派出所の出来事
私は不幸にも知ってゐる。
時には嘘によるほかは
語られぬ真実もあることを。
―芥川龍之介
「おいおい、雪、降ってねえか」
コンビニを出た瞬間、堂島が口を開いた。五十嵐が視線を上げると、暗闇からふわりと白い綿が落ちてきた。ぼんやりと眺めていると、それが雪だとわかり次第にその量が増しているようにも見える。
二人は足早にパトカーに駆け込む。肩に残った雪を払う間もなく「エンジンをかけろ」と堂島が急かすので、五十嵐は買ったばかりの缶コーヒーを落としそうになった。
キーを回すと車が息を吹き返す。エアコンから温風が噴き出し、そうこうしている内にフロントガラスはうっすらと雪に覆われていく。缶コーヒーを握りなおしながら五十嵐はワイパーを作動させた。窓ガラスに広がった雪の幕は、左右に押しのけられ溶けて消えてゆく。
五十嵐は今朝のニュースを思い出していた。「関東地方北部を中心に雲が広がっています。午後から遅くにかけて、ところにより雪になるかもしれません。外出の予定がある方は注意してください」と女性キャスターが笑顔をふりまいていた。
コンビニから溢れ出す光量は強すぎる位だが、映るのは稲穂の刈り取られた風景だった。だが範囲もその実、十数メートルほどしかない。そこから向こうは闇の領分だった。
五十嵐たちが勤務している駅前の交番から車を走らせると、すぐに田園風景が広がる。そこから一部を切り取とってコンビニエンスストアは建てられていた。コンビニを建てても、なお有り余る土地に作られた駐車場には五十嵐たちが乗るパトカーだけが停まっていた。
「嫌になっちまうなぁ。まだ十二月に入ったばっかだってのに」
助手席に座る堂島はビニール袋からアメリカンドッグを取り出した。ケチャップとマスタードが一つになった小さなパックを潰すと器用にアメリカンドッグにかけていく。
堂島は大きく頬張りながらも何か愚痴っている。その様子を見ながら、五十嵐は自分の缶コーヒーのプルタブを引いた。小気味の良い音がして香りが立ちのぼる。口をつけると、まろやかな苦みと甘味が広がった。
「車、大丈夫ですかね」
五十嵐が口を開いた。チェーンは載せてあるが、この地域もそれなりに雪が残ると聞いている。就職活動のために慌てて運転免許を取ったはいいが、そのせいか雪道を運転することはなかった。
「時期的には、まだ積もるほどじゃないだろう。心配しなくてもいいぞ」
「そうですか。じゃあ安心ですね」
五十嵐は配属されたときののことを思い出した。五十嵐の様子を見に来た上司が交番を訪れた際、堂島は悠長にも机の上にスポーツ紙を広げていた。思わず顔が引きつった上司が去った後も堂島はスポーツ紙を片付けることはしなかった。
「こんな時間にお客さんかよ」
いつの間に食べ終えていたのだろうか、堂島は助手席でふんぞり返りながら外を見ていた。五十嵐も同じ方向に視線を向ければ、駐車場に白いワンボックスが入っていた。白のワンボックスは迷うことなく広い駐車場の端に停まった。
中から出てきたのは背の低い老人だった。半ば駆けるような速度でコンビニ入っていく。慌てた様子で追随するのは、眼鏡をかけた背の高い男性で年の頃は三十台に見えた。
「息子さんですかね」
「かもな。親父の方は便所かな」
五十嵐が残っていたコーヒーを飲みほすと、堂島がビニール袋を開いた。中にはアメリカンドッグの串が折れて入っている。五十嵐は「ありがとうございます」と缶をごみ袋に入れた。
「さて、出発だな」
五十嵐はギアを入れ替えてアクセルペダルを踏み込む。パトカーは静かに一車線に進みだした。
県道に出ると途端に夜が広がった。空の色とは濃さの異なる影が、五十嵐に昼の間に見えている雑木林か畑であることを教える。影に落ちた民家には明かりもついておらず、道路灯がわずかに足元を照らすばかりだった。
「あれか」堂島が呟いた。
密集した民家の終わり、二股に分かれた県道に挟まれるようにして正面に交番が見えた。車の通りがないことを確認して路肩にパトカーを停める。
二階建ての四角い交番だった。交番のドアは開け放たれたままで、室内から溢れ出た照明が暗闇の中、その存在を浮かび上がらせるように際立っている。
出発と言うにはやや大げさだったかもしれないと五十嵐は心の裡にとどめた。
「車がないですね」
真横に駐車場が備えられてはいるがパトカーは停まっていない。うっすらと雪が張っていた。
「山田巡査、やはり出払っているのでしょうか」
「あそこに停めちまおう。帰ってきたら、どかせばいい話だ」
五十嵐たちの乗るパトカーが交番に近づいても、こちらに気付いている様子はない。そのまま駐車場に乗り上げるとエンジンを切った。
車内が静まり返る。五十嵐がひと息つく間もなく「ほれ、いくぞ」と堂島がドアを開けるので慌てて続いた。
五十嵐はパトカーから降りると周辺を見回した。先ほど寄ったコンビニの光が小さく見えた。照らされた田んぼが白く映るのは雪のせいだろうか。
五十嵐が車を回り込んで交番の方へ向かうと堂島はすでに入り口に立っていた。視線は交番を見上げている。五十嵐も並んで横に立つ。
「なんだか、薄気味悪いなあ」
立っている位置から中の様子がうかがえるが、荒らされた痕跡は見受けられない。
「入りましょうか」五十嵐が口を開く。
「お先にどうぞ」堂島はその場から動かない。
五十嵐が交番に足を踏み入れると堂島も続いた。
改めて室内をぐるりと見回す。事務机と回転いすが一組置かれ、机の上は綺麗に整えられている。部屋の中央に置かれた電気ストーブに火は無い。部屋はそこはかとなく冷えていた。
「荒らされた後は無いな」
堂島が先を行くので五十嵐も続く。短めの廊下は奥がトイレに、手前は給湯室に続いていた。給湯室に隣接して小さめだが階段が見える。
「カップ麺だ」
給湯室に入るなり堂島がキッチンのカウンターを指さす。割りばしが蓋の上においてあった。
「伸びきっているな」堂島は手を伸ばして蓋をめくった。
五十嵐が覗きこむ。中身は麺でぎっしり詰まっている。
「こっちはやかんか」
堂島は五徳にかけられたままのやかんにも手を伸ばす。
「すっかり冷めきっているな。おい、便所を見てきてくれないか」
堂島の指示に従って五十嵐は廊下奥のトイレに向かう。トイレの前に立つと、念を押してノックをするが反応はない。ドアノブに手をかけると素直に回ったが、冷たい空気がトイレを満たすだけだった。
「いたか」外から堂島の声が響く。
「いません。空でした」五十嵐も負けずに声を上げた。
給湯室に戻るが堂島の姿は無く、玄関口にもなかった。階段を上ると二階はすでに明るく、八畳一間の中央で堂島が腕を組んで立っていた。おそらくは休憩室だろう。
「二階にもいませんか」
堂島は頷くだけだった。
「どう思うよ」
「パトロールに出かけただけでは」
「これからパトロールに行くやつが、カップ麺をつくろうと思うのかね」
「通報があったとか」
「そうだとしたら本部に連絡が飛ぶだろう。俺たちもここに来ることはなかった」
「事件に巻き込まれたということですか」
「だったら、少しくらい荒らされた形跡が残っていてもいいはずだ。相手は本職の警官だぞ」
「じゃあ、一体」
「俺にも分からん。だからー」
「おーい勝ちゃん」
階下から間延びした声が聞こえた。二人は顔を見合わせると階下へと向かう。入り口には背の低い老人が立っていた。頭や肩に残った雪を払っている。
「ありゃ、あんたたち。見ない顔だな」老人の顔はだいぶ赤かった。
「駅前交番勤務の堂島巡査というものです。こちらは五十嵐巡査」
堂島の紹介に合わせて五十嵐は会釈する。老人には見覚えがあった。
「もしかしてあんたら、さっきコンビニにいたパトカーか」
老人の指摘を受けて五十嵐ははっとした。さっき寄ったコンビニに慌てて駆け込んでいった老人だった。
「ええ、確かに」堂島の受け答えはやけに冷たい。
「そうか、そうか」老人は頷く。
「失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ああ。そうだよな。俺は小川和夫っていうんだ。この交番の勝ちゃんとは顔見知りでな。まあ友達みたいなもんだよ」
「息子さんとご一緒ではありませんでしたか」五十嵐が割って入る。
「なんだ、やっぱりあんた達かよ。まあな、ちょいと、もよおしてきちまって。でもなあ、あれは義理の息子だけどな。俺の娘が連れてきたんだが、まあうちに来るにはもったいない男だよ。本当にいい男だ。連れてきたうちの娘もまあ、見る目があるよな」
老人は似たようなことを繰り返し口にしては何度も頭を振っている。かなり出来上がっているようだった。
「その息子さんは」
「ああ、コンビニに置いて来た」
「ええ」五十嵐は思わず口にしてしまった。
「まあ、もう家まで目と鼻の先だしよ、車でーそうだ俺を迎えに来てくれたんだっけかーまあいいや。それでな俺はちいとばかしよ、勝ちゃんに顔見せてくっから、先に帰っていていいぞって言い残してな」
五十嵐は堂島の様子をうかがう。いつもより眉の幅が狭くなっている気がした。
「それで、勝ちゃんは。異動にでもなったのかい」
「それがですねー」
五十嵐が口にしかけたところで堂島がそれを止めた。
「いえ、それほどたいした事でもありません。ただ地域内の交番を巡回中でして。順路に入っていた、ここの交番の山田巡査の姿が見えないものですから、こうして調べていたのです」
「おいおい、大丈夫かよ。こんな遅い時間に。事件に巻き込まれているんじゃねえだろうな」
「パトカーが見当たりませんから、おそらくパトロールに出かけているのかと思われます。事件に巻き込まれるにしても、こちらは警察官ですから。ご心配なさらずに」
「いやいや、俺も心配だからよ。何か手伝えることはねえか」
「大丈夫ですよ。もし小川さんを巻き込んでしまうようなことがあれば、それこそ山田巡査に顔向けできません。市民を守るのが警察官の役目ですから」
小川老人はそれでも食い下がろうと試みるが、掴む縁も見せない堂島になす術もなさそうだった。
「そうか、ならいいんだけどよ。まあ警官さんが言うことだからな。心配はねえんだろう」
小川老人の言葉尻はどこか寂しい。
直後に外からエンジン音が聞こえた。三人は顔を外に向ける。
暗闇の中、雪の道路を照らしつつ表れたのは白のワンボックスだった。交番の目の前に停まったワンボックスから男性が姿を表す。男性は三人を見つけると飛ぶように駆けてきた。
「すいません、身内のものが大変ご迷惑をおかけしました」
小川老人の義理の息子らしき男性は義父の横に並び立つ。遠めに見ても背が高いと感じていたが、実際に並ぶと三人より頭一つ分は抜けていた。
「章くん悪いな、勝手に」小川老人の肩はすっかり下がっていた。
「お義父さん。どうかしましたか。」
「いや、なんでもない。帰ろうか」
義息が事情を呑み込む暇もなく小川老人が車に向かったので、彼は警察官たちに深々と頭を下げた後、運転席に戻っていった。
積もり始めた雪をものともせず、二人を乗せたワンボックスは二股を民家の方へと進んでいく。
「よかったんですかね」ワンボックスが姿を消してから五十嵐はつぶやいた。
「警察官が余計な心配させるわけにはいかねえだろう」
「これからどうしますか」
五十嵐が空を見上げる。空模様は依然として変わりなく五十嵐はさすがに不安を覚えた。堂島もまた見上げていたが、軽くため息をついた。
「楽観的に考えて、お前の言う通りにパトロールに回っているだけだったら、そのうち帰ってくるだろう。待ってみるか」
「どちらで待ちますか」五十嵐はパトカーを指さす。
「交番に決まっているだろう。雪が降っているのに、もし車の中で眠ったら死ぬぞ」
五十嵐は素早く交番の扉を閉めた。堂島が電気ストーブを点けると温風が部屋を満たしていく。瞬く間に暖かさが部屋を包み、五十嵐は山田巡査が帰ってくるまで絶対に部屋から出ないと心に決めた。
「さっそくで悪いとは思うが、無線機で本部に連絡してきてくれないか」
堂島は電気ストーブを占拠しつつ五十嵐に笑顔を向ける。
「外は冷え切っていますよ」五十嵐は露骨に嫌な顔を浮かべる。
「先輩を敬えよ」
「後輩は大事にしないと」
お互いに笑顔を向け合っていたが、がっくりとうなだれた後、五十嵐は立ち上がった。堂島は五十嵐に両手を合わせる。
「積もらないはずですよね。この時期は」
扉を開けると部屋に寒風が吹きこんだ。堂島は大げさに両肩をさする。
「言い忘れていたけどな、この地域のパトカーは全部スタッドレスだ」
「ほんとですか」
「それは本当だ」
外に出ると冷気が頬に張り付いた。白い息を上げながら五十嵐はパトカーに駆け込むが、車内は冷え切っていた。エンジンをかけたがエアコンから出るはずの温風がまったく感じられない。無線機に伸ばす指先から冷えてきそうだった。
「こちら6号車。応答願います」
「こちら本部。五十嵐さんどうぞ」よく聞きなじんだ声だった。
「磯崎さん。そうやって呼ぶのはやめてくれないか」
「いいじゃないですか。わたしたち数少ない同期ですよ」ころころと磯崎が笑った。
「こちら六号車。指示のあった交番を調べましたが、目立った異常はなし。しばらく待機して様子を見ます。どうぞ」
無線の向こう側でふくれっ面の磯崎が目に浮かぶ。
「本部、了解です。雪には気を付けてくださいね」
「六号車、了解です」
意外な対応に五十嵐はあっけにとられた。堂島の冷静な態度こともあり、妙なことも続くものだと無線機を元に戻そうと腕を伸ばした。
異変にはすぐに気付いた。どうにも無線機が引っかからない。何度も繰り返すうちに上げている腕が重く感じられる。次第に動きが鈍くなる。瞼が重く視線が揺れてくる。
まさか死なないよなと思いつつも五十嵐の意識は落ちていった。
軽い音が頭に響く。
これは誰かが窓を叩いている音だと五十嵐は認識した。瞼は変わらずに重い。まるで張り付いているようだが、思考は驚くほどにはっきりしている。澄み切った空気に依るものなのか気分は決して悪いものではなかった。
ただ、誰かが窓ガラスを叩くせいで、五十嵐は起きなければならないと感じ始めていた。繰り返される力のないノックの音にようやく目を開く。やや不快な気分にさせられたが自分が眠りに落ちた状況を思い出すと、半ば飛び跳ねるようにして起き上がった。
激しい呼吸によって絶えず白い息が上がる。空気のあまりの冷たさに肺から咽た。口から跳ね出た唾も凍らないほどだった。
五十嵐は視線を巡らす。四方の窓ガラスは凍り付いていた。そのままドアレバーに手をかける。少し力を込めるとドアが開き、安堵しつつ車から足を踏み出した。
踏みつけた足の裏に厚みを感じる。視界の果てまで地面を雪が占めていた。
いつからか雪は止んでいたようだった。深い藍色の空を所せましと星が瞬いている。五十嵐はここまで綺麗な見たことがなかった。恋人がいればもっと素晴らしいものに感じられただろう。そう思いながら周囲に視線を向けた。
交番から明かりが消えていた。
五十嵐はその場に立ち尽くす。とっさに交番の中にいるはず堂島を思い出した。まさか眠っているのだろうかと交番に歩み寄る。
すぐに五十嵐は自身の考えに否定された。脳裏に堂島の言葉が反芻される。
「雪が降っているのに、もし車の中で眠ったら死ぬぞ」
五十嵐がパトカーに向かったきり戻ってこなければ、心配して見に行くのが道理ではないだろうか。口にしたのは他でもない堂島自身なのだから。
五十嵐の思考に浮かび上がった一つの考えは隅にこびりついて離れない。腹の底が冷えているのは、はたして寒さのせいだろうか。
交番の扉は閉じられている。そこに沿ってわずかに雪が積もっていた。震える指を扉にかけると静かに引いた。
部屋の中は暗い。部屋を満たしていたはずの暖かさは消え失せ、ここに人が居た気配を感じなかった。五十嵐はポケットから携帯電話を取り出す。画面に映る時刻を見ると、車で意識を失ってから一時間も経っていなかった。
五十嵐の目は携帯電話から離れなかった。画面には堂島から着信があったことを知らせる通知が出ていた。通知から留守録が残されていたことを知る。力の入らない指で留守録を再生させた。
外にいるのか風の音が聞こえる。無音が続いていたが数秒して、がたりと、何かがぶつかる音に思わず耳から携帯電話を遠ざけた。
恐る恐る携帯電話を耳に持ってくる。留守録の向こうから聞こえてきた風の音は耳が馴れてくるにつれて、子供のささやき声のようなものだと分かった。
内緒話をするかのように、ささやき合っている。くすくすと笑い声もする。決して止むことのないささやきが五十嵐の首筋を冷ややかになぞる。やがて録音時間に限界が来て無機質な音声が時刻を読み上げた。
ささやきは脳内にこだまのように反響する。耳から流れ出たこだまは部屋に広がり、そして部屋を満たしたとき五十嵐は交番を飛び出た。
目に映るのは、場違いな明るさを放つコンビニだけだった。交番が暗いのは、きっと堂島がコンビニにいるからだと願っていた。きっと、またホットスナックでも頬張っているのだろう。
薄情な男だと憤慨した。後輩が冬の、それも雪の積もった車内で眠っていたのに危機を覚えず、勝手にコンビニに行っているのだから。新聞沙汰になったらどうするつもりだったのだろうか。
力の入らない足は雪に取られ思うように進まない。積もった雪のせいで、すでに車道との区別はつかなかった。
コンビニに近づくほどに増してくる光の中に、欠片のような影が目に入った。光の中にあってひび割れのような影は道路の中心に立っている。
「こんな時間に」
縦に細長い。どうにも人影のようにも見えるが、五十嵐はそれから目が離せなかった。影は背後からコンビニの光を受けているせいで、それが何なのかはっきりしない。
「堂島さんですか」
思わず声をかけた。それほど近い距離でもないが相手に分かるように声を上げた。
返答がない。人影は佇むようにその場を動かない。
「もしかして山田巡査ですか。私は駅前の交番に勤務している五十嵐浩太です」
声をかけながら近づく。周囲のせいか、あるいは目の前の人影のせいだろうか。五十嵐を突き動かしていた感情に徐々に何かがまとわりつく。
「五十嵐です。どうしてこんなところで立っているんですか。寒くないんですか」
さらに歩み寄る。ついに人影の姿がはっきりした時、五十嵐はその場に立ちつくした。
巨大な雪の塊だった。大人の身長ほどの、それは衣服を身にまとい帽子まで被っている。
「誰だよ。こんなの作って」
雪だるまから衣服を剥ぎ取った。知っていた肌触りだった。よく知った衣服だった。それは今まさに五十嵐が来ている警察官の制服と同じものだった。
慌てて制服の裾を返す。制服の内ポケットに携帯電話の照明を当てた。名前が刺繍されているはずだった。
「堂島…郁夫」
堂島への憤慨によって保たれていた平静は崩れて消えた。五十嵐は腰から落ちた。雪はじんわりと制服を濡らしていく。指先の感覚が乏しく、痒みは今にも痛みに変化しそうだが気にしている余裕はなかった。
五十嵐は履歴から堂島を呼び出す。祈るような気持ちで携帯電話を耳に当て続けた。
コール音は二回で終わり、誰かが電話に出たようだった。しばらく無音状態が続いていたが意を決して声を出した。
「堂島さんー」
「くすくす」
五十嵐は携帯電話を投げ捨てた。次の瞬間にはパトカーに向かって駆けだしていた。制服はすでに濡れきっている。雪に足を取られ、前のめりに雪に突っ込んだが、四つん這いのままパトカーに乗り込んだ。
「おいおい、嘘だろう」
喉から捩じるようにして出た嗚咽は車内に白く上がって消えた。回そうとして車のキーがどこにも無いことに気付いた。
「ちくしょう」
五十嵐はパトカーを出て再び雪の塊を目指す。落としたとしたら、そこしか考えられなかった。
息は上がりきっている。体内に入り込んだ冷気のせいで体温が分からない。足取りが重く、指先は痛みに包まれている。
コンビニの光が目に眩しく、にじむ。そのせいで気付くのに遅れた。
コンビニの光を背に受けて影がひとつ増えていた。それは光に包まれながらも、あきらかに五十嵐が制服を奪った雪の塊とはべつのものだった。輪郭はぼやけているが、しかし確実にこちらに向かっている。
「堂島さんですか」
五十嵐は声の限りに叫んだ。五十嵐の声に反応したのか、それは一度動きを止めたが、また動き出した。
「山田巡査ですか」無意識にも五十嵐の比重は後ろにかかっていた。
今度は影も動きを止めない。頭を振るように揺れながらこちらに向かってくる。まるで雪を意に介さないような速度に五十嵐は気付いた。明らかに人の動きよりも早い。
五十嵐は背を向けると交番に駆け込んだ。膝が笑いっぱなしだったが、中に入るとすかさず鍵をかけた。素早く部屋の明かりを点けるといつもと似たような光景が目に入り、幾ばくかの余裕が生まれた。
コンコンと軽い音が交番に響く。
返事ができない。扉の向こうにいる何かはこちらの存在に気付いているはずだ。堂島か山田巡査の可能性も捨てきれない。だがそれでも口を開くことを拒否している。
「嘘だろう」
外から聞こえていたノック音は不器用に金属同士をぶつけ合う音に変化した。それはまさに五十嵐がかけた鍵を開けようとする他にない音だった。
「堂島さんですか」
五十嵐の独り言のような呼びかけに扉の向こう側の音が止んだ。
「くすくす、くふくふ、うふふ、ふふっ」
堪え切れなかったのか、爆発したように笑い声が向こう側から響く。幾重にも声音が重なり交番を満たしていく。紛れてまた金属同士が擦れ合いを始めた。
がちゃりと扉の鍵が回った。扉が開くかどうかという内に五十嵐は廊下に逃げ込んだ。二階は八畳一間の休憩室になっている。給湯室の横の階段を素早く駆けあがり、部屋に入ると直ぐに鍵を閉めた。
静かだった交番に風の音が響く。水を含んだ布が床に擦れる音が重なる。次第に重く固いものが地面を叩くような音に変化する。階段を上っているのだと気付いた。
五十嵐は暗い部屋の隅に這いつくばって向かうと、ただ震えた。
階段を上り切った足音は扉の前で消えて笑い声に変わった。もう興奮を抑える気はないのだろう。笑いながら、そいつはまた金属同士を擦りつけ合い始めた。
五十嵐は震えながら、その様子を見ている外なかった。
何度も不器用な金属の擦れを繰り替えした後、鍵穴に鍵がはまる音が五十嵐の脳内に届く。鍵穴が回転し錠が外れた。
音もなく扉が滑る。五十嵐は動けなった。
東から差す光に小川老人は目を細めた。田んぼは雪化粧を施され、雪に反射した朝焼けが白と橙色の混ざり合った風景を生み出す。少しばかり気が早いような気もするが、この景色を見るとなぜか興奮が止まらない。
散歩のつもりだったが、どこか歩みが早くなってしまうのも致し方ないと小川老人の息は白く上がっていた。
「おいおい、まだいたのかよ」
昨夜の交番に通りがかった小川老人がパトカーを見つけた。酔ってはいたが、昨晩のことを簡単に忘れるほど衰えたつもりは毛頭ない。
「中で眠りこけちまったのかねえ」
交番の扉は開けられたままだった。小川老人は茶化すつもりで交番の中へと入っていった。
数分経って小川老人は交番から飛び出てきた。
「どういうことだぁ」
小川老人は今までにないほどの速さで自宅に駆け込んだ。すぐに警察署に連絡すると息子夫婦を連れて件の交番に向かった。
早朝の空気を裂いてサイレンがいくつも響き渡る。何事かと付近の住人が顔を出す中で交番の前にはパトカーが群れをなしていた。
朝日が昇りきる前に交番の周囲には規制線が張られ、町内の住人は交番に近づくことすら禁止された。
交番の扉は固く閉じられ、それこそ昼夜を問わず警官が出入りを繰り返していた。中には防護服らしきものを着ていた者もいたという。
数日後、規制が解かれると新しい警察官が配属され、交番は以前と同じように機能し始めた。小川老人は新任の警察官に山田勝巡査と彼を訪れた警察官たちについて尋ねたものの「自分は知らない」との一点張りで対応された。
警察官の対応に納得がいかなかった小川老人は本署に向かい、三人の行方について唾を飛ばすも「答えられない」と返ってくるだけだった。
翌日、朝食の場で新聞に目を通した小川老人は椅子から転げ落ちそうになった。
2006年十二月十七日 地方新聞 X県警察 複数巡査行方不明
今月十二日深夜から複数の警察官が行方不明になっていたことをX県警察本部が発表した。
公表した情報によると十二日深夜、市内の交番から定時連絡がないとの報告を受けた巡査二名が、その交番に向かったところ、そのまま消息が途絶えたという。
交番には両巡査が来る際に乗っていたと思われる車両が残されており、県警本部は二人が到着後、なんらかの事件に遭遇したと見ている。
また両巡査が向かっていた交番に勤務していた山田勝巡査(四十一)もまた、同様に深夜から姿を消しており、両巡査が巻き込まれた事件との関連性は極めて高いとの見解だ。
2006年十二月二十日 地方新聞 X県警察 行方不明巡査見つかる
今月十二日深夜から行方不明になっていたX県警察、堂島郁夫巡査捕(五十一)が農用地脇の水路で、死体となって発見された。X県警察は誘拐及び殺人事件と発表。
県警の公表した情報によると堂島巡査は十二日深夜、同僚の五十嵐浩太巡査(二十三)と共に市内の別の交番に向かい、その後両巡査共に消息不明となっていた。
二人が乗っていたと思われるパトカーは、例の交番に停められてあったことから二人は交番に到着後、事件に巻き込まれたとみられている。
なお、同交番勤務に当たっていた山田勝巡査捕(四十一)もまた、十二日以降、行方が分かっておらず、X県警は三人が同じ犯行グループによる事件に巻き込まれたとの見解を強めている。
X県では、十二日の深夜から天気が崩れたため誘拐犯は堂島巡査を誘拐する際、自動車等を使用したと疑っており、同県警は交番や農用地周辺での車両や不審人物の聞き込みなどを行っている。