自転車と生首
ふと、走ってくる自転車の、その篭の中に女の生首を見た気がして、書いてみました。
夏ですから、お楽しみください。
世の中の全ての物には、値段がつく。
僕が入り浸っている古道具屋、空蝉堂の店長は、それが口癖だった。
曰く、「因縁ってのは、最高の付加価値なのさ」と。
その彼が、僕に一台の自転車をタダでくれた時、もっと警戒すべきだったのだ。
それは、ひどく古めかしい、だが妙に趣のある自転車だった。フレームのあちこちが錆びているくせに、不釣り合いなほど立派な籐の前カゴと、やけに凝った装飾の真鍮製のベルがついていた。
「いいねえ、お客さん。そういうガラクタに価値を見出す、その『目』だよ」
店長は、僕の目を覗き込みながら、まるで品定めでもするかのように言った。
その日から、そのオンボロ自転車は僕の愛車になった。
異変が起きたのは、乗り始めて一週間ほど経った頃だ。近所の葬儀場の前を通りかかった時、ちょうど黒塗りの霊柩車が出てくるところだった。
なんとなく気まずい沈黙。
魔が差した、としか言いようがない。
脳裏に仏壇にそっと備えられたおりんの影が過る。
そして僕は、チリン、と。
ベルを、鳴らしてしまったのだ。
その瞬間、空気が変わった。ただの乾いた警告音が、まるで水を吸ったみたいに湿り気を帯びて、「チリィン……」という、どこまでも澄んだ、それでいて不吉な余韻を残す音になった。
僕は、その時、ぼんやりとそう思っただけだった。
翌日、大学の駐輪場で、僕は自分の自転車のカゴに見慣れないものが入っているのを見つけた。ただの、丸い石ころが一つ。
(誰かのいたずらか?)
僕はそれを捨てて、その日は特に気にしなかった。
しかし、それからというもの、気が付けば野の花や、誰かの落しただろうハンカチ、或いは焼け焦げた塊などが放り込まれるようになった。
ひどい時には、首が無残に折れ、翼を引き裂かれた雀が、綺麗に二羽、横たえられてさえいた。
まるで誰かが運んできてでもいるかのように、その頻度は日ごとに増していったように思う。
僕がその事実を確信したのは、しばらく過ぎた夏の月曜日。
無くしたはずの僕の学生証が、顔に打ち付けられた藁人形が、ちょこんと籠の中に座っていた時だった。
僕は、空蝉堂に駆け込んだ。
「店長! あの自転車、一体何なんですか!?」
僕から話を聞いた店長は、溜息とも感心したともつかない、複雑な息を吐き出した。
「馬鹿だねえ、お客さん。いや、目利きだと言うべきか。あんた、とんでもない『お地蔵さん』を手に入れちまったんだよ」
「地蔵……? 自転車が、ですか?」
「そうさ」と店長は、埃っぽい店内に響く声で言った。「その自転車は、ただの鉄クズじゃない。昔、ある子供がその自転車に乗ってて事故で死んだ。哀れに思った親が、その子の供養のために、その自転車を地蔵菩薩に見立てて、事故現場の道端にずっと祀ってたんだ。ベルは、故人を呼び、場を清めるための『おりん』。そして、自慢の籐カゴは、お供え物を置くための『供物台』ってわけさ」
僕の脳味噌が、直接シェイクされるような衝撃。
「あんたは、葬列の前で、その『おりん』を鳴らしちまった。それは、供養の始まりを告げる合図のようなものなのさ。
だから、その土地の霊たちが、あんたの『お地蔵さん』に、けなげなお供え物をし始めたんだよ。石ころや、落ち葉や、花。それが、彼らなりの精一杯の布施だ」
「じゃあ、雀の死骸は……、あの藁人形は……」
「ああ。あんたが毎日律儀に『おりん』を鳴らして供養を続けたもんだから、噂が広まっちまったのさ。もっと強力で、悪質な『何か』の耳にね。『こんなに徳の高いお地蔵様なら、もっと上等なお供え物をしなくちゃ失礼だろう』って、張り切り始めちまったんだ。雀の死骸は、そいつからの、最初のご挨拶ってわけだ。そうさ、彼らはもっと良いものを捧げたいのだろうさぁ」
うすら笑いを浮かべて告げられたその言葉が、僕の理性に突き刺さった。
その帰り道、僕は、恐怖に耐えきれず、それでもカゴの中を確かめずにはいられなかった。
そして、見てしまった。
カゴの中に、あったのだ。
人間の生首が。
長い黒髪の、まだ若い女の。目は虚ろに開かれ、首の断面は、おぞましいほどに生々しく、赤く濡れていた。夕暮れの茜色に照らし出されたその顔は、なぜだかとても美しかった。
「うわあああああああああああああああああああっ!」
僕は絶叫し、自転車を投げ捨てて、脇目もふらずに自宅のアパートまで逃げ帰った。
鍵を閉め、チェーンをかけ、部屋の隅でガタガタと震え続けた。
どこか異様な寒気が、僕の周りを満たしているような気がしていた。
どうやら気を失ってしまっていたようだった。
気が付けば、朝日が昇っている。
もう、あの自転車には近づかない。捨ててしまえばいい。
そうだ、それで終わりだ。
そう自分に言い聞かせるように何度も独り言を言いながら、背負っていたリュックサックを床に下ろした。
その時、気づいた。
リュックが、やけに重い。
大学の教科書以外に、何か、固くて、丸い、塊のような感触がある。
嫌な予感が、背骨を駆け上ると同時に、脳裏をあの音が掠めた。
震える手で、僕は、リュックのジッパーを、ゆっくりと、開けた。
―――中を覗き込んだ僕の口から、もはや、悲鳴は出なかった。
どうやら遠の昔に、僕は見つかってしまっていたらしい。
今日のお供え物は、女の生首。
さて、明日は、一体、誰の、どの部分が、どのように、僕に届けられるのだろう。
僕はもう、逃げることはできない。
暑いですから、あらぬものを見ることだってあると思います。
そう、貴方もきっと。