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救済の対価  作者: 藤 晦朔


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05. 破綻

「……それは、法学の理念を数式に変換するなどという高尚(こうしょう)な話ではない。初歩的な定義域の設定ミス、さらに言えば、公理系の破壊だ。


まず、日本語の標準作業手順書を一階述語論理に落とし込むことに問題がある。自然言語から形式言語への同型な写像は存在しない。文脈依存性を無視して強行すれば、それは単なるカテゴリー・エラーに過ぎない。


それに、このリアルタイム全件精査だ。計算量爆発以前に、理論的に詰んでいる。ライスの定理を知っているか? 『あるプログラムが特定の仕様を満たす』という非自明な意味論的性質を判定するアルゴリズムは、数学的に存在しないんだ。つまり、君が作ろうとしているのは、停止性問題を無視した『矛盾した機械』なんだ。


加えて、モデル検査の限界だ。君のシステムがどれほど堅牢(けんろう)だろうと、真とも偽とも証明できない決定不能な領域が、測度ゼロではなく確実に発生する。全件精査なんて試みれば、状態爆発を起こして計算が止まるか、フリーズするだけだ。その『計算不能によるタイムアウト』こそが、不正を働くためのバックドアになり得るんだ。


結論を言おう。君の理想のシステムは、数学的に解なしだ。完璧を求める限り、努力や資金力で解決可能なステージにはたどり着けないよ」


 データの入力、処理、出力。すべてのプロセスにおいて、数学的に不可能だと告げられた。この男は、大学入学以来の友人であり、未だに入試の得点を俎上(そじょう)に載せるような性格である。


 僕とは違って、博士号を取得したが、建前を嫌う性格が(わざわ)いして、国内の企業からは一つも内定を獲得できなかった。(ひるがえ)って、アメリカ企業を相手に就活したところ、――僕としては認めたくないが――、同世代平均の二倍近く稼いでいた僕の、さらに十倍ほどの基本給を提示されたという。


 彼は、博士論文の公聴会を終えるなり渡米し、今はニューヨークからビデオチャットを(つな)いでいる。僕のAegis(イージス) Speculum(スペキュラム)の構想について、意見が欲しいとメールを送ったところ、すぐに連絡をくれたのだ。


「いや、数学的完全性を求められるほど、AI技術が発展しているとは思っていないさ。最新のニューロシンボリックAIと有界モデル検査で十分だよ。現段階では、完全な写像は要らないんだ。LLMが文脈を蒸留して、有限の領域で局所解を出せば済む話だからね」


 法学しか修めていない僕が、何故このような専門知識を持っているかと言えば、大学院で知能システムを研究していた友人に昨夜アドバイスを貰ったためである。『理論的には十分可能である』との返答に併せて、『君とロクタと僕の三人で、近いうちにニューヨークへ行こうぜ』などという誘いもあった。


「なるほど。数学的厳密性を捨てて工学的近似に逃げたか。だが、その妥協は、監査システムとしての完全性を捨て去る行いだ。まずは、LLMによる蒸留だ。君は九九・九九パーセントの精度と言うが、悪意は、残りの〇・〇一パーセントにこそ偏在するんだ。それに、自然言語から形式言語への写像が同型でない限り、それは()()に基づく監査ではなく、AIがつくり出した規程()()()()()に基づく監査を行っているに過ぎない。そのわずかな意味(セマンティック)のズレ(・ギャップ)こそが、悪意の潜む(すき)になる。


加えて、有界モデル検査の『有界』という限界だ。君は、k()ステップまで潔白ならそれで構わないと言う。しかし、監査とは整合性パズルではなく、敵対的ゲームだろう? 攻撃者が狙う領域は、『探索効率のために捨てたパス』や、『計算能力の制約により存在するk()+()1()ステップ目』だ。これが意味することは、確実な保証ではなく、有限の楽観だよ。


つまり、君は恣意性の排除を(うた)うが、その実態は、AIの学習データ偏在やモデルの近似誤差という、検証不能かつ不可視な恣意性をシステムの中枢(ちゅうすう)に埋め込んでいるんだ。君が開発しようとしているのは、無謬(むびゅう)の監査システムではなく、不正をブラックボックスで覆い隠すシステムだ」


 その歯に衣着せぬ物言いは、この男が信頼できる証左(しょうさ)であり、最大の魅力でもある。それでも、こと人間関係においては、やはり感情が主体となるものだ。


 僕は、意味をなす反論が浮かんで来なかった。合理性の権化(ごんげ)である彼は、近況を伝えることもなく、Aegis(イージス) Speculum(スペキュラム)の実現可能性に係る結論は出たとして、ビデオチャットを切断した。


 僕は、語義が一意に定まるような、論理的正確性を突き詰めた語彙(ごい)脳裡(のうり)から押し流した。その由来をフランス語、ラテン語、ギリシャ語へと(さかのぼ)り、知識の限界に達したところで、漢語に切り替える。そして、和語を通して、ようやく現代日本語へと思考回路が置き換わった。


 幾分(いくぶん)か落ち着きが戻る。まずはアドバイスについて、お礼のメールを送らねばなるまい。せっかく切り替えたばかりだ、内容は日本語で構わないか。


 そして、ついぞ行くつもりはなかったが、一階のカフェを(のぞ)いてみよう。コーヒーを飲みながら、不完全性の許容範囲について、考えをまとめるのも良いだろう。いくらか浪費してしまうが、気分転換の対価としてはやむを得まい。


 汗を吸った洋服を脱ぎ、洗濯機へと放り込む。ふと、洗濯機の周囲に溜まるほこりが気になった。これが排熱に影響して、食洗機のように壊れたら洒落にならないな。壁との隙間がモップの幅より狭いため、一度、洗濯機を移動する必要がありそうだ。まあ、壊れる可能性を考えれば、大したことのない作業である。


 洗濯機は想像よりずっと重かったが、左右に揺らし、その勢いを利用しつつ、どうにか右手前に移動できた。手早く掃除を済ませる。戻すときは、ホースの()わりが悪いのか、なかなか手間が掛かったが、程なくして元通りになった。そして、軽くシャワーを浴びて、使ったタオルと共に、洗濯をスタートさせた。この分では、カフェから帰ってくる頃には終わっているだろう。適当な洋服を着て、ジャケットを羽織(はお)る。


 眼下の道には、ちらほらと和装が見えた。……ニューヨークは夜景だったが、ここはもう昼なのか。それにしても初詣(はつもうで)だろうか。いや、僕には関係のない行事だな。


 一階のカフェに行くだけだから、コートは要らない。財布と鍵の束を上着のポケットに収め、ノートパソコンを小脇に抱える。玄関でホームセキュリティーを不在にセットし、靴を履いて外に出た。先にエレベーターの呼び出しボタンを押し、少し戻って、玄関ドアの鍵を締めた。


 十秒ほどで到着したエレベーターに乗り込み、行き先ボタンの一階を押す。他の利用者に会うこともなく、ビルから出た。そして大通りに面した入口へと回り、カフェに入る。


「あっ、いらっしゃいませ! やっと来てくださったんですね」


 頭の悪そうな言葉遣いを聞き流しながら、ソファーへ案内される。彼女のネームプレートには、店長:Chihiroと書いてあった。早朝にビルを出入りすると、店の前を掃除する彼女によく出会う。そして、僕が外出するとき、部屋の窓から下を(うかが)うことは、すぐに習慣と化した。彼女が外にいなければ、挨拶も不要となるのだ。


「本日のおすすめは、こちらのTODAY'S(本日の)プレートです!」


 それは……、当たり前じゃないか? 同語反復(トートロジー)的ナンセンスな説明に、思考のギアが空転(くうてん)する。張り詰めた糸が(ゆる)み、思わず笑みがこぼれる。


「甘いもののお(すす)めは、何かありますか?」


「わたしは甘いチーズが苦手だから、ブルーベリーマフィンかバターシュガークレープが美味しくて、おすすめです!」


 店のお薦めを尋ねて、個人的な好き嫌いによる消去法が返ってきた。バスクチーズケーキを候補から外すことで、何かを遠回しに嫌いだと言っているのだろうか……? バスクチーズケーキ、つまりタルタ・デ・ケソは、確か数十年前に考案された新しい菓子だったはずだ。これは、私を建前ばかり立派な新参者だと(ののし)っている可能性があるな。


 フードメニューは、ドリアやガレット、サンドウィッチ等、いずれも千三百円前後だった。スイーツやドリンクは、七百円ほどだ。店内は空いており、さほど気を(つか)わずに滞在できそうである。TODAY'Sプレートの注文要否は後で考えるとして、取り敢えずは、マフィンとカプチーノを頼むことにした。


「はい! 五分ほどかかりますので、ごゆっくりお待ちください」


 新緑色のエプロンと、ブルーアッシュの髪を揺らしてカウンターに戻って行く。厨房(ちゅうぼう)に注文内容を伝え、自身はグラインダーで()いたコーヒー豆を詰め、手慣れた様子で、金属光沢を放つエスプレッソマシンにセットしていた。ミルクをステンレスのピッチャーに注ぐと、すぐにスチームの断続的な音が聞こえた。高温の蒸気でミルクを加熱すると同時に、泡立てているのである。


 それから何分もしない内に、完成したカプチーノが運ばれてきた。カップの中には、店名にもなっている鳥の姿が描かれている。続いてマフィンがテーブルの上に置かれた。カプチーノを一口のみ、フォークでマフィンも食べる。……熱い油脂が口蓋(こうがい)に張り付いた。もう少し待ってから食べたほうが良さそうだ。


 ノートパソコンを開き、先ほどのビデオチャットのログを見返す。ロクタと僕は学部卒業と同時に大学を離れたが、今回相談した二人は、情報理工の博士課程まで行っている。僕らの専攻は異なるものの、四年間キャンパスが同じだったこともあり、気の置けない仲となっていた。


 そして、次第に専門知識への理解が不足して、会話が噛み合わなくなったため、特に今回のようなビデオチャットでは、AIによる書き起こしと、リアルタイムの解説が不可欠となっていた。口に残るミルクの甘さを感じつつ、先ほどの数百行に及ぶログを精読する。



 ……どうやら、加害の目的をもって、システムの隙を利用したとき、あろうことか、Aegis(イージス) Speculum(スペキュラム)は加害者の潔白を保証してしまうらしい。無論、高度な専門知識は必要だが、Aegis(イージス) Speculum(スペキュラム)を市場で広く普及させることを想定すれば、その可能性は決して無視できるものではない。(わず)か〇・〇一パーセントの隙でも残せば、それを探し出して悪用されてしまう。しかし、精度を百パーセントに上げることは、数学的に不可能なのだ。


 メールが届いていた。『完成を楽しみにしている、またいつでも力を貸す』といった内容だ。『今度みんなでニューヨークに行くから、その時は案内を頼む』と返す。収入のない僕が、海外旅行へ行けるのはいつになるだろうか。それでも、学生時代を思い出せば、懐かしい記憶が蘇る。


 ソファに身を預け、少しずつ基礎理論を書き進める。元来、これは無職期間の言い訳に使うだけのものだ。本気で製品化できるとは思っていない。理想こそ確かだが、実現するには妥協や大金が必要なことは、指摘されるまでもなく理解していた。


 カフェの客席が徐々に埋まり始めた頃、突如としてスマートフォンから着信音が聞こえた。発信番号に覚えはないが、応答ボタンを押す。内容は、簡単な本人確認と、ホームセキュリティーが異常を検知したとのことだった。家を出るとき、間違いなく()()にセットしたはずだ。そして、僕は外にいる。つまり、誰かが家に侵入したということだ。……ロクタだろうか? いや、ロクタなら構わないが、さすがに連絡の一つは寄越すだろう。


 覚えがないので、出動を依頼する。すぐに来てくれるらしいが、僕は同じビルにいるのだ。家に入るかは別として、取り敢えず様子を見に行くべきだろう。いや、相手が武装しているなら、エレベーターで鉢合わせすると危ないか? いやいや、そもそもエレベーターの鍵を持っていなければ、最上階には行けないはずである。


 PCを閉じ、手早く会計を済ませる。早足に店を出て、すぐにビルに入る。作業服を着た、見慣れない者が数人いる。エレベーターが一階にいたので、すぐに乗り込み、鍵を差して何度もボタンを押す。


 心臓が早鐘を打ち、息が乱れる中、目的階にエレベーターが到着し、扉が開いた。その先では、自宅の玄関ドアが開け放たれ、一階にもいた作業服や、管理会社の名前が入った服が見えた。ドアの向こうに見える床は、水浸しだった。一人がこちらに気付き、僕に声を掛ける。


「こちらにお住まいの方ですか?」


 事情を聞けば、四階のエステサロンで、天井から水が流れ落ちてきたらしい。上の階の所有者に連絡するも、電話に出ず、至急と判断して解錠に至ったそうだ。そして、部屋の中を確認したところ、洗濯機からの漏水が確認された、という顛末(てんまつ)だった。


 きちんと私の連絡先を教えたはずだ、とか、管理会社に挨拶したのだから、通話履歴をたどれるだろう、どうして私に電話しなかったんだ! などと罵声を浴びせたい衝動に駆られる。しかし、今回は私が加害者の可能性が高い。心証を悪化させることは(げん)(つつし)むべきだ。


 もし、エステサロンが営業できない場合は、その営業補償が必要となる。漏水により機材が故障した場合は、その補償も必要だ。通常は火災保険で対応できるが、……保険? 保険か? 通常の賃貸借契約であれば、仲介業者が半ば強制的に加入させるものである。鍵の引き渡し条件と言ってもいい。だが、この部屋は違う。 嫌な予感がした。あの使用貸借契約書を思い出す。


 僕が無理を通して、ロクタにお願いしたものだ。司法書士が十万円で作成した文書は、ロクタや僕の要望に沿った、特注の契約内容だ。当然、一言一句に至るまで、僕は目を通している。居住に係る費用の負担について、きっちりと盛り込んであったはずだ。それが目的であるからだ。しかし、ロクタと僕の二人の間の契約でしかない。第三者といえば、管理会社は入っていたが、ホームセキュリティーは抜け落ちていた。……あの文面に『乙は火災保険に加入しなければならない』という条文は含まれていただろうか? 


 電気ガス水道、ホームセキュリティーの契約は確かに済んでいる。請求が来るものは全て払った。 だが、請求が来ないものはどうだ? 私が申込書を記入しない限り、私の居住する物件の保険契約は発生しない。自明の理である。……そして、保険会社と契約した覚えは、本当にあるか? 記憶を探れば探るほど、あるべき契約の非存在が確実性を増す。


 エステサロンの売り上げは一日いくらだ? どんな機材を使っているんだ? 医療機器だとすれば何百万、何千万円だろうか? 内装はいくらだ? 原状復帰に何日かかる? いや、まずは弁護士に相談すべきか? それとも水道業者か? ……ああっ、ロクタに電話すべきか。


 ロクタ、頼むロクタ、早く、早く電話に出てくれ――。

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