あの冬の私
年末のダーツバー、ホテルの朝、膝の上の封筒──。
これまで「彼の視線」に映ってきた出来事を、今度は彼女の内側から描く。
最初はただのバイト、ただの遊びのつもりだったのに、
笑い声や視線、指先の震えのひとつひとつが、気づかないうちに心を動かしていた。
あの日、何を考え、何を感じていたのか。
まだ恋じゃないと思いながらも、
なぜか身体にしみこんでいった温度、
言葉にできなかったざわめきが、
彼女の視点で静かに語られる──。
年末の夜、初めて見たあの背中の広さを、今でも覚えている。
ワンピースの布地が、冷たい空気を吸い込むたびに、肌にまとわりつく。
最初は、ほんのアルバイトのつもりだった。
笑顔をつくる練習も、会話の台本も、頭の中に入っていた。
それなのに、あの人の笑い声だけが、胸の奥を不意にほどいていった。
矢が的から外れるたび、悔しがるふりをした。
テキーラのグラスが口元に触れると、唇の奥に熱が広がっていく。
視線が交わるたび、心拍が少し速くなる。
それは恋じゃなかったはずなのに、
いつの間にか、知らない温度が身体にしみこんでいた。
──このあとホテル行こう。
スマホに届いた短い文。
「いいわよ」と打つ指先が、わずかに震えた。
止まれないと分かっていながら、止まらなかった。
朝。
車に乗せてもらったとき、シートの革の冷たさと、となりの体温のあいだに、自分の呼吸が溶けていくのを感じていた。
膝に置かれた二つの封筒。右と左、どちらか選ぶ遊びのような仕草。
中には同じ額の現金。
「お礼とお年玉」と言われたとき、胸の奥が小さく締めつけられた。
何かが、静かにほどける音がした。
「就職、決まってないんです」
「じゃあ紹介しようか」
そのやり取りに、言葉にならない優しさを感じた。
けれどまだ恋じゃなかった。
ただ、冬の朝の光が二人の輪郭を少し柔らかくしていた。
その後、面接に受かって東京に引っ越した。
あの冬の車内の温度を、時々思い出す。
仕事のあと、疲れているとき、手首に残る封筒の感触がふとよみがえる。
名前のつかない気持ちが、胸の奥で小さく息をしている。
ある晩、冗談半分に届いた「東京に引っ越しましたか?」というメッセージに、気づいたら「今、中野ですよ」と返していた。
そこからやり取りはあっという間だった。
「今度、焼肉行かない?」
「行きたい」
短いやり取りだけで、身体の奥に灯がともるような感覚がした。
久しぶりに会った彼は、あの冬より少し大人びて見えた。
焼肉店の赤い提灯の下、煙の向こうの横顔に、胸の奥がざわついた。
煙に混じるタレの匂いと、あの人の香りが混ざり合って、頭の奥が熱くなる。
「また飲みましょう」と言って別れたとき、自分の中に芽生えたものが何か、まだ名前がつけられなかった。
あの冬の夜から始まった出来事を、今度は彼女の視点で振り返る。
ダーツバーの笑い声、ホテルの朝の光、膝に置かれた封筒の紙の感触──
誰にも言えなかった胸の奥のざわめきや、指先の震えが少しずつ形を持ちはじめる。
「まだ恋じゃなかった」と思っていた時間に、どんな温度が宿っていたのか。
彼の視線に映らなかった彼女の本当の心が、静かに語られる。
第5話「あの冬の私」──名前のない感情が、ようやく息をしはじめる。