転「帰らずの森」
光希と出会って、三日が過ぎた。
あれから、俺は毎日同じように光希に外の世界について、話を聞かせていた。光希は飽きもせず、嬉しそうにその話を聞いていた。
そうやって、光希と話していて、分かったことが幾つかあった。最初に会った時には気づかなかったが、光希は体が弱いようだ。会話をしていてもよく咳き込む事が多いし、外には出たがらない。肌が色白なのは、陽の光に当たっていないためだった。本人は風邪のようなものだと言っていたが、そうではないような気がしてならなかった。
不安に思いつつも、俺は光希に外の世界の事を話し続けていた。いつしか、俺は光希と話すことが楽しいと感じ始めていた。俺の話に眼を爛々と輝かせながら、いつも興味津々で、表情をコロコロと変える光希を見ていて愉しいとすら感じていた。人と話して、こんな気持ちになることなんて初めての事だった。
そして、自分が死のうと考えていた事すら、忘れてしまっていた。死のうという気持ちが薄れていた。それどころか、ずっとこんな日々が続けばいいなんて事すらも考え始める自分がいた。
今日もいつものように、俺は光希のいる部屋へ訪ねていく。
部屋に入ると、いつも通り光希は揺り椅子に座り、目を閉じて、椅子を前後に揺らしていた。そして、俺が入ってきた事に気づくと、目を開け、優しく微笑んだ。その微笑みは天使か何かと見間違う程だった。
「やあ、おはよう」
「あ、ああ、おはよう」
気のせいか、今日の光希の顔はいつも以上に色白に思えた。電気がきてないこの館では、光の加減でそう思えるだけかもしれないが……。
「なんだ? お前、体調良くないのか?」
「え? なんで? そんな事ないよ?」
「そ、そうか……ならいいんだ」
どうやら、俺の気のせいだったらしい。光希は不思議そうな顔を向けてくるだけで、いつも通りだった。
「それで? 今日はどうするんだ? また、外の話が聞きたいのか?」
「うん! 聞かせてよ!」
「はぁ……お前、飽きもせず、よく俺の話なんて聞いてられるなぁ?」
「飽きないよ! だって、悠軌の話、面白いもん!」
その面白いって言うのが、なんとも不思議で仕方ないのだが……。
「仕方ねぇなぁ……話してやるか」
「うんうん! そうこなくっちゃ!」
光希はいつものように眼を爛々と輝かせ始める。
「それで? 今日は何について知りたいんだ?」
「えっとね……昨日、ちらっと言ってた〝大学〟っていうのは知りたいな」
「大学か……分かった。じゃあ、話すぞ」
「うん!」
「大学っていうのは、大体十八歳以上の人間が、色々な事を勉強したり、研究したりする場所だ。学校みたいなものだ。あ、学校ってのは分かるよな?」
「うん、それくらいは知ってるよ。行ったことはないけどね」
「行ったことはない? じゃあ、どうやって文字の読み書きとかを覚えた?」
「え? 随分前にパパとママに教えてもらったんだよ」
「そ、そうか……」
俺は少しだけ驚いていた。光希が学校に行ったことがないという事ではない。こいつが自分の両親について触れた事にだ。
この三日間、光希は自分の事は語ろうとはしなかった。もちろん、自分の両親についてもだ。一人でこの洋館に住んでいる事からも、何か特別な事情があり、話したくはないのだと思っていたが……。
「なぁ、お前の両親って、今どこにいるんだ?」
その質問は純粋に興味本位から出たものだった。こんな子供が本当に今まで一人で生きてきたとは考えにくい。両親がどこかにいるはずだ。
だが、その質問に光希は一瞬表情を曇らせた。
「なんだよ? やっぱり、話せない事なのか?」
「う、ううん、そんな事は……ケホ!ケホ!」
言いかけた時に、光希は突然咳き込み出した。
「お、おい。大丈夫か?」
「う、うん。だ、だいじょう……ケホケホ!」
「お、おい!」
光希は激しく咳き込み、椅子から滑り落ちて、倒れた。
「だ、大丈夫か!?」
俺は慌てて、光希を抱き起こす。
「ハァハァ……だ、大丈夫、だよ。い、いつもの、ことだから、し、心配しない……ケホケホ!」
言いながら、再び激しく咳き込む光希。どう見ても大丈夫そうには見えない。
やはり、光希はただの風邪なんかではなかったのだ。きっと何かの病気にかかっている。
「何が大丈夫だよ、バカやろう!」
自然に体が動いていた。俺は光希を背負うようにして、洋館を飛び出していた。
「ちょ、ちょっと、何をする気だい!?」
慌てる光希。突然、背負われて外に連れて行かれた事に驚いているよだった。
「何って、お前を医者につれて行くに決まってるだろ! この森の抜けて、病院に行くんだよ!」
「む、無理だよ、そんなの!?」
「はぁ? 何言ってんだ! 入って来れたんだから、出ることだってできるだろ? 心配すんな! 太陽も出てて、方向だけは分かるから何とかなるよ」
「む、無理だ……いや、無駄だよ」
「え?」
その光希の声は、今までに聞いたことない暗く曇った声だった。
〝無駄〟ってどういうことだ?
「〝信じる心〟を取り戻してない君は、この森を抜けることはできない」
「は? お、お前……何を言ってんだ?」
「ここは、そういう森なんだよ」
そう告げる光希の声。その声に俺は背筋が凍る思いがした。その声は、俺に背負われている光希のもののはずなのに、天高くから言われているような気がした……。
「ば、馬鹿言うな! そんな事、信じられるわけねーだろ!」
俺は頭を振り、光希の言葉を否定した。否定するしかなかった。そんな事、信じられるわけないと……。
そして、再び走り出した。光希を背負ったまま、森の中を突っ切った。
どれくらい走っただろうか?
一心不乱に走っていたため、時間感覚がなくなっていた。だが、そのおかげで疲労感はなく、走り続けられた。そして、走り続けた俺の目の前に、開けた場所が見えてきた。俺は森から抜けられた思った。
「ほら、見ろ! 森から抜け出せないなんて事あるわけないだろ!」
背負っている光希に、俺は笑顔を作ってそう言ってやった。
だが、光希は暗い表情のままだった。
「ごめん」
「え? 何だよ突然? ほら、もうすぐ外だ。すぐに病院につれてって――――」
言い掛けて、俺は愕然とした。開けた場所に出て、すぐに俺はその見覚えのある建物に目がいったからだ。
「そ、そんな……嘘、だろ?」
俺の目の前にあったのは、さっきまで俺と光希がいた洋館だった。
「な、なんで……」
「だから、言っただろ? 君はこの森は抜けられないって……」
青白い顔した光希が微笑みながら、そう言った。それが、俺には奇妙に映った。
「ば、馬鹿言うなよ! きっとこれは、ただ単に道を間違えただけだ! そうだ! 道を間違えたんだよ! 別の道を使えば、きっと外に出れる!!」
自分に言い聞かせるように、俺は叫ぶように言っていた。出られないはずはないと。そんな馬鹿な事はあり得るはずがないと。
そうして、俺は再び森の中を、先程とは別の道を使って走り出した。だが、今度は幾分も行かずして、元の洋館がある場所に戻ってきてしまった。
「な、なんで……」
何度試しても……。
「どうして……」
幾ら走っても……。
「嘘、だ……」
元の場所に戻される。
「ねぇ……もう、やめようよ、悠軌。もう分かっただろ?」
俺の後ろで、いまだ青白い顔した光希が微笑みながら、そう言った。
「っ!!」
その光希の顔を見た瞬間、俺は怖ろしくなってしまった。その微笑みがまるで悪魔の微笑みのように思えてならなかった。
そうだ。何故今まで疑問に思わなかった。この森には、子供が一人で暮らしていけるようなものなんて何もない。飲む物も食べる物だって何もなかった。にも関わらず、俺がこの洋館を訪れた時には、食事が用意されていた。一体どうやって? 一体誰が?
それに、子供が一人が生きていけるわけがないんだ。それを光希は、一人で暮らしてきたと語っていた。長い間、森の外には出たことがないとも。そんなのありえないだろう?
そして、抜け出せない森……。
全てが不自然だ。それを当たり前のようにしている光希。それを疑わなかった俺。何もかもが。いや、もしかすると俺は疑うことをさせてもらえてなかったのではないか――――。
もしかすると、光希は――――。
一瞬、身震いがした。そう考えただけで、後ろに背負っているものを払い落として、早く遠ざかりたいと思えた。
だが、それだけはしてはならない。そんな事をすれば、何が起こるかわからない。
俺は洋館の前で、そっと光希を降ろした。
「悠軌、どうしたの?」
光希は不思議そうな眼でこちらを見つめてくる。
「こ、此処にいろ。お前を背負ってたんじゃあ、上手く走れない。大丈夫だ、心配するな! 必ず森を抜けて、医者を連れてくる! それまで辛抱してろよ!!」
俺はそれだけを言い残し、光希に背を向けて、全速力で走った。まるで、光希から逃げ出すように。いや、実際に逃げている。早く逃げ出したくてたまらなかった。
「待って! 悠軌! 行っちゃダメだ!」
後ろで光希が何かを叫んでいる。
振り向いてはダメだ。耳を貸してはならない。今はただ早くアレから遠ざかるだけの事を考え、全速力で走るのみだ。
そうして、俺は光希のもとから逃げ出した。
それからというもの、森の中をさまよい歩いた。幸い、すぐに洋館に戻されるなんてことはなかった。どうやら、光希がいなければ、戻されるなんて事はないらしい。
よかった。これで森の外に出られる。そんな風に安易に思っていた。だが、それは間違いだった。この樹海が〝帰らずの森〟と呼ばれている事を忘れていた。〝帰らずの森〟なんて呼ばれている理由、それは入った者は二度と出てくることない事から、そう呼ばれているのだ。
俺は森から抜け出す事はできず、たださまよい歩いた。歩いて歩いて、歩き続けた。
そして――――俺は歩き疲れ、心が折れそうになってしまった。
「ダメだ……出られない……やっぱり、ダメなのか。あいつの言うとおり、俺はこの森から出ることが出来ないんだ……」
絶望にも似た気持ち。辺りを見渡しても、既に夜なのか陽の光は入って来ず、暗闇に閉ざされてしまっていた。その暗闇に、恐怖だけが募っていく。
「ダメだ……このままじゃ……」
死ぬ――――。
死――――初めて、死を実感した瞬間だった。それと同時にその恐怖をも知った瞬間であった。
おかしな話だ。死を覚悟してこの森に足を踏み入れたというのに、今はその死を恐れている。
「はは……なんだ。俺の覚悟ってこんな薄っぺらいものだったんだ。なんて……なんて情けない」
涙が出てくる。死への恐怖から、それとも自分が情けなくてからなのか分からない。ただ、とめどなく涙が溢れてきた。
そんな時、ふと光希の顔が思い出された。あいつの屈託もない笑顔と天使のような微笑みが。
そうだ――――あいつの所に戻れば、この恐怖からも解放されるかもしれない。
何故、そう思ったのかもすら分からないが、俺は洋館を目指して走り出していた。
冷静になって考えてみれば、光希が俺に何かするとは考えにくかった。たとえ、あいつが人間でなかったとしても、俺に何かするのであれば、とっくにしていたはずだ。それを三日間も寝床を与え、ただ話し相手になっていただけだ。
もし、俺をこの森に閉じこめているのが光希ならば、話せば分かってもらえるかもしれない。
そんな淡い期待を持って、俺は洋館を求め、暗闇の中を走り続けた。
そして――――俺が初めて訪れた時のように、光が射し込む開けた場所が目に飛び込んでくる。ただ、あの時と違うのは、その光が陽の光ではなく、月明かりだという事だけだ。
開けた場所に出ると、飛び出した時と変わらずの姿で洋館が佇んでいた。
やった――――戻って来れた――――。
俺は歓喜した。やっと暗闇の恐怖から解放された事と、もしかすると森の外に出してもらえるかもしれない期待から。
だが、俺の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。
「そ、そんな……」
洋館の前で、光希は倒れていた。