092 雑貨店
「驚きました。まさか師匠が迷わないとは」
「さっきから不敬だよな」
あの人が初めて僕に〖糸〗を見せてくれたところだから。
道はよく覚えている。
あの頃とあまり変わらない石畳を踏んで歩く。隣にいるのは金髪だけれども、僕と歩調を合わせてくれるし手もつながない。あの時とは違う。
「一応、戦時中なのですね」
「戦場になっている分皇国よりも警戒度が上がっているんだろう」
質素倹約を歌った旗が各地に掲げられている。
「国民に被害が及ぶような戦争を起こす国は駄目ですよ」
「随分極論だな。戦争なんてそんなものだろう——他国は知らないが」
「皇女様の弁です。皇国が戦場になっていないから言えることですが」
……どうも皇女様は奇麗事に縋って居る様で良くないなァ。
「奇麗ごとを奇麗なままで居させるために生きたいとおっしゃっていました」
「そうかい」
奇麗な世界なんて、実現しないからこそ理想なんだけれどね。
人は足るを知るということがないから、たとえ皇女様が理想を実現したところで新たな理想が生まれるだけだろう。
それでもやろうって言うんだから、大したものだ。
「おや、ここですか」
何時かと同じ。
古びた雑貨店の前で足を止めた。
ドアを開いてくれる人はいない。
ノブに手をかけた。
***
柔らかく差し込む日の光とほこりの匂い。
懐かしい、という感情か。
「うげ。血ィ臭い」
僕が思い出に浸っている最中に、軽薄な声が乱入してきた。片方の肘が取れた椅子に腰かけて、一人の男がこちらを見ている。
「あなた、戦場でいつかお会いしましたね」
コリンがにこやかに声をかける。
確かにそう言われると見おぼえがあるような気がする。名前は何だったか。
「おや、知り合いか」
足元から声がした。この場所にいるということは男の方も『知り合い』だろう。一体その言葉が僕に向けられたのか男に向けられたのかわからずに口を噤んでいると、
「エリー」
今は呼ばれることも少なくなった呼称が呼ばれた。
「知らない。見たことがあるだけ」
いつもそうしているように無愛想に答える。
「そうか。少し待て、人間になる」
奇妙な言い方をする。少し前までは人間の姿になることを頑なに拒んでいたというのに、いかなる心境の変化があったものか。
「今、どこから声がしたのです」
当然の疑問ながら、コリンがそう問うことを面白く思う。あの人もこういう気持ちだったのかな。
「本人から聞けよ——あと、そこの奴。誰だ? どこで会った?」
こういうことを訊くとまたコリンに文句を付けられそうだなア、と思う。僕が人の名前と顔に興味の無いことぐらい、いい加減覚えてもいいだろうに。
「師匠……あなたという方は」
「けっ」
そらきた、と思いきや、男くんの方が吐き捨てるように言った。
「クゥくん——あんたの言う『ルーくん』の言うとおりだぜ。あんたみたいな人は、俺たちに死ぬほど興味がないってな」
「ルーくん? 知り合いか」
「知り合いも何も、俺はクゥくんの部下なんだけど。やり合ったでしょ? まあ俺は役に立たないけどさ、策士だから。ほんと腹立っちゃうねえ」
……ルーくん、か。
ああも自分と似ているとあまり好きにはなれないな。しかも、それが天然だってんだから嫌になる。どこの馬の骨だ、てめーは。いつか訊いてやろうっと。
会う機会があれば、だけど。
「そうかい。残念ながら戦った記憶はないね。で? 名前は? 覚え直してやろうか」
気が向いたら、だけどさ。コリンは呆れちゃったのか何も言って来やしない。悲しいぜ。
「ジャラス……ジャラス・ティダという」
へえ。締まらない名前だね。