封筒の中の未来
ホテルを出た朝、車の中で「右か左か」を選ばせる形で、彼はさりげなくお礼と励ましを渡す。
就職が決まっていない彼女にコネを使おうとするが、結局彼女は自力で内定を決め、東京へ引っ越してしまう。
二人の連絡はそこで途切れ、淡い縁だけが冬の記憶に残る──。
ホテルのカーテンの隙間から、朝の光が細い線になって床に落ちていた。
二人はまだ眠っていない。お互いに手も伸ばさず、ただ同じ空気を吸っている。
外の冷たい空気と、室内に残る暖気のあいだに、言葉にならないものが漂っていた。
「そろそろ行こうか」
その一言に、彼女は小さく頷いた。
チェックアウトを終えると、街はもう朝の顔になっている。
人の流れと信号の点滅、パン屋のシャッターが上がる音。
二人は言葉を探しながら、車に乗り込んだ。
助手席の膝の上に、小さな封筒が二つ置かれる。
「右か左、どっちがいい?」
「なにこれ」
「どっちも同じ。選ぶだけ」
「ゲームですか」
「まあ、そんなとこ」
彼女は迷って、右の封筒を取った。
薄い紙の感触。中には同じ金額の現金。
お礼とお年玉、そんな気持ちを込めた封筒だった。
「就職、決まってないって言ってたよね」
ハンドルを握ったまま、彼がつぶやく。
「はい。いくつか受けてるけど、まだ……」
「紹介できる人、いるけど、どうする?」
「……いいんですか」
「いいよ。コネは好きじゃないけど、チャンスは作れるから」
「ありがとうございます」
声は小さく、でもどこか安心したように聞こえた。
信号が青に変わり、車が静かに走り出す。
それはまだ恋でも愛でもなく、ただの親切だった。
「いい子だな」と思う感情が、冬の朝の空気に溶けていく。
けれどその奥には、まだ名前のない小さな温もりが芽吹いていた。
後日、履歴書を受け取るつもりで連絡をした。
返ってきた短いメッセージには、こう書かれていた。
──「面接した会社に受かりました。一人採用だったけど、決まりました」
「よかったじゃないか」
そう返した指先に、ほんの少し寂しさが残った。
三月。
彼女は東京に引っ越した。
中野、とだけメッセージに書かれている。
やり取りは、そこで途切れた。
約束もないまま、互いに追いかけることもなかった。
ただあの冬の朝、封筒を選ぶ指先の震えだけが、遠い記憶のように残っている。
三月、東京。
それぞれの生活が始まり、途切れたままの連絡。
仕事と就活、変わっていく環境。
しかし、ある日、何気ないメッセージが二人の時間を再び動かし始める……。