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発達障害の日誌。  作者: 作者不明
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二話

個人的な主観です。それをもって障害者や健常者のありかたや、価値観の相違をかんがえたりしていければなとおもいます。

過去の怒りだの納得出来ない事柄に対して私はさほど言葉にはしないことにしている。



感情的になる数年前であるならば実に無益な価値観の激情をもって動いていただろう。




前もっていっておきたいのはこれは生きてきたなかで感じた主観的な部分しか多くを語ってはいない。



ともすれば人間なんてものはそのようなものであるなと私は感じてるわけで、台詞のない思考整理のようなものを話すだけではある。



短く終わるのかも知れないし、長く終わるのかもしれない、謂わば当事者における障害者という観点での独白でしかないので、これは違うや、間違いだというような考えもまた等しいものだとおもう。



いわばこれは正しいとか間違いではなく、選択しつづけながら今を生きているLD系統の発達障害者の日誌とでも考えてくれたらよい。



診断ではインプット過多でありアウトプットが難しい形のコミュニケーション不全や感情過多なタイプというのが僕自身の理解ではある。まわりの理解と自己理解は違うものではあるとはよく聞く。



自分自身からしてみたら扱いにくいのもまた己で障害者のくせして何でそんなに自身満々なんだとかいわれたりもしたが、それもまた偏見というものだ。



僕自身も偏見や差別はしたくないので、必要最低限しか知識はいれてはないし、キチガイや障害者は楽でよいよなあと考えるひともいるが、別にかまわないとおもうんだよ。



自分のなかでの知識の中で得る必要のないものや異物としてしか見れないなら不快なものでしかないし。理解しえないものより自分が扱えるものを扱うのは人間の術だ。



許容範囲を越えて善意というもので命や有限な時間を潰すというのはどうもちがう。



すべてを受け入れるのが善という風潮があるなかで、精神を消耗し、上下を決めつける部分もあるわけで、なら、目の前にあるできる範囲と、受け止めれる人間を愛するのが最善策ではあるとおもう。



冷めてるとはいわれるが、考えてもみよう、理解せずにただ病気としかみないやつに慈悲や心を許せるかどうかという観点でいえば愛だけで理由をすませられないこともあるわけだ。



健常や障害云々ではなく全てではなく、人間として生きるために選択するのは当たり前だよね。


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