二つの夜のあいだで
夜の電話の中で、「この関係ってなんなんだろう」と問いかけた美沙。
彼の返事は、優しさと残酷さを同時に含んでいた。
──“割り切るか、恋人のようにするか”
その選択を、美沙は自分で決めることになる。
静かな夜、交わされたひとつの約束が、
二人の関係をゆっくりと変えていく。
その夜も電話をしていた。
いつものように、他愛もない話から始まって、
仕事の愚痴、天気の話、次の休日の予定。
声のトーンが少しずつ落ち着いていくにつれて、
沈黙の時間が増えていった。
「ねえ」
彼女がふいに言った。
「この関係って、なんなんだろうね」
彼はしばらく黙っていた。
冷蔵庫のモーター音が小さく鳴る。
窓の外で、夜行バスが遠ざかる音。
「……どうしたの、急に」
「ううん、なんでもない。ただ、ふと思っただけ」
電話の向こうの声は、
どこか不安と期待のあいだを揺れていた。
その揺れを感じ取った瞬間、
彼の胸の奥で、言葉にならない痛みが走った。
「もしさ」
彼がゆっくり言葉を探すように続けた。
「もし、今のままでいいなら、それでいいと思う。
でも、もしどこかで寂しいなら、
“恋人みたいに”してみるのも、悪くない」
少し長い沈黙。
呼吸の音だけが続く。
「……どっちを選べばいいの?」
「それは、美沙が決めることだよ」
「試してるみたい」
「試してない」
「本当?」
「本当だよ。俺は……ただ、美沙がどうしたいのかを知りたいだけ」
彼女は笑った。
その笑い声は、少し震えていた。
「……じゃあ、恋人みたいにしてみたい」
その言葉のあと、
電話越しにしばらく何も聞こえなかった。
彼の息が、少しだけ乱れた。
美沙はその音を聞きながら、
胸の奥に小さな熱が宿るのを感じていた。
彼は静かに言った。
「じゃあ、今から会いに行ってもいい?」
「……うん」
外は冷たい夜だった。
駅前の風が髪を揺らし、
自販機の灯りが頬を照らす。
彼の車が止まる音。
窓を開けると、あの冬の夜と同じ匂いがした。
助手席に座ると、何も言わずに車が動き出した。
音楽もない。
ただ、二人の呼吸だけが車内に満ちていた。
赤信号で止まったとき、彼が言った。
「無理しなくていいんだよ」
「無理なんかしてない」
彼は、彼女のその声を聞いて、
もう止められないと思った。
部屋に入る。
明かりを落とすと、
街のネオンがカーテンの隙間から柔らかく滲んだ。
彼女の頬に映る光が、
まるで別の季節のように見えた。
その夜、二人は初めて“恋人ごっこ”を始めた。
それがどんな結末を迎えるのか、
そのときは、まだ誰も知らなかった。
“恋人ごっこ”が始まった。
手をつなぐ、笑う、名前で呼ぶ。
それはまるで、冬の間だけ咲く花のような、
儚くて、美しい日々だった。
けれど、優しさの裏にあるものに気づくのは、
もう少し先のこと。
第8話「恋人ごっこ」──
恋と呼ぶには、少し痛すぎる温度。