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棋士と空手家

その日は真夏日だった。

太陽はアスファルトを照りつけ、車や人、全てが陽炎越しに見えた。

月刊『囲碁将棋』の編集者・野田 正樹は、印刷所の前で立ち止まった。

きりっとした凛々しい眉に糸目な狐顏。ショートソフトモヒカンの髪は空を向いてまばらに尖っている。背丈は160cm程でけして大きくはないが、肉はかなりついている。

彼の同期の女性編集者は、そろそろ2軍じゃなくて1軍じゃない?と彼を悩ませる発言を耳がたこができる程言ってくる。また、この2軍、1軍はスポーツのことではなく、肥満のことであることは職場の全員がわかっている。

彼は、額の汗をスーツの袖口で拭き、原稿の入った封筒を覗いた。 中には皺のついた何十枚もの原稿用紙が確かに入っていた。


「遅くなりました」


野田が声をかけて印刷所の引き戸を開けると、大きな機械音をたてながら奥のフル稼働している印刷機の側にいた中年の男が、入口を振り返った。男は、血走った目で野田を睨みつけ、首にかけた白いタオルで顔を荒っぽく拭くと野田に向かって日焼けした手を伸ばした。

野田はわずかに笑みを浮かべると封筒を男に差し出した。奪い取るように封筒を荒々しくつかんだ男に野田は深々と頭を下げた。


「よろしくお願いします」


男は鼻を鳴らすと再び印刷機に向かい合った。

野田は、男の背中に向かって再び頭を下げると胸元から真新しいタバコの箱を入口近くの作業台に置いて印刷所を後にした。



印刷所の近くの交差点の信号待ちはこの暑さで無風とくればそれはもう地獄だった。

野田は、スーツの上着を脱いで乱暴に背負っていたリュックサックに詰め込み、ネクタイを緩めた。


「今回はさすがにヤバかった……」


頭を両手でぐしゃぐしゃに掻き乱すと、ちょうど信号が青に変わり音楽が流れた。

疲れた足取りで渡り切り、直帰しようと会社とは反対方向にある繁華街にある駅へと歩みを進めた。

10分程歩くと店が立ち並ぶ道に、地下へと降りる階段が目に入った。

後はいつも通り改札を抜け、電車に乗り、そこから2駅乗り継げば野田が住むレトロなアパートだ。

野田がふと階段の前にある電気屋に目を向けると、ショーウィンドウに様々な大きさのテレビが並べられワイドショーを映していた。

芸能人の不倫か、はたまた事件の検証か、野田が呆れ顏でテレビを見つめるとワイドショーの司会者が興奮した様子でコメンテーターに話しかけていた。


「いや〜、それにしても朝丘二冠が突然の婚約発表とは驚きましたね!」


野田は、次の瞬間疲れきった頭がフル回転するのがわかった。

朝丘 保郁は、 将棋の世界では鬼と呼ばれる笹川 幹太永世名人に師事し、17歳でプロ入りすると齢30で三冠を果たした棋士だ。

彼の将棋スタイルは、ひたすら耐える、という一言に尽きた。あらゆる棋譜を読み込み、思案し、揺さぶられようとも揺るがない。

細く直線的な眉、切れ長の目に淵の黒い眼鏡をかけ、高い鼻に薄い唇、耳周りや襟足にかからないようにカットされた清潔感のある髪型に身長175cm、その上ジムで鍛えた筋肉質の身体。

朝丘特集記事 『将棋界の次代』3ページの写真付きの号は通常の3割増しで売れた。

朝丘はこの特集で、自身が求める将棋を打てれば周りがいくら騒いでいようが関係ないと野田のインタビューで答えてはいたが、連盟はこの人気がある内に将棋をアピールしようと朝丘に各社様々な取材の許可を出した。だが当の朝丘が乗り気ではなく、野田以外の取材を受けようとはしなかった。

野田が朝丘と出会ったのは彼が高校生の頃、野田もまた同じ学校の同じクラスだった。

野田は明るく人好きで楽観的、朝丘は人嫌いで理屈的。

衝突を繰り返しながらもなぜか馬があった2人はそこから長い友人関係を続けていたのだ。


「……とりあえず、電話」


野田は混乱する頭を落ち着かせ、スーツの胸ポケットからスマートフォンを少し震える手で取り出した。

履歴から目当ての番号をリダイヤルすると、朝丘はかかってくることがわかっていたように気だるげな声ですぐに出た。


「……はい」


「朝丘くん、君の自称友人の野田ですけれども、この度は知らない間にご婚約おめでとうございます」


野田の言葉に朝丘は息を吐いて沈黙した。

多少なりとも長年の友人に伝えていなかったことを悔いているのかと嫌味たらしく言ったことを詫びるべきか考えているうちに彼は癖である口を尖らせていた。


「……野田」


野田が口を開く前に朝丘の低い声が小さく名を呼んだ。

野田はこの横柄な男が謝るのかと少し胸が躍った。いつもは悪くても悪くなくても最終的に折れるのは野田だ。

謝罪の言葉を思うと、不謹慎ながら笑みが浮かんでくるのを止めることは出来なかった。

この時ばかりは愛用しているボイスレコーダーを社に置いてきたことを後悔した。その時、ワイドショーのアナウンサーが朝丘の経歴を紹介し始めたのでそれを横目で観ながら朝丘の言葉を待った。

しばらくすると大きなため息が電話口から聞こえた。


「お前……マスメディアにいる割に情報が遅いな」


野田は足元にあった小さな石を思い切り蹴飛ばした。石は跳ねながら車道と歩道を仕切ってあるポールにあたり、キーンと高い音が鳴った。


「今からお前んちに行くから、頭洗って待ってろ!」


しかめっ面で通話ボタンを押すと、そのまま時間を確認した。

16時21分。

あと10分程で野田が乗る電車がやってくる。

野田は勢いよく階段を駆け下りた。 乗るまでに4、5人とすれ違ったが、 帰宅ラッシュの時間にはまだ1時間程あったので楽に電車に乗ることが出来た。


朝丘の家は野田が降りる駅より5つ先で降り、駅に程近いバス停で東南川行きに乗って終点まで行かなければならない。

田んぼの真ん中の小さなバス停に着く頃にはあたりは真っ暗で外灯も所々しかなく、電球が切れたり、点滅しているものもあった。

改札を出て、川沿いの一本道をカエルや虫の声を聞きながらゆっくりと歩く。

近くの雑木林で木々がさわさわと騒いでいる。夜になっても風は暖かく、野田の冷房で冷えた体をまた温める。

空を見上げると星が幾つも輝いている。その輝きに思わず足を止めてしまう。

野田が暮らす周囲には、コンビニや住宅地、飲食店にスーパーと便利で明るいものがたくさんあった。

しかし、今、野田がいる場所には田んぼと幾つかの外灯、雑木林と少し先にわずかに電気のついた20件程の集落だけだ。やはりここは田舎だ、と野田は目を細めた。

突然、強い風が吹いた。

野田が目線を元に戻すと、前から懐中電灯で足元を照らしながらゆっくりとした足取りで向かってくる人物が見えた。

だんだんと近付いてくる人影に心臓が早鐘を打った。


「ねぇ、野田さん?」


「はい?」


野田は思わず飛び跳ねそうになるのを我慢し、上ずった声で応えた。

歩みを止めた野田に女性は近づくと、おもむろに持っていた懐中電灯を顎の下に持って行き、顔を照らした。


「どーも、こんばんは」


女性は、人懐こい笑みを浮かべた。

顔を傾けたので、濡れた肩にかかる二つ結びの髪から水滴が落ちるが肩にかけられたタオルと地面に落ちた。


「こ、こんばんは」


野田にはわかっていた。

この女性は朝丘の婚約者だろうと。

こんな田舎の夜道を最終バスも出た後のバス停に向かって歩いて行く集落の人間はいない。

朝丘の婚約者は、野田には女性というよりもまだ少女に見えた。

白いパーカーの下に赤の英字のロゴ入り白Tシャツと有名メーカーの紺色のハーフパンツ。

アーモンド型の大きな目にスッとした鼻、唇はプックリとしたピンク色だ。化粧はしていないようだが、野田はその儚げで端正な顔立ちに友人があらぬ間違いを犯していないか心配になった。

ワイドショーを最後まで観ていなかった野田にはその少女の年齢はかなり幼く見えたのだ。


「その……いきなり失礼だけど、君はいくつかな?」


野田は目線を彷徨わせながら、出来るだけ優しい声を出した。

少女は大きな目を瞬かせ、大きな声で腹を抱えて笑い出した。

とても豪快な笑い声に、野田の感じた少女の儚げさはどこかに飛んでいった。


「ご、ごめんなさい」


少女は、2回深く深呼吸をするとまた懐中電灯を顎のしたにあて顔を照らした。


「はじめまして、斎藤 灯です。見かけは中学生みたいですが、一応20歳です」


「……は、はたち」


目が点になった野田は、口が半開きのまま灯を見つめた。

灯はクスッと小さく笑うと、懐中電灯で再び道を照らした。


「とりあえず朝丘んちに行きましょ。 このままだと蚊に刺されちゃう」


灯は左足を上げ、白いふくらはぎをパチリと叩いた。



野田が灯と共に朝丘の家に着いたのは21時少し前のことだった。

その家は集落を通る一本道を抜けた外れにあった。川のせせらぎが聞こえる静かな森の中だ。

黒い壁に都会のものより急な屋根、窓枠や玄関ドアは白くコントラストが美しい。家の東側の玄関の鍵を灯が開け、白いドアを引いた。

玄関は白いタイルが天井からのオレンジ色で光り、右側にはダークブラウンの靴箱、正面にはクレヨンで描いた花が額に入れて下げられていた。


「ただいまー」


灯が履いていた健康サンダルを勢いよく脱いで左側の廊下をバタバタと歩いていく。野田はひっくり返って離れ離れになったサンダルを拾い、自分の脱いだ靴の横に並べた。

玄関からみて北側の右手には部屋があるようで、ドアは開けられ赤とオレンジの暖簾が掛けられていた。

野田は灯が歩いていった方へと歩みを進めた。廊下はそれ程長くなく、すぐにドアに突き当たった。そのドアを開けると、フローリングの床に毛足の長い絨毯がひかれ、部屋の真ん中には皿がたくさん並べられさうなローテーブル。テーブルの東側と西側に座布団が置かれている。南側には大きな窓があり、暗い森と少し離れた集落の明かり、輝く星空がそこから見えた。部屋の隅には小型の暖炉が置かれ、そこだけタイルが敷かれ1段高くなっている。部屋の東側には対面式の最新型キッチン、北側には2階へと続く階段があった。


「野田、遅かったな」


「お前、他に言うことはないのか」


キッチンのさらに奥から言葉と共に紺色の浴衣姿の朝丘が現れた。朝丘は思い出したかのように手を打った。野田はごくりと唾を飲み込むと、朝丘に向かい直った。


「先程電話口で頭を洗って待っていろと言ったが、あれは首を洗って待っていろではないか?」


無表情の朝丘が首を傾げた。

野田は、思ってもみない言葉にぽかんと口を開けた。そして、口を真一文字にすると背負っていたリュックサックを乱暴に下ろし、肩掛けの帯を持つと乱暴に朝丘に向けて振り回した。

朝丘は身体を左右に動かして避けようとしているが完全に当たっている。


「何やっての」


呆れたような声が朝丘の後ろから聞こえた。キッチンの奥の食糧倉庫から3本のペットボトルを抱えた灯が野田と朝丘を押し退けてテーブルにそれを置いた。


「野田さん、お茶かアップルジュースか水かお酒、どれにします?」


「えっと……アップルジュースを」


戸惑いながら棒立ちになって答える野田に灯はクスリと笑い手招きした。

朝丘は浴衣の襟を直すとテーブルの西側の座布団へと腰を下ろした。どうやらそこが彼の定位置のようだ。

灯は、野田の隣を通って食器棚からコップを出し氷を入れて黒い盆に乗せ、テーブルへと運んで行く。また戻ってきて、今度は冷蔵庫からあらかじめ用意しておいたのだろう大皿に入った彩豊かな豆腐サラダ、ざるに入った枝豆、ひじきの煮物などを運んで行く。

一方、朝丘は運ばれてきたガラスのコップにアップルジュースを注いでいる。


「野田さんも座って。 今、お皿運びますから」


野田は灯の言うとおりに朝丘の目の前に座り、目の前の男を睨んだ。


「どうゆうことなんだよ」


朝丘が野田の前にコップを置いた。


「簡単に言えば、僕は斎藤くんと結婚する……らしい」


「……はぁ⁉︎」


朝丘の言葉に野田はテーブルを思わず叩いた。野田は米神がピクピクと動くのがわかった。窓の外から聴こえる虫の声が今は煩わしくさえあった。

そこへ小皿と箸、洒落たトングを盆に乗せた灯が溜息をつきながらやってきた。

灯は朝丘の隣に腰を下ろすと、野田に向かい頭を下げ、曇りのない眼差しで話出した。


「簡単に言えばわたしたちは雇い主と雇われボディーガードなんですよ。 わたし、一応短大で幼児教育を学んでて、将棋会館の近くの石永亭ってとこでバイトしてます。 朝丘さんはお得意様でよく会長さんと来てたんですけど、1ヶ月前に将棋会館の前で襲われてる朝丘さんを見て思わず助けちゃったんです」


「誰が?」


「わたしが」


「……相手は小学生とか?」


灯は首を振り、ニッと幼い顔で野田に向かいピースをした。


「相手は、サバイバルナイフ持ってて中肉中背の成人男性」


唖然としている野田に、自らコップに酒を注ぎ、ちびちびと呑んでいた朝丘が言った。


「お前は斎藤くんの姿に信じられないのだろう。だか、彼女は空手の大会で何度も優勝している黒帯有段者だ」


「結構、対武器戦得意なんだぁ」


野田はコップに注がれたアップルジュースを一気に流し込んだ。


「で、それで恋が芽生えたのか?」


「いえ、全然。 わたしは朝丘さんみたいな将棋バカは嫌です」


朝丘は灯の言葉に心外だと言わんばかりに言い返した。


「僕にも選ぶ権利はある」


「待ってくれよ! じゃあ、なんで婚約者って話に?」


灯は再び溜息をついた。


「わたしが助けた後、犯人は逃げちゃったんですけど会長さんがお礼にって高級料亭でご馳走になって。犯人まだ来るかもしれないから1ヶ月くらい朝丘さんを守ってくれないかって言われて」


「そんなもんプロに頼めって言ってやれよ!」


「いやー、困った時はお互い様精神が疼いちゃって……実際わたしも石永亭がリフォームするんで、2ヶ月くらいバイト代もなしじゃお金に困るんで、つい」


灯が気まずそうに顔を伏せて小さくなった。そして、まくし立てるよいに早口で話続けた。


「夏休みとかぶってるし、3食昼寝付きだし。でも、よかったんですけど、雑誌記者に朝丘さん、お付き合いされてるんですか、ウン、結婚するんですか、ウンってな感じで言っちゃって、もー、それから大変で!」


「斎藤くん、仕方がないだろう。 あの時は棋譜に集中していたんだ」


「仕方ないって振り回されてるこっちのことも考えろ!」


灯は悪態をつきながらも、小皿にトマトを多めの豆腐サラダを盛ると朝丘の前に置いた。そして、朝丘はすぐにそれに手をつけ、「美味しい」と本当に小さな声で言った。

灯は嬉しそうに笑い、次の料理を取りにキッチンへと向かった。


「なぁ、朝丘」


野田が枝豆をつまみながら朝丘に強い眼差しを向けた。


「お前、本当は記者の質問解っててわざと答えたろ」


朝丘は手を止め、不敵に笑った。


「どうかな?」


野田は知っていた。朝丘は棋譜を読んでいる時も集中はしているが、他人の気配には敏いのだ。


「ねぇ、何の話?」


無邪気に笑う灯には秘密にしておこうと野田は小さく笑った。






参考:Wikipedia 空手 空手家 棋士



お読み頂いてありがとうございました。作者は将棋、空手には無知です。間違いがありましたら、お教え下さい。

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