餓鬼
人間は死んだ後、六つの世界を輪廻する。その六世界のうち餓鬼界には水がないため、死者はひどい飢えと乾きに苦しめられる。下等な鬼である餓鬼は、常に飢えていて普段は水を飲むことができないが、たったひとつだけ、飲むことができる水があるという。
朝のニュースで天気予報士が、夕方から雨が降るでしょうと言っていたから、二本の傘が置いてある傘立てから自分の傘を持って学校に行った。天気予報の雨を思わせない程に、空模様は雲ひとつない真っ青な空だった。今日は特別な日だから、アルバイトは休みをもらっていて、同じクラスでバイト仲間でもある友人も今日が何の日か察しているのか、いつものように引き止めて話しかけては来なかった。授業もホームルームも終わると真っ直ぐ下駄箱に向った。空模様は朝とは違い雲に覆われていて、天気予報通り雨が降ってきそうな湿っぽい香りが鼻を掠めた。途中の花屋で蓮の花を買って、何故だか落ち着く線香の香りと胸が騒がしくなる雨の湿っぽい香りが混ざった変な匂いを嗅いで、杉林の中の階段をしばらく上った。一番近くにあった手桶と柄杓を手にとって蛇口を捻る。蛇口から勢い良く出た水の音に胸が騒がしくなる。水を止めて、荷物を持ったまま、また少し石畳の階段を上るとあの人はそこにいる。静かにじっと動かずに佇んでいる。花立に供えられた去年の枯れた蓮を、買ってきた新しい蓮に変えて手桶の水を柄杓で掬って水をかけた。飢え死なないように、乾きに苦しまないように、卒塔婆まできちんと水を掛けて、周りの花にも水を撒いた。湿った匂いが線香の匂いを掻き消して、胸が騒がしくなる。
もう時期、雨が降る。
天気予報は見ない主義の私は、何度か後悔してきた。朝の空に騙された事は今までに何度かあった。そうして、今朝の雲ひとつない青空にもうまく騙された。RPGゲームで例えるなら、ずっと組んできたパーティーの一人が実は昔から闇堕ちしていて、敵でしたのパターンだ。あの青空はプロだ、プロの詐欺師だ。そう高校の頃の友達にSNSで嘆いていると、そろそろ学べよと言われてしまった。晴れの日には私が傘を持ち歩かない事を分かっているくせに。持ってきて欲しいと頼むと、お前には必要ないよと言って、友達は大学まで傘を持ってきてくれなかった。高卒ニートのヒモ野郎と返すと、それ以降の返事は来なくなった。やはりあいつの辞書に慈悲という文字は、存在しないらしい。眠気を誘われる授業が終わり、途中の花屋であの人が大好きだった百合の花を買った。雨の湿り気が花を掠める。雨に降られる前に急ごうと、早歩きであの人のいる場所に向かった。杉の木の中の階段を駆け上がっている途中で雨が降って来た。雨は傘を持たない私の事なんて知らない風で容赦なく、強まる。詐欺師にお金を騙し取られた事にようやく気付いた気分だ。この雨の強さなら、少し待てばすぐに手桶に水が溜まるのではないかとも思ったが、早く雨から抜け出して風邪を引く前に家に帰りたいと、手桶と柄杓を手にとって蛇口から出る水を入れた。ここからは他の人達に迷惑を掛けないようにゆっくりと足を運ぶが、もちろん雨から早く抜け出したい気持ちはある。しかし、既にかなり濡れて手遅れな気もする。どちらかと言うと後者が強い。髪がじとりと肌に吸い付く感覚が、気持ち悪い。ご近所さん家にもご家族さんがやってきているみたいで、一人白い傘を差す男の子が柄杓を持ったまま、傘を少しだけ上げてちらりと私の方を向いたので会釈をした。
雨で花がしな垂れる。
どくんどくんどくんどくん
さっきまで煩かった雨音は心音に掻き消され、嫌に静かな空間で鼓動の音だけが俺を焦らせるように鳴っている。湿った匂いも今じゃすっかり消え、いつの間にか煙むたい線香の匂いがそこら中に充満していて、息苦しい。スピードを上げる心臓をギュッと握り締めるが、全く止まる気配はしない。艶のある長い黒髪が首筋に吸い付いる姿は艶かしいというよりも、四年前の出来事を思い出させた。やめろうるさい、うるさいうるさい。俺を通り越した女は隣の墓の前で立ち止まった。正直言って、期待をしていた。あの懐かしい声で俺の名前を呼んで、抱きしめてくれるんじゃないかと期待した。当たり前だが、そんな事はあるはずもなく、百合の花を抱えた女は傘も差さずに作業を始めた。しゃがんで掌を合わせる女を横目に、自分も立ったまま掌を合わせる。やはり、艶のある長い黒髪はそのものだ。
「姉さん」
ざあざあざあざあざあざあ
雨の音がすごく五月蠅い。落ち着くという理由で好みな線香の香りまで雨の香りで掻き消されていた。雨の音が降りしきる中、別の音が耳に入ってきたので、一体何の音だろうという軽い気持ちで、立ち上がった私は音の、声のした方に顔を向けた。隣の墓石の前に立つ、白い傘を差した彼は、私を見て確かに、「姉さん」と言った。彼は私の事を呼んだわけじゃない。彼の「姉さん」が私ではないのは、私自身が1番よく知っている。私には兄弟がいないから、姉にはなりえない。何より彼と会ったのは今日が初めてで、彼のことは何も知らない。しかし、彼とは確実に目が合った。彼が「姉さん」と震えた声で言い、タイミングよくそれに振り向いてしまった私は、こちらを向いている彼と目が合ってしまったのだ。目の前の彼には、それがまるで、呼びかけに反応したように見えたのではないだろうか。彼は私を「姉さん」と呼んだ。誰かと見間違えて彼が私をそう呼び、その誰かが彼のお姉さんである事は明白であった。
「私、貴方の姉さんじゃないです。」
「……。」
彼の「姉さん」を見る真っ黒い瞳に不安を覚える。こういう人に掛ける言葉は、これであっているのだろうかなんて。彼の場合はきっとひとつ間違ってしまえば、発狂し出すかもしれないと、苦しそうに細められた目を見て思った。雨と共に降ってくる不安に耐えられなくなった私は急ぐようにして否定すると、彼はわかりやすく眉を寄せた。
「貴方の姉さんは、こんな風に話しますか?」
「こんな声でしたか?」
「違うでしょう?」
自分でもわかっていた。この女は姉さんじゃない。話し方だって声だって全然違う。俺に敬語なんて使わないし、声だってもう少し高い。でもそれでも、目の前の女が呼び掛けに振り向いて反応した瞬間から、姉さんにしか見えなくなってしまった。話し方だって声だって脳内で勝手に変換されて、姉さんにしか見えなくなっている。加えて、雨と艶のある長い黒髪が女を姉さんにした。そんな俺に追い討ちを掛ける様にして「姉さん」は立ち上がって次から次へと聞いてきた。ああ、違う。そんな事は俺が一番わかっている。ただ、理解よりも願望の方が強かった。
「……。」
無反応な彼に、不安は強まるばかり。雨音が沈黙を知らしめ、より一層、私を急かす。
「この間大学の授業で習ったのだけど、人間は死んだ後、六つの世界を輪廻する。その六世界のうち餓鬼界というところには水がないため、死者はひどい飢えと乾きに苦しめられる。」
「……」
「下等な鬼である餓鬼は、常に飢えていて普段は水を飲むことができないが、たったひとつだけ飲める水があるという。」
いきなり語り始めた「姉さん」に頭が着いていかないし、その話の内容もさっぱりだ。ただ、この静かな空間で鳴っていた心音が、それほど大きな声を出しているわけでもない「姉さん」の声によって掻き消された。線香の匂いがまた濃くなる。
「さて、その水とは?」
「っ……」
微笑んだ女に、震えた。
「墓にかけられた水よ。だから餓鬼は、その水を求めて墓場に集まるの。」
偶然か必然か、わざとか素なのか、嫌に姉さんのような口調になり始めた女に震えた。震えているわりに体は女に数歩近付き、最早手遅れながら傘に入れた。女の体は酷く冷たくて、四年前の出来事を思い出させもするが、同時に雨に濡れすぎた艶のある長い黒髪を肌に吸い付ける姿は、
「まるで、餓鬼みたいだ。」
とても艶かしくて、
「貴方もね。」
飢えている。
「正法念処経」の一説を参考にしました。