発達障害者の日誌77
セーフティネットを扱う意味が本来的な役割を果たさず、精神的な困窮を持つ人達にとってのネックになりつつある。表現活動をするにあたって最初はやりくりしていたお金もかつかつで、恥ずかしい話を申すと、社会的な部分での生存性が実に危うくなっているのだ。もっと労働意欲もあり精神的にも身体的にも重い人がやるべきであるとそう考えていた。困窮すると思想も荒れるし、明確な体力も減っていく。
そういう明確な形であるいまだからこその社会的復帰の支援としての生活保護や障害者年金というものも使っても良いと思えるようになってきた。親から金を借りるという後ろめたさはやはり心地良くはないし、何より社会的復帰とするまでの期間での繋ぎを保証とするものは必要なわけで。自分の罪悪感と命であるならば命のほうが大事であるし、これから先表現活動の一つとして本来の役割を伴った効果というものもモデルケースとして見せていくのも大事なのかなとおもう。人間的な部分で障害を開示すると甘えや知識がない人達にとっての重圧になりかねないし、本来の役割を忘れて仕事を諦めたひとの温床になっていうイメージも強い。そういった意味合いも強いから本当に確保しなければいけない人達が倒れるまでそのセーフティを使えないのかなと思う。実際僕も使うまでは勇気がいるし、困惑するものであったけれど、死ぬという事に比べたら全然いいはなしである。




