始まり
大学に入ってから二年目の夏、八月の二十日。
じぶんは登山道を歩いていた。木々に囲まれた山道は、夏であっても涼しかった。熱い日差しは、葉に遮られ、じぶんのところまではとどかない。むしろ、山道から少し離れたところを流れる小川のせせらぎが、蒸し暑さとはかけ離れた心地良さを提供してくれていた。
加賀 亮一という変な男を先頭に、晴れ女の矢島 春香、物静かな水沢 あやせ。そしてわたくし小野ヶ谷 和人。妙な取り合わせで山の中腹にあるビアガーデンを目指して山道を登っていた。
本当に「妙」という言葉がよくあてはまる4人だ。というのも、この4人はクラスこそ同じものの、学校で別段仲良くしているわけでもないのだ。いわゆる顔見知り程度の間柄である。そんな4人がこうして一緒に山を登っている光景は、少し前のじぶんには、想像もつかないことだった。
「坂道は大丈夫ですか」
じぶんは、少し後ろを歩く2人の女子を振り返って声をかけた。
「うん、大丈夫。そういう小野ヶ谷くんの方がつらそうだけど、大丈夫?」
矢島さんは笑顔で返した。 隣を歩く水沢さんも笑顔を浮かべ、無言で同調してみせる。
2人に疲れた様子はなく、汗も大してかいていない。とかく苦しんでいるのは、じぶんだけのようだった。実は、所詮東京の山だと舐めてかかっていたのだが、予想に反して坂道が急だったのだ。
「おぅい、だーいじょうぶかあー」
突然の大声に、3人はビクリと足を止めた。坂の上を見上げると、20メートルほども離れたところから、赤い服を着た加賀が大きく手を振っていた。人があまりいないから良いものの、デリカシイがないにも程がある。
「だーいじょおーぶ」
矢島さんが楽しそうに大声を出して応える。
「そぉーかー」
加賀は満足げに答えると、またかぱかぱと足音を立てて前へ前へと進んでいった。
呆れるというよりも少々、恥ずかしい。阿呆のような光景を前にじぶんは苦笑いをしながら、様子を見るように水沢さんの表情にもふと視線を移す。
水沢さんは、声をだして笑うようなことこそなけれど、どこか楽しそうだった。じぶんは、その表情に緩く安堵する。
「じゃあ加賀がうるさいし、ちょっと急ごうか」
元気の有り余っているらしい矢島さんは、にこやかに言う。
水沢さんは小さく「うん」とだけ答えた。
それならば、おれもまだへばることはできない。額にうかんだ汗を袖で拭い「よし」と己を鼓舞すると、大股で歩みを前へとすすめる。
まるで青春を謳歌しているかのような光景だった。
ついこの間まで、スケジュール帳には何も予定の書かれていなかったじぶんなのに、だ。
もしかしたら、楽しい大学生活を送る人々にとってなら、夏休みとは、それだけで一つの大きなイベントなのかもしれない。
ただ、全員が充実した生活を送っているわけではない。
じぶんのような人間だ。
根暗から抜け出すことのできないやつらもいるのだ。テレビとか漫画とか、映画とか、小説とか。そういった舞台で演じられる物語を、じぶんもできるはずと布団の中で夢に見て、結果はうまくいかないああ嫌になると、愚痴をぶつぶつつぶやいて。
結局のところ物語はフィクションであり、実在の人物及び団体とは一切関係がありません、だ。
だから今、登山道を歩く自分が少し信じられない気持ちがあった。舞台の上に、じぶんが立っているのだから。
予想以上の坂道に心が折れたのか、弱弱しい思いが頭にこびりつく。煩悩にぐらりぐらり揺られていると、後ろを歩く矢島さんにつつかれた。
「ねぇねぇ、ビアガーデンってどんなところなのかなあ」
茶髪のポニーテールが揺れる様子は、どこか子犬のようだ。実際は、じぶんと大して変わらない、背の高い女の子だが。サバサバした性格で、クラスでもよく目立つ女子である。たしか、テニスサークルに所属していると聞いたことがある。
「実はじぶんも行ったことがないので、どんな風かはよく知らないです」
「そうなんだ、あんまり女の子同士でビアガーデンに行くってことないからさ。男の子だったらわかるかなあって」
じぶんにとって、少し心に刺さるコトバではあった。下手な動揺をしないように、ちょっと考えるようにしてコトバを選ぶ。
「そうですね。女の子同士で行くイメージはないですね」
「『ビール飲み放題』なのかな」
「矢島さんは、ビール好きですか」
「好きー! 夏の運動したあとなんて最高だよ」
「そうですか」じぶんは、矢島さんのテンションに合わせられる自身もなく、あやふやな笑顔でやりすごす。「水沢さんは、ビール好きですか」
「わたし……たくさんは飲めない、かな」
水沢さんは矢島さんとは対照的な雰囲気の女の子であった。身長はじぶんの肩くらいまでしかない。黒い髪を短く切りそろえている。物静かで、実を言うと、今日こうして一緒に山を登るまでは、あまり存在を知らない女の子だった。
「へー、もしかしてサークルとかでもあんまり飲まない?」
「うん。けど、あんまりサークルも、飲み会多くないから、大丈夫」
「そうなんだ。えっ、で、なんのサークル入ってるの?」
矢島さんに聞かれると、水沢さんは少しうつむき、なぜか少し間があった。
「……映研」
小さな声でそう答えた。
「映研なんだ! すごいじゃん。映研でなにやってるの? 演技とかしてるの?」
矢島さんが矢継ぎ早にそう訊くと、水沢さんは、さらに小さなか細い声で絞り出すように答える。
「……」
「えっ?」
一寸本当に聞き取れなかった。
「……写真を撮ってる」
映研で?
映研とは、ほかならぬ映画研究会のことである。つまり映画を撮っているサークルである。その映研で水沢さんは映画ではなく写真を撮っているらしい。
「へぇ、そうなんだ。すごいね、なんか」
何がすごいのかはよくわからないが、とりあえず口にしてみたという風な調子で、矢島さんはあいづちを打つ。
「小野ヶ谷くんは? 何かサークル入ってるの?」
矢島さんは優しいことにじぶんに話題を振ってくれた。
「いえ、その、何もサークル入ってないです」
「えっ、そうなの?」
「その、なんか、いいやと思いまして」
じぶんにとって自慢することではないのだが、なぜかコトバが誇らしげな響きを持っている。
「楽しいよサークルは」
「テニスサークル入ってるんでしたっけ。矢島さんは」
「うんそうだよ。トップスピンっていうところ」
「元気そうな名前ですね」
「かなとか、梶くんとかとも同じだよ」
「ごめん、誰ですかそれ」
「紀尾井佳奈と梶康広。同じクラスだよ。」
「やっぱりわからないですね」
「小野ヶ谷くん、しっかりー」
他愛のない話ばかりを続けていると、斜面がだんだんなだらかな調子になってきた。急なうちは、身体を前に折るようにして登っていたのに、いつの間にか笑いながらでも話せるくらいに足下はゆるやかになった。
時折、木の株に腰掛けて休憩する人の前を通った。じぶんも適当な場所を見つけて休憩したかったが、女の子二人に疲れた調子も見られないのに「休もう」などと言い出すのは情けなくて出来なかった。加賀にいたっては、もうどの背中が加賀のものかわからないくらいに先へ進んでいる。
残念ではあるが、半日でも余裕をもって上り下りできる山なので、ビアガーデンもさほど遠くないはずだ。
そう割り切ると、少し足が軽くなった気がした。




