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ダーク・イーター  作者: loveclock
解明編
10/19

異邦の逃亡者②

 両脇を屈強な男たちに抱えられたまま、私は貨物船の中を引きずられる。膝が鉄板を擦るせいでズボンが破れ、膝小僧の皮が捲れそうだ。ただ今の私は捲れた膝の皮の一枚や二枚など、些細な違いにしか感じられない程度には体を痛めつけられていた。

 艦内に鉄格子で区切られた檻が見えてきた。男たちに中に放り込まれ、衝撃が体を打ち、痺れに包まれる。男たちは苦痛に満ちた私を見ると満足そうに去っていった。隣の鉄格子の先客は私を見ると、悲痛に顔を歪めた。

「ずいぶん酷くやられたな」

 鉄格子で仕切られた隣の空間でうずくまっていたアレクサンドルの表情は暗い。何かしらの反応を返すべきだが、ただ頭を上下させるだけでも痛みが走る。

「ソビエト流の拷問は身に堪えますね」

 私が開けっ放しの口で気丈に振る舞うとアレクサンドルが乾いた笑い声を上げた。

 片目が腫れて視界の半分が塞がってしまっていた。折れた鼻から流れた血は固まって穴を塞ぐ。口の中をあちこち切ったせいで、閉じると歯が当たって痛みが走る。間抜けみたいに開けている方が楽だった。

 ただ指も脚も失うことが無かったのは幸運だった。あるいはその趣味を持つ者がいなかっただけか。

「私たちはどうなるかな」

 アレクサンドルが口を開く。彼の入っていた檻には簡易なベッドがあった。私の檻には敷物すらない。むき出しの鉄板が硬くて冷たく、横になるのも躊躇われる。

「あなたは祖国に帰ります。私は魚の餌でしょうか」

 アレクサンドルが私をまじまじと見つめ、うつむいた。

 しばし沈黙が漂う。アレクサンドルにしてみれば希望が断たれたのだし、私はどちらかと言えば口を動かしたくなかった。船のエンジン音がしないので、まだ出港するつもりはないようだが、できることもない。

「あの男を知っているようでしたが」

 私は耐え切れず口を開いた。自分でも思っている以上にお喋りなのかもしれない。

「ラザール・クリュコフ。マフィアだよ。最近になって台頭してきた勢力の若頭だ」

「KGBではないのですか」

「そうだ。だが、すると中尉の陽動は上手くいったのかもしれないな」

「大金を積んだ甲斐がありましたね」

 私の冗談にアレクサンドルは頭をかいた。

「まあ、それなりには弾んだが。それだけではないんだ」

「話がさっぱり見えてきませんが」

「君は魚の餌になるのだろう」

「冥土の土産に一つ。あなたの亡命理由を聞いても」

 口の滑りが、やけにいいのは血のせいだろうか。アレクサンドルは呆れたように笑うが、ふっと息を吐くと私の目を見た。

「私は国に研究を強いられていた」

「一体何の研究ですか」

 船の揺れに合わせて裸電球も揺れる。堀の深いアレクサンドルの顔に陰影を落とす。目元が隠れて視線が合わない。じっと品定めされているようにも思える。

「私の専門は変形菌だ。粘菌とも呼ばれるが、知っているかな」

「いえ、まったく。茸やカビと同じものでしょうか」

「実は分類が難しい生き物でね、学者の間でも意見が分かれる。カビや茸と違うのは、変形菌は自発的に動いてバクテリアなどを捕食するということだ。茸などは胞子の居着いた場所で成長するだろう」

「餌を求めて菌が移動するということですか」

「そうだ。もっと言うと菌というよりもアメーバなのだが」

「その変形菌が、あの怪物の正体」

 私の問いかけにアレクサンドルは溜息で答えた。

「ある日、政府から命令が来た。地方で見つかった謎の生き物の正体を解明せよと。研究所で一目見て変形菌だと分かったよ」

「政府は変形菌を何に使おうとしたのでしょうか」

「さあてな。化学兵器くらいには活用できると考えたんじゃあないか。安くて強い兵器が欲しかったのかもな」

「失敗したということですか」

「ああ。変形菌は兵器にはならない、分かり切っていたことだ。餌を求めて移動し、栄養を蓄えては胞子を飛ばし、数を増やす。本能に忠実な生き物なんだよ。結局、なんの成果も上がらなかった研究は打ち切られた。だが私は密かに変形菌を持ち帰ったんだ」

 アレクサンドルが言葉を切った。今は彼の言葉を待つ他ない。

「それが、間違いだった」


 家の裏庭にある手製の温室から出ると、風が通りぬけ肌に張り付いていた服が乾いていく。見上げれば陽の光がアレクサンドルを照らした。青々とした葉をつけた木々と空のコントラストが目に眩しい。短い夏が始まろうとしていた。

「お父さん」

 裏庭を囲っていた木柵を制服姿のユーリが乗り越えてきた。誰に似たのか体の弱い子なだけに、興奮している姿を見ると嬉しさよりも心配が勝ってしまうのは親の性なのか。

「おお、ユーリ。学校は」

「明日から夏休みだよ。だから学校は午前中で終わり。お父さんは本当に僕のことを知らないね」

 むくれたユーリが投げた鞄を、アレクサンドルは慌てて受け取った。その隙をついてユーリが父親に抱き着く。アレクサンドルに息子を一人の勢いを受け止めるほどの力はなく、仰向けのまま芝生の上に倒れた。

「やったなあ」アレクサンドルは息子をくすぐる。黄色い声を上げて笑う息子と裏庭で転がり、草まみれになる。二人でひとしきり笑い合ったあと、アレクサンドルは鞄を持って立ち上がった。

「ねえ、お父さん、夏休みは一緒にいられるの。遠くに行ったりしない」

「ああ。しばらくは、どこにも行ったりはしないからユーリといられるよ」

 嬉しそうにはしゃぐユーリを引っ張り上げる。「温室に入ってもいい」と聞くユーリに、アレクサンドルは「父さんと一緒ならな」と返した。

 政府直々に指名を受けたアレクサンドルだったが、数か月に及ぶ研究も成果は上がらず、解雇を告げる書類と共に住まいに帰っていた。彼が秘密裏に変形菌を持ち帰ったことを含めても生活は穏やかなものだった。

 持ち帰ってからも変形菌に目立った変化はなかった。ユーリも勝手に温室に入ることはあったが、アレクサンドルは心配こそするものの危険性はないと踏んでいた。そもそも変形菌は独特な姿形ゆえに敬遠されがちだが、人に害をなす生物ではない。

 温室の扉を開けると、籠っていた中の空気が流れ出た。ユーリは気にもせず中に飛び込んでいく。目当ては中央の台座に鎮座する変形菌だった。

「お父さん、こいつ動かないね」ユーリが変形菌を突っつく。

 横にした枯れ木の板に真っ黒な変形菌が張り付いていた。楕円形のそれはサッカーボールほどの大きさで、初めて目にした時は驚いたが、月日と共に新鮮さは消えていった。 

 アレクサンドルは手土産に変形菌を持って帰って来た夜を思い出す。「実はこっそり研究所から持って来たんだ」と言うと妻は頭を抱えてソファにもたれ、ユーリは驚いて目を丸くした。

「死んじゃったのかな」

「多分、休眠状態になっているんだ」

「休眠ってなあに」

「寝ているんだよ。変形菌は環境が変化すると姿を変えて、眠りにつくんだ」

「ふーん。どうしたら起きるかな」

 しきりに突っついている、その人差し指はなんだとアレクサンドルは笑った。「そればっかりは変形菌の機嫌次第だな」

「僕ね、この子が起きた時のためにご飯を用意したいな」

「起きてからで大丈夫だよ。何を好んで食べるかは分からないからね」

「この子にも好き嫌いがあるんだ」

「その通り。体の器官を頼りに美味しい食べ物を探し出すんだ」

「食いしん坊なのかな」

「多分な。結構大きいから、それならに用意しないと」

「あなた、ユーリ、ご飯よ」

 温室の外から妻の声が届くと、ユーリのお腹がなった。アレクサンドルの腹もつられたようになり、笑顔がはじける。「僕たちも食いしん坊だね」「そうだなあ」

 外に出ると再び風が二人の体を撫でる。「涼しくて気持ちいいね」とユーリが跳ねる。やっぱり熱気が籠るなあとアレクサンドルは実感した。本格的に夏が到来する前に改良しないと植物にも悪影響が出そうだ。

「あっ鞄」二人はお互いに手ぶらで温室から出てきたことに気付いた。ユーリが温室に鞄を取りに戻る。外で待っていたアレクサンドルは、その数秒後ユーリの悲鳴を聞いた。

「お父さん、助けてぇ」

 温室に飛び込んだアレクサンドルの目に映ったのは、変形菌に腕を飲まれようとしている息子の姿だった。

 黒い楕円形だった変形菌はその形状を変え、根のように広がりユーリの腕を掴む。太い根を中心に広がり、空いた隙間を補うように細い根も広がる。根が脈を打つその姿は毛細血管のようだ。

「ユーリィ、いま助けるからな。じっとするんだ」

 アレクサンドルはユーリの腕に巻き付いた変形菌を剥がしにかかるが、網目状に腕を覆う変形菌は意思を持つかのようにユーリから離れない。アレクサンドルの必死の抵抗をよそに変形菌は温室の植物たちにまで手を伸ばし始めた。

 アレクサンドルが目を見開く。変形菌に触れられた植物たちの体が黒く変化していく。枯れているのではない、飲みこまれている。

「馬鹿な、そんな。こんな速度で。それも生きているものを食べるなんて」

 肌を伝う違和感にアレクサンドルは自身の腕を見た。彼にも変形菌が巻きつき始めている。アレクサンドルは死に物狂いで乗っていた台座を蹴とばした。

 変形菌の広がる台座は息子とともにひっくり返った。アレクサンドルから血の気が引いていく。

「ユーリィ」

 横倒しになった台座のそばでユーリがうずくまっていた。息子に伸ばしかけたアレクサンドルの手が止まった。息子の体を覆っていた変形菌は床にまで広がっている。ユーリの腕はおよそ人の腕とは思えない色に変色していた。

「お父さん」ユーリのか細い声は今にも消えそうだ。

「ユーリ、待ってろ。父さんが必ず助けてやるからな」

 ユーリは力なく目を細める。アレクサンドルはあらん限りの力を振り絞って息子の体を抱きあげる。張り付き広がっていた変形菌が音と共にちぎれていく。

 腕に息子を抱いたままアレクサンドルは出口に振り返った。

 扉はすでに変形菌に覆われていた。変形菌は温室の植物を栄養にすると、瞬く間に壁一面に広がり、温室を支配する。

 アレクサンドルの両足を変形菌が掴んだ。その形は人間の手そのものだった。

「人間を真似ているのか」

 変形菌はさらに腕を生やし、強引にアレクサンドルを膝まずかせる。さらに息子を抱きかかえた腕に標的を変え、息子を奪おうとする。

「やめろ、おまえに息子を渡すものか」

 暴れるアレクサンドルに変形菌が腕を伸ばす。肩を掴まれ激痛が走った。外された。叫び、のたうち回る父親から変形菌は息子を奪った。

「やめろ、息子に手を出すな」

 抵抗も虚しくアレクサンドルの襟首が掴まれた。出口が開けられ、外に放り投げられる。外に出ると青ざめた妻がこちらに駆け寄ってきた。妻は両手の自由が利かない夫を抱き支える。

 温室はいびつに膨れ上がっていく。やがて隙間から黒い液体が溢れ出し、温室が破裂した。変形菌は貪欲にも裏庭に自生する生命すらも取り込み、巨大化していく。

 妻に支えられアレクサンドルは逃げ出した。振り返った彼の目には周囲の物を際限なく飲みこみ、家一軒をゆうに超える程に膨らんでいく怪物の姿だけが映った。


「暴走した変形菌を止めることは困難だった。町に駐在していた軍が刺し違える形で、どうにか抑え込んだが、それが精一杯だった」

 アレクサンドルの眼孔が黒く澱んで見え、私は驚いて身を引く。すぐに痛みが走りマフィア連中に散々体を痛めつけられたことを思い出された。驚いたのはアレクサンドルも同じようだった。

「あの怪物は変形菌で、それにユーリ君が取り込まれた」口にした自分に愚かさすら覚える。

「その後は、どうしたのですか」アレクサンドルの黒く澱んだ目は人間のものに戻っていた。私が見たものは幻だったのか。

「軍の攻撃で活動を停止したユーリを政府が回収した。そして息子を助けたくば研究を続けよと言ってきた」

「あなたは、自分の子供を研究していた」

「そうだ。私を軽蔑するか」

 私は首を振る。言葉が無いというのが正直なところだった。

「私は必死になってあの子を、ユーリを助けようとした。だがユーリの体組織は変形菌と癒着していた。どうにもならなかった。私には何もできなかったんだ」

 博士は絞り出すように声を出すが、それも小さくなっていく。照明は弱く檻で遮られた空間は懺悔室のようだ。

「ある日、再びユーリが暴れ出した」

 先ほどの出来事が思い出される。自動車を潰し、雄たけびを上げながら迫るあの姿は怪物という言葉以外に例えようがない。

「研究所は半壊し出動した軍は壊滅した。逃げ出した私は少ないツテを頼って亡命の準備を始めた。そして君たちの政府を頼った。これが事の顛末だ」

 全てを語り尽したと信じるには私の心は汚れきっている。ただ私の目に映るアレクサンドルの顔は初めて会った時よりも痩せて見えた。

「にわかには信じられません。勝手な想像ですが、その変形菌が人を飲みこむほどの大きさになるものですか」

 もうマフィアに捕まってしまったが、あの怪物と相まみえながら日本を目指すことになっていたらと思うと、ぞっとしない。とても逃げ切れる相手には思えず、インドであろうとなかろうと、そもそも土台無理な話にすら考えられた。

「実際に君が見たものが真実だよ」博士は言って自身の両目を指さす。「実地での活動は生物学の基本だ」

 KGBではなくマフィアが来ているというのは、中尉の陽動が成功したのではなく、おそらくはソ連政府も、あの怪物相手に人員を消耗したくないというのが本音なのだろう。

「おそらくマフィア連中も本当の所は知らされていませんね」

「船に乗せられているということは、そういうことだろうな」

 アレクサンドルの言葉を皮切りに再び沈黙する。あまりに問い詰めるのも酷な話かもしれない。どことなく私の痛みがぶり返してきたのもあった。

 私の脳裏に何かが光り、突発的に口を開く。「ユーリ君は追いかけてきますかね」

「変形菌は泳ぐことができるが、あくまでそれはアメーバの状態だからできることだ。あそこまで質量を増やした個体が水に浮くことが出来るかどうかは疑問が残る」アレクサンドルの声色に変わりはないが思いつめたものがあった。

「そうですか」良いか悪いかの判断は置いておき、僅かな可能性に賭けたくなったのは、まだ諦めきれない気持ちが片隅に残っているからだろうか。

「アヤンも知っていたのですね」一向に口が減らない自分自身に驚く。ここまでお喋りだったのか。

「そうだ。彼は私が息子に追いかけられているのを知ってもなお、私の護衛を買って出てくれたよ」

「氏はなんと」

「仕事だからなと。それだけだ」アレクサンドルの笑みに精一杯のものを感じる。

 アヤンが煙草を吸いながら答える様子が目に浮かぶ。ベルトに乗っかった腹で機敏にアレクサンドルを護り通す姿は、異国の冒険譚の英雄に重なって映った。

 

「ずいぶんと仲良くなられたようだ」革靴が鉄板を叩く音に檻の外を見れば、ラザールが部下を引き連れて近づいてきた。

「来い、日本人」

 立ち上がる動作だけでも痛みが走り顔が歪む。どうしても早く動くことが出来ない私に、ラザールの部下が苛立ち鉄格子に蹴りを入れる。反響音が耳に痛い。どうにも演技に見えてしまうらしい。

「本当に痛いんだ」と言う私にラザールは冷笑を浮かべる。痺れを切らした部下が私の腕を掴み、檻から無理やり連れだした。

 檻の中からアレクサンドルが心配そうな目で私を見る。アレクサンドルに精一杯の演技を見せるが、表情は重いままだ。

 ラシードの部下は世界一有名なライフルで私の背中を突っつき、階段を昇ることを強要する。甲板に近づくにつれて、気温と湿度が上昇しているのが肌で実感する。檻の中の方が過ごしやすかったことに驚かずにいられない。

 外に出ると繁華街の明かりが見えた。貨物船は陸からそう離れてはいないらしく、だが人を抱えて泳ぐには困難な距離だなと算段したところで、自分に苦笑した。まだ諦めきれてないらしい。

「さて、日本人。何か言い残すことは」ラザールが拳銃を構えた。

 目も眩むほどの照明に照らされた下、甲板の縁に立たされる。背後には海が広がっている。ラザールの部下たちの嫌味な笑顔がむしろ清々しい。死の淵に立たされた人間は皆、そう感じるものなのか。

 生暖かい風に撫でられた頬から汗が浮き出す。エンジンが稼働し、船全体が振動し始める。そして振動に合わせて体の節々が痛む。ラザールの涼しい顔に一発蹴りを入れたいのは私の強がりだ。

 金属の擦る音と共に錨が巻き上げられ、とうとう船が動き出した。少しずつ海を掻き分け、波が産声をあげる。飛び込むなら今しかないが、逃げ出したところで何が出来るというのか。

「おい、なんだあれ」

 ラザールの部下が何かを発見したようだ。私も船から水面を見下ろす。ボートがふらふらと船に近づいていた。誰も乗っていないようで、船にぶつかると静かに転覆した。

「何だ。なんでボートがここに」

 ラザールが身を乗り出してボートを目視した直後、船の中から叫び声が上がった。甲板にいた全員の動きが固まる。部下の一人が必死に無線で応答を呼びかけるが、ノイズが垂れ流しになるだけだった。

「おい、見て来い」ラザールの指示に部下が二人、階段を降っていく。

 突然、船が私たちの体を揺さぶる。船を震わせていたエンジンが停止し、進行が止まった。連中の間を取り巻く緊張の文字が漂って見えるが、それは私も同じだった。

 ボートがひとりでに船にぶつかってくるとは考えられない。乗って来た者の正体が何なのか。提示された解答次第では、状況が好転したとは言えない。手段と経過が変わっただけで結末は同じだ。

「日本人。そこを動くなよ」

 勇敢にもラシードは自ら部下を引き連れて操舵室のほうに向かっていった。異国に自ら乗り込んでくるあたりといい、さすがにマフィアの若頭と呼ばれるだけの度量はあるようだ。

「よお、日本人」

 甲板に残された部下の一人がにやけ面を浮かべながら、縁に立つ私に近づいてきた。その手にはしっかりとライフルが握られている。

「さっきの拷問の時、まるで女みたいなー」

 私に侮辱を浴びせたいらしい男の背後から、人間の腕がにゅっと伸びる。甲板を囲う手摺りから伸びた人間の腕は部下の男を掴むと、ひと息に海側に引っぱりこんだ。男はライフルを残し、情けない声を上げて水面に落ちていった。

 よく見れば手摺りに鉤が掛かっていた。そっと視線を船の外に落とすと、船の外壁に見慣れた顔があった。アヤンが鉤から伸びたロープにしがみついている。

「おい、日本人。いま何を」マフィアの銃口が私を狙う。

 慌てて男が落としたライフルに飛びつく。「おい、待て」と連中は怒鳴る。素直に聞く訳ないだろうと、私は銃口を彼らに向ける。引き金に指を掛けるが、一発撃っただけで痛みが全身を走りまともに照準がつかない。

 やぶれかぶれに引き金を引き続ける。どこに弾丸が跳んでいくのか見当もつかないが、それでも連中は慌てて物陰に飛び込み姿を隠した。私も遮蔽物に身を潜める。

「よお、中村」

 びしょ濡れのアヤンは器用に体をねじると手摺りを乗り越えた。ヘルメットは目深にかぶり、出ていた腹は見事に防弾ベスト内に収納されていた。肩からはライフルを背負うためのベルトが伸びていた。

「どうして戻って来た」

「仕事だからな」アヤンは心底つまらなそうに言い捨てる。

「それで仲間は。艦尾の方から来ているのか」

「なんの話だ」

「仲間と一緒に来たんじゃないのか。てっきり船のエンジンを止めたのはアヤンたちが仕組んだことだと。それに連中の悲鳴が艦内から聞こえた」

「いや、俺一人だ。そうか、だから上りやすかったんだな」

「じゃあ、一体誰がー」

 私の脳裏に再び閃光が走った。

「ユーリか。追いかけてきた」

「あの巨体が泳げるのか」

「変形菌はアメーバの状態なら泳げると博士が言っていた。できないことはないだろう」

「分かった。じゃあ俺が博士を探してくる。お前は海に逃げろ」

 アヤンの言葉に頭が熱くなる。

「馬鹿なこと言うな。俺だってまだ」

「二人をかばいながら戦うことはできない」

「お前、博士の居場所を知らないだろう。案内が必要だ」

「探し回るさ」

「最短距離でいかないと博士は助からない。あんたも同じだ。無駄に時間を食えばそれだけ、あいつらと撃ち合うことになるぞ」

 眉間にしわを寄せながらも、アヤンは頷く。「分かったよ」

「行くぞ、援護してくれ」

 遮蔽物から立ち上がり、艦内へと続く階段を目指し駆けだす。同時にアヤンがライフルを乱射した。遅れてマフィアが反撃してくる。私が階段に到達すると、アヤンが滑り込んできた。

 突如として艦内から響く銃声と悲鳴に、私の頬を嫌な汗が伝った。飛び降りるほどの勢いで階段を降り、囚われていた檻を目指す。

「あそこだ」

 廊下を行き、指差した先に檻が見えた。中の簡易ベッドは横に倒れ、鉄格子は異常な角度で曲がっている。アレクサンドルの姿は無く、辺りには黒い液体に混じってマフィアの体が散らばっていた。床が濡れている。指先で拭うと塩の香りがした。「海水だ」

「くそ、連れ去られたあとか。追えるか」

 辺りを見回す。誰かの腕が無線機を握っていた。幸い機器は無事なようで、チャンネルを合わせると、すぐに悲鳴と銃声が聞こえてきた。「助けてくれぇ、怪物だぁ」

「どこだ。どこにいる」

「艦の後ろだ。頼む、早く来てくれぇ」

 最後にひと際、悲鳴を上げると無線機からの音声が途絶えた。放り投げ、走り出す。残された時間は少ない。

「おい、中村。お前、博士の息子のことを知ったんだな」

 後ろからアヤンが疑問を投げかけてきた。

「ああ、だからなんだ」

「撃てるのか。子供を」

「撃つさ。あれは怪物だ、人間じゃない」

「撃ったことがないから言えることだ」

「アヤン、あんたー」

 振り返るとアヤンの視線が真っ直ぐ私の瞳を貫く。アヤンの抱えるライフルに目がいってしまう。指先に力が入らないのは拷問の痛みのせいか。

「助けてくれぇ」遥か後方から届く叫び声に私たちは再び足を前に出す。


 艦の後方にたどり着き、甲板に上がる。広い甲板を戦車に匹敵するほどの体躯で、縦横無尽にユーリが暴れまわっていた。マフィアも必死に銃声を轟かせるが、次第に悲鳴ばかりが聞こえてくる。

「グレネードォ」

 誰かが叫び、直後、爆発と共にユーリの体が大きく宙に舞った。のたうち回るユーリにマフィア共は一気に近づき、とどめを刺そうとするが、それでもユーリは、丸太のような腕を振り回し応戦している。

「アヤン、銃を借りるぞ」アヤンのホルスターから拳銃を奪い、マフィア共に発砲する。

 隣に立つアヤンがライフルで援護を始めた。私たちに気付いたマフィアがこちらに銃をむけ応戦してくる。挟み撃ちに合うマフィアたちの背後から、ユーリが襲いかかり確実に数を減らしていく。

「おい、中村」

 アヤンが指さした先、艦橋に続く階段のそばでラシードも応戦していた。背後にはアレクサンドルが見える。

「グレネード」

 グレネードを掲げた部下の男に、アヤンは冷静に照準を合わせ大腿を撃ち抜いた。痛みにグレネードを落とし、男の周辺が吹き飛ぶ。

「中村、走れ」

 アヤンの援護と共に痛む体を堪えて、ラシードに詰め寄る。途中、銃を構えて立ち塞がるマフィアたちの体から血が噴き出し倒れていく。背後からは絶え間なく銃声が私の耳に届く。

 走る私の上をユーリの真っ黒な体が舞い、マシンガンを構えるラシードにのしかかった。「死んでたまるかよ」とラシードが吠え、銃声が続く。銃弾を受けたユーリが叫び悶え、あたりに黒い液体をまきちらす。

「ははっ、ざまあみろ。バケモノめ」

 ラシードがさらに銃弾を浴びせ、ユーリの体を蹴とばす。真っ黒な巨躯から生えた腕は懸命に空をかくが、液体が飛び散るだけだ。もはやユーリは動くこともままならないようだった。

 立ち上がりユーリに銃口をむけるラシードに、アレクサンドルが後ろから飛びかかった。

「メドヴェージェフ博士、何を」

「ユーリに手を出すな」アレクサンドルはラシードの銃を奪おうとしがみつき、銃声がしてすぐに吹き飛ばされた。

「ラシード」

 痛みを堪えて繰り出した私の拳はラシードに受け止められた。「怪我人ごときに負けるわけねぇだろう」とマシンガンを捨て私の襟首を掴むと、頭突きをかましてくる。意識がとび、膝から落ちる私をラシードは離さない。

「これでも食らうか」私のこめかみに拳銃を突きつける。

 銃声と共にラシードが血を吐いた。腹部から流れる真っ赤な血がスーツを汚していく。

 ラシードは何が起きたのか分からない顔で私を見る。襟首を掴む手から力が抜けていくのが伝わった。縋りつくように私の服を掴む。

 右拳でラシードの腹を叩く。ラシードが口から血を吐き、腕が力なく落ちた。右拳をもう一度振りぬく。ラシードの顎を砕いた。痛む脚で膝を蹴り、膝をついたラシードの顔面に目がけて、三度拳を振り下ろす。

 ラシードが甲板に崩れる。銃声は止んでいた。いまはただ、波の音だけが甲板に聞こえる。

「博士」

 アレクサンドルの元に駆け寄る。脇腹部分が赤く濡れていた。私の姿を見ると、ようやくこわばった表情を緩めた。「流れ弾だよ。君たちのせいじゃあない」

「すまないが、もう自分じゃあ立てそうにない。私を息子のそばに連れてってくれないか」

 アレクサンドルに肩を貸し、ユーリに近づく。歩みは至極ゆっくりなものだった。そんな私たちにアヤンが死体を跨いで近づいてくる。「いい援護射撃だっただろう」

「ああ、助かったよ」

 私たちの目の前に横たわる怪物の呼吸は浅い。ユーリに近づくと、アレクサンドルは自ら腰を落とし、怪物の体に手を伸ばした。黒い体が溶け始め、液体にまみれて生気の感じられない白さを持つ少年の体が露わになる。

「ユーリ」息子を呼ぶ声は震えていた。

 アレクサンドルは息子を抱きしめる。少年の顔は眠っているように穏やかだ。

 突然、轟音がして船が大きく揺れた。立っていられず私は手をつく。すぐに船が傾き始めていることに気付いた。

「手に入らねぇなら、壊すだけだ」

 腹部を抑えてラシードが立っていた。片手には起爆装置のようなものが見える。血を吐いてなお、勝利を確信した笑みを浮かべていた。

 転がっていた拳銃を拾いラシードを撃つ。糸の切れた人形のように甲板に倒れた。アヤンが口笛を吹いて冷やかしてきた。

「博士。時間がありません。脱出しましょう。治療すれば、まだー」

「いや、私は残る。」

「ですが」

 アレクサンドルの口は震えていた。だが芯の通った目で私を見る。ユーリを力強く抱きしめる姿は、かつて投げ出した父親としてのアレクサンドルを呼び起こしたものだった。

「子供から逃げる親がいていいものか。あの時、私がすべきことは諦めずにユーリを救う術を考えることだった。私は臆病者で小心者だ」言葉尻に涙が混ざっていた。「どちらにしろもう私も助からん」

 艦に水が入り込み、船の傾く速度が上がって来た。私たちの立つ甲板の角度が急になり、立っているのも難しくなる。

「息子は、ユーリはずっと私を追いかけてきた。当然だ、子供にとって親は一番近くにいてやれる存在なんだ。私はそれに応えてやらなかった。いままで寂しい思いをさせてきたんだ。最後は一緒にいるよ」

 気丈に振る舞うアレクサンドルを直視することができない。殴ってでも連れて行かねばならないのに、腕は顎を砕いた時の痛みで上がらない。

「中村君。シガレットケースは持っているな」

 私は股間をまさぐってケースを引っ張り出した。アレクサンドルは苦笑したが、すぐに表情が切り替わる。

「絶対に無くすな。中尉にも同じものを渡した」

 ユーリを抱くアレクサンドルを、死んだと思っていた変形菌が覆ってく。

「すまなかったな、中村君」

「いえ」

 アレクサンドルとユーリの体が完全に黒い液体に包まれ、繭を形作ると傾いた甲板を緩やかに転がり、海中に沈んでいった。

「急ごう。まだ救命ボートが残っているはずだ」私の肩をアヤンが叩く。

 船が沈み切る前に幸運にも救命ボートを見つけることができた私たちは、ボートに乗り込み艦から離れていく。

 月の照らす夜の海に音を立てて船が海面に飲みこまれていく。波面に揺られながら私たちはその光景をただ眺めていた。


「せっかちだな、日本人は。もっとゆっくりしていったらどうだ」

 まさかアヤンが空港まで見送りに来てくれるとは思ってもなかったが、悪いものではないなと私は頷く。「仕事できたからな。呑気に観光なんてできない」

「そりゃそうだわな」とアヤンが笑った。

「なあ、一つ質問してもいいか」「なんだ」

「アヤンの方がアレクサンドルとは付き合いが長いだろう。平気なのか」

「仕事だからな。割り切るだけだ」アヤンの表情にはどこか寂しさが見え隠れする。

「そうか。じゃあな」

 アヤンは黙って手を振る。しばらく空港内を歩き、振り返るとアヤンの姿は人ごみに紛れて消えていた。

 旅客機の中に搭乗客はまだ少ない。手荷物片手に運よく取れた窓側に席に座る。離陸まで時間があったが、いまだに痛む体のことを考えると、ぶらぶらする気にもなれなかった。

 これから日本に帰るのかと思うと、気が緩み無性に煙草が吸いたくなってきた。そういえばカーチェイスのあった夜に煙草をなくしたなあと思い出す。はるか遠くの日の出来後に思えてならない。

 スーツの胸ポケットを探ると銀色のシガレットケースが出てきた。瞬時にアレクサンドルの顔が浮かび上がり、私は鼻をすすった。

 さすがに席で吸うことは憚られ、私は立ち上がって個室トイレに向かう。

 ケースを開くと中身はあの夜のままだった。煙草は綺麗に整列してある。アレクサンドルがかなりの几帳面だったことを伺わせるが、本人はもういない。煙草に火を点け、深く煙を吸い込んだ。自分の体に抜けていたものが満たされた気持ちになる。

 空中を眺めながら、二人に初めて会った喫茶店を思い出し手が止まった。アレクサンドルは煙草を吸わないと言っていた。では何のためにシガレットケースを持っていたのだ。

「赤のラインが入ったものは吸わないでくれ」

 ケースから赤いラインの入った煙草を取り出す。蛍光灯に掲げると、巻きなおした後が見受けられた。爪を立てて巻紙を剥がしていく。中に詰まっていたのは煙草の葉ではなく、おがくずだった。茶色い粉にまみれて透明感のある黒いフィルムシートが出てきた。

「マイクロフィルム」

 私の脳裏に言葉が蘇る。

「研究資料の一部と財産を提供してくれるそうだ」「口座は凍結されてはずでは」「海外に持っているんだろうさ。手段はいくらでもある」

「西ドイツの煙草だ、隠れ家についたら吸うといい」

「確かに大金を積んだが、だがそれだけではないんだ」

「絶対に無くすな。中尉にも同じものを渡した」

 マイクロフィルムを持つ私の手は震えていた。急ぎ西ドイツに向かわなくては。吸っていた煙草をトイレットペーパーに包んで流すが、待っている時間がもったいない。

 私はトイレを飛び出し、飛行機から降りた。すぐに飛行機をキャンセルし、ヨーロッパ行きの便を購入した。その日の夜にはインドを旅立っていた。


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