ブルに刺さらない矢の先で
年末の夜、偶然のように同じダーツバーで向かい合った二人。
「ただのギャラ飲み」「ただの遊び」のはずが、矢を投げるたびに笑い合い、負けてはテキーラを飲み、気づけば距離が近づいていた。まだ恋でもなく、名前を持たない時間。
ひと晩だけのつもりが、最後のメッセージ「このあとホテル行こう」に「いいわよ」と返した瞬間、何かが動き出した。
その夜の冷たい空気と、頬に残るアルコールの熱が、二人の始まりを淡く染めていく──。
三年前の年末の夜、駅前の風が冷たい。吐く息が白い。
アーケードの蛍光灯は、ところどころ死んでいる。
看板はそのままなのに、店だけが少しずつ変わっていた。
居酒屋のガラス戸の向こうで、湯気が揺れている。
どこかでシャッターの降りる音がする。
「たまには羽伸ばそうぜ」
そう言ったのは、いつも一緒に飲む悪友だった。
二人で飲み干したビールの泡が、グラスの縁に残っている。
「キャバクラでも行く?」
「いや、今日は違うのがいい」
スマホの画面に映るのはギャラ飲みの募集アプリ。
駅前の小さなダーツバー、Sunrise。
「そんなのあったっけ」
「できてた。行ってみよう」
路地。排気と冷気が混ざる匂い。
細長い階段を上がって扉を押すと、甘い酒とタバコの匂いが鼻をくすぐった。
ネオンの青。棚に並ぶボトル。薄い音楽。
革のソファは少し擦れて、座ると空気が抜けるみたいな音がする。
「お疲れさまです」
笑い声。軽く頭を下げる影が二つ。
ベージュのコートの女の子、そして深い赤のワンピースの女の子。
肩にかかる髪。えくぼ。指先のネイル。
目の端に、うっすら残業の色みたいな疲れ。
それでも、笑うと、全部が軽く見える。
最初はただの雑談だった。
地元の話、駅ビルのテナントが変わったこと。
女の子は笑うと少しだけ目を伏せる。
笑っているのに、どこか遠くを見ている気がした。
「ダーツ、やります?」
「弱いですよ」女の子が手を振る。
「負けたらテキーラね」もう一人が言う。
「出たよ」悪友が笑う。
ルールを確認する。カウントアップ。クリケット。最後はカウントダウン。
「じゃ、チーム」
こちらと女の子が向かい合う。
ヒールの先が床をコツンと鳴らす。小さく会釈。
矢が刺さる音。電子音の小さな祝福。一本、二本、三本。
「強すぎ」もう一人が笑って掌を上に向ける。
ハイタッチの音。
「おかしいだろ」悪友が口を尖らせる。
女の子は悔しそうに肩をすくめ、唇をほんの少し尖らせる。
前髪を耳にかけ直す。指先が、少し震えている。
負け。テキーラ。
小さなグラスが並ぶ。
「やだー」って笑いながら、結局飲む。
飲んだ後の顔。眉の角度。
喉を通ったアルコールの熱が、頬に乗る。
またダーツ。
点を消すたびに、小さな歓声。笑い声。
足元に落ちる影が、少しずつ近づく。
グラスは、いつの間にか軽い。氷が小さくなる。
BGMが一周したのか、さっきと似た曲が流れる。
ゲームの合間、少しだけ離れた席に座る。
女の子はグラスの底を覗き込む。
視線は、飲み物に落ちる光を眺めているだけ。
彼は、何度目かの深呼吸をする。ポケットのスマホが、やけに重い。
テーブルの下で、親指が滑る。短い文。句読点は、つけない。
──このあと、ホテル行こう。
送信。画面を伏せる。数秒。世界の音が、少し遠くなる。
彼女のスマホが、かすかに震える。
画面をちらりと見て、呼吸を一度だけ止める。
親指が動く。顔を上げたとき、目が、一瞬だけ合う。
──いいわよ。
四文字。声ではない。だけど、声より近い。
店のドアを開けると、冷たい空気が頬を刺す。
ネオンの青が、薄い朝に溶けていく。遠くで踏切が鳴る。
「気をつけて」「また」
それぞれが別のタクシーに乗り込み、ドアが閉まる。
静かになる。
街の音が増える。新聞配達のバイク。自販機の補充のガチャガチャいう音。
空気は冷たいのに、耳は熱い。
信号がゆっくり点滅する。足音がひとつに重なる。
沈黙は空白じゃない。少しだけ速い心拍。手指の温度。
コートの合わせ目から入る風。
角を曲がる。ガラスの自動ドア。
フロントの観葉植物。小さなベルの音。
サイン。カード。「〇階です」
エレベーターの中の鏡。真正面から目は合わせない。鏡越しの横顔。髪が肩に落ちる音。香水が、少し薄くなる。
部屋の前。ドアのランプ。カードをかざす。一拍置いて、開く音。
中は、少し暖かい。カーテンは閉まっている。
スイッチを探す手。壁のざらつき。
ヒールを静かに脱ぐ。その音が、思ったより大きい。
「寒いね」「うん」それだけ。
言葉は、ここでは小さくていい。
呼吸が、ゆっくり整う。夜は、もうすぐ終わる。
でも、まだ終わらない。
ホテルの夜が明けるころ、まだ名前を持たない二人の時間は続いていた。
送り届ける車の中で交わされた小さな封筒。右と左、どちらかを選ぶ遊びのようなやり取りの裏に、それぞれの事情が滲む。
大学4年生、就職先が決まらない彼女の相談、コネを使うと申し出る彼。
そして決まってしまう内定、東京への引っ越し──そこで一度、二人の繋がりは途切れる。
別れたはずの縁が、次にどう動くのか。
第3話「封筒の中の未来」で、物語は再び動き出す。