細く頬骨が浮き、唇は乾燥しているのか荒れている。わたしは男性を凝視する。どこか見覚えがあった。目元が私に似ていると思った。

 気付いたときには口が震えていた。力がはいらず、わたしはフローリングに尻餅をついた。わたしの記憶にある兄の姿は十二年前で止まってしまっていた。今、彼の姿が再びわたしの脳内に焼き直される。

「知ってしまった以上、君は後戻りを考えないはずだ」

 斎藤明彦の言葉が反芻される。

 ただ、生きて会いたいという気持ちだけでは駄目なのだ。わたしは彼の戦いを止めさせ、人の世に連れ戻さなくてはならない。闇と闘い続け、闇を喰らい続け、闇の世界に居続ける兄を。


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