03. 落伍
玉ねぎを飴色に炒める代わりに、冷凍庫からオニオンソテーとオニオンスライスを一キログラムずつ取り出した。買ってきたばかりの既製品である。電子レンジで解凍する間、フライパンで豚肉を炒める。
キッチンには、初めから調理器具や食器が収納されていた。どれも飾り気が少なく、ロクタによれば食洗機に入れて問題ないらしい。食器やカトラリーは、それぞれ半ダース単位で食器棚に入っており、調理器具は圧力鍋や低温調理器、フードプロセッサーやエスプレッソマシンまでもが保管されていた。
火の通った豚肉二キログラムを、一番大きいステンレスの寸胴鍋に入れる。琺瑯の鍋はそこまで大きくないため、今回は使わなかった。二台の電子レンジから、オニオンソテーとオニオンスライスを取り出し、鍋に移す。顆粒だしとミックススパイスを振りかけ、最後に具材が浸るまで野菜ジュースを注いだ。
一日分の野菜を摂れるジュースを入れると、カレーを食べるだけで必要なビタミン類を摂れるはずである。加熱で失われるものもあるが……。味付けは、ホワイトシチューかカレーで迷ったが、スパイスがたくさん入っていれば飽きないだろうとカレーにした。なお、手間が増えるため両方という選択肢はなかった。
長時間煮込むことで、何か味が変わるのだろうか? と考えながら、二十分ほど加熱する。そして、カレーフレークを一キログラム投入し、フレークの油脂に早く熱が伝わるようにかき混ぜる。卸売のスーパーでは、カレー粉とフレークのどちらにするか迷ったが、既に小麦粉が入っているというフレークを購入した。
およそ五十皿分のカレーが出来る予定だが、これらは小分けして冷凍庫で保管するつもりだ。厚生労働省のウェブサイトを確認したところ、煮込み料理の保存では、急速に粗熱を取り除くことが重要だとわかった。しかし、この何でも置いてあるキッチンでも、流石にブラストチラーは置いていなかった。
代替方法としては、ステンレスバットのような平たい容器で冷ますことが挙げられるが、今回の分量を入れるには複数の容器を用意する必要がある。これまでに包丁ひとつさえ使っていないが、少し疲れてきたし、鍋ごと水冷すれば良いか。
ディスポーザーの付いていないほうのシンクに水を溜め、その中に重い鍋を置く。鍋の中身をかき混ぜていれば、粗熱も早々に取れるだろう。とはいえ、温度計の表示を見続けるのも少し飽きてくる。腕も痛くなってきた。気分転換に、一階の郵便受けを覗きに行こうか。
さっそく鍵一式を持ち、玄関を出た。時刻は二十一時過ぎである。下の店は、どこも閉まっている時分だ。郵便受けまでなら、外部の人と会うことも無いだろう。
起業を理由に退職したため、不用意に出歩き、見知った人と出くわすと都合が悪い。一応、経歴のブランク期間を埋めるために、カモフラージュとなる合同会社は準備した。登録免許税や法人の印鑑などに八万円ほど掛かったが、これで退職理由がまるきりの嘘ではなくなった。資本金として法人口座に十万円を入金したが、これはビジネスを動かすときに使える、現時点の予算である。いずれも将来の再就職のためだと思えば、決して高い金額ではない。
一階の通用口に向かう。郵便受けには先客がいた。三十代後半に見える女性で、シニヨンヘアに濃紺のチュニックとパンツである。もしかすると歯科医院のスクラブかもしれないが、いずれにせよ、彼女の目の奥に垣間見える、その圧倒的な知性に怯んでしまった。固まる僕に向け、深みのある声が掛けられる。
「こんばんは」
彼女がちらりと五階用の郵便受けを見る。そこに差し込まれた新しい名札は、僕のものだった。
「ひょっとして、五階の新しい方ですか?」
「は、はい。ご挨拶が遅れ失礼しました。先ほど鍵を受け取ったばかりでして……」
緊張のあまり、名乗る前に言い訳をしてしまう。微笑みとともに目の前に差し出された名刺には、エステティックサロン店長、京子と書いてあった。このビルの四階に入居しているらしい。
「先週、会社設立の登記を済ませたばかりでして、まだ名刺の準備が……」
「いえ、起業したばかりと言ったらお忙しい時期でしょうに、こちらこそお呼び止めてしまって」
「私は今、AIを活用してGRCを最適化するシステムのスタートアップを準備中でして。非上場企業における既存の内部統制は、あまりにad hocで、auditabilityが担保されていないんです」
やってしまった。聞かれてもいないのに、退職用に作ったカバーストーリーをそのまま話してしまった。いかに彼女の雰囲気に気圧されたとはいえ、エステサロンの店長には通じない内容だろう。
「つまり、リスク事象の特定と、それに対するcontrolの記録ですね。理解出来ます」
「――っ! ええ、我々の優位性は、特にハラスメント告発のようにセンシティブな〈事実確認〉の領域です。 人間の主観こそがノイズであり、リスクなんです。我々は、その聴取プロセス自体をAIに代替させます。 これにより、社労士や人事部といった不安定な人間要素を排除し、客観的な証言の聴取および保全と、プライバシーの確保を可能とします」
「……なるほど。技術的な仮説としては興味深いですね。 ですが、そのシステムは、プライバシーの保護や〈過去の証拠化〉の観点では有効ですが、proactiveという、経営層の最も求める機能が欠落していませんか?」
「それに関しては、弊システムの基本機能でカバー出来ます。クライアントの社内規定とリスクマップを基に、リスクの発生確率と顕在時損失額が事前に設定した基準を超えないようにcontrolする機能が主体となっています。ハラスメント事案の検証は、その機能を応用した副次的なものです」
あくまでカバーストーリーである。現在の気力では到底実現できない内容だ。正直、ここまで突っ込まれるとは夢にも思わなかったが、退職時にも同様の応答は行っている。この程度なら問題ない。
「それに、本質的な欠陥もありますね。 ハラスメントの事実確認において、最も重要なことは、AIによる客観的な証拠の作成ではなく、〈当事者の心理的安全性〉です。本来、聴取と同時にそのケアを行う、産業医や公認心理師のスキルこそが、彼らの信頼を確保し、結果として事実、すなわち証拠を引き出せる唯一の最適解ではありませんか? あなたのシステムでは、その信頼のプロセスをノイズとして意図的に排除しているのではないでしょうか?」
一瞬、言葉に詰まる。
「……っ」
「そもそも、それ程の包括的なシステムを開発しても、数十億円規模の資金がなければ、システムの信頼性を検証することは難しいでしょう。もし不完全なシステムを導入すれば、当事者の二次被害を誘発し、却って組織の安定性を悪化させるだけではありませんか?」
京子さんの目尻が、心なしか下がっている。揶揄われているのか……?
「そういうことではなく。その心理的安全性とやらが主観の介入を許し、客観的な証拠を歪めるんです。 都合の良い解釈は、全くもって公平性を欠くのです。 我々のシステム、Aegis Speculumは、信頼や感情といったノイズをシステム的に排除し、客観的な記録だけを抽出します。加えて、普段のメールやチャット等から収集したログを解析し、個々人の誇張癖、虚言癖などを判定、発言の信頼性を評価します。これにより、評価者の主観を一切排除した真実を提供することが可能となります」
「発言の信頼性ですか……。システムのcriteria自体に人間の主観が入るのでは、その判断プロセスがXAIでない限り、auditabilityは担保されません。結局、抽出されたログのinterpretationと最終的なdecisionは人間が行うのですから。場合によっては、あなたのAegis Speculumは、客観性を装った〈主観的な凶器〉にもなり得ますよ」
「……。京子さん、随分とお詳しいですね。前職ではどういったお仕事をなさっていたんですか?」
「いえ、大したことありませんわ。お客様に、よくお話を聞かせていただいているだけなんです。これからお越しになる方も、面白いお客様なんですよ?」
郵便受けではなく、通用口に用事があったようだ。勢いのまま長話してしまったが、ようやく郵便受けを覗く。中身は空っぽだった。
「大学では、どのような専攻を?」
「医学部を中退したので、高卒なんです。――久しぶりにaggressiveなお話が出来て楽しかったです。今度は、私の店にいらしてくださいね。四階ですよ?」
僕はおざなりに挨拶を済ませ、エレベーターホールへと逃げ帰った。ドアが開くと、中から二十代と三十代の女性が降りてくる。いずれも、三階の美容室の従業員のようだった。今度は落ち着いて挨拶し、続けて先程と同じことを言ってみる。
「私は今、AIを活用してGRCを最適化するシステムのスタートアップを準備中でして。非上場企業における既存の内部統制は、あまりにad hocで、auditabilityが担保されていないんです」
「へぇー、よくわからないけど、すごいんですね!!」
「アドホック? えっと、男性のカットもやっていますから、今度いらしてください!」
……そうそう。普通、こんな反応だよなぁ。派手な二人の後ろ姿を見送る。ちょーカレーの匂いだったね! などと話す声が聞こえた。
ぼんやりと通用口のほうを眺める。ふと、このままでは京子さんが、こちらにお客を連れてくるのではないかと思い至る。慌てて〈閉〉ボタンを連打し、エレベーターのドアを閉めた。




