070 図書館の主
書物の詰まった棚の林立する、まるで密林であるかのような空間をくらくらしながら歩く。こんなにたくさんの書物は初めて見る。
どこに何があるのかがわからない、なんて言う当たり前の事実にぶっつかって少し途方に暮れる。あそこにいればきっとユキナさんとかいう人が教えてくれたんだろうけれど、今から戻ってもおかしくなってしまう。
書物が日に焼けるのを防ぐために、もとより窓の少ない建物だ。足の向くまま赴くままに歩いていたら、だんだん暗いところに入り込んできてしまっている。
標識だとか、僕が今どこにいるのか教えてくれる何かがないのだろうか、とあたりを見回すも見当たらない。どうやら、普段人が立ち入らないようなところに分け入ってしまったようで、書棚に入りきっていない本が床に積み上げられて埃を被っている。
「可哀そうだね」
いくら本を集めたところで、読んでもらえないのであればどうしようもないのだろう。
読まれなければ本は本でない、なんて哲学的なことを言おうとは思わないが、それに近いことを思考する。
本でできたピラミッドの間を縫うように泳ぐ。惹かれる本もなく、探す本もなく歩く図書館というのはどうも暇だ。
図書館なんて来るのは初めてだけど。
方向感覚がだんだん鈍ってきて、図書館の深部に迷い込んでいるんだか、外壁に向かって直進しているんだかわからなくなってしまった。やはり日光がないというのはよくない。
ふっ、と風が前髪を揺らす。
「誰かいるのかい」
声を投げても誰も答えない。
相変わらず積みあがっているどころか何だか増えている風さえある、本の山を崩さないように気を付けて、風の方へ向かう。
本の山を一つ、二つと越えるたびに風の匂いが強くなる。むせ返るようだった紙の匂いが薄れていき、清涼な気配が強まって行く。まるで、新緑の季節にそこいらの雑草をちぎって手に擦り付けたかのような香りが、鼻先をくすぐる。
進むにつれて周りにある本が古びていく。書棚の中には木が朽ちているものもある。そんな書棚を二、三個見た後だっただろうか。
今にも崩れそうな書棚の上から二段目、空いた隙間から光が漏れていた。
僕が両手をいっぱいに広げたくらいの幅の窓が開いている。
闇に慣れた目には少し刺激的な光が世界をぼやかす。さっきまで感じていた風の匂いがこの窓からやって来ていたのは確かだった。
そういえば、こういう時は十秒ほど目を瞑るんだったな、と瞼を下ろす。
窓から吹いてきた風が垂らした髪を揺らして、そろそろ切り時なことを知らせた。
ようやく目が慣れてきて顔を上げると、窓辺には何者かが座っていることが判明した。
「誰ぞ」
窓枠に無遠慮に足をかけ、少し出っ張ったところに腰を下ろした姿勢のまま、膝の上に抱えた本から顔を上げずに僕に問いかける。
「予のところにたどり着くものがいるとは」
体躯は僕よりもはるかに小さく見える。まるでまだ学問を始めていない子供くらいの体つきをしている。それでも、その人物が何か違うと一目見ただけでわかる理由というのは、その異様な頭髪に他ならなかった。
秋に生る瑞々しい果実のような透き通った紫色。頭頂部から滑らかに流れ落ちるそれは、肩や腰をはるかに超え、床に落ちてもまだ余っていた。ただでさえ少し高い位置にある窓枠に座っているのだから、その髪の長さは相当なものだ。
「予が誰かを知らぬようなものがたどり着くとはな」
無礼だ、跪け。
――考える暇もなく、膝の裏から力が抜けて額に床を感じる。僕ごときでは視認することも許されないというのか。
「予は図書館の主」
注意して聞いても、声からは何も読み取れない。ただ『そう言った』という事象のみが伝わってくるだけで、声の主が男なのか女なのか、子供なのか大人なのかさえもわからない。
「予は因果律。人のこの前に姿を現すことなどこの意思が発生してから幾度あったか数えたこともない。――数えられぬ。なぜならばなかった」
貴は初めてだ、栄誉に感謝するがよい。
かか、と傲慢に笑う声がした後、
「予もそろそろ結末を知ったストーリーを見るのに飽いておったところじゃ。そう考えると、貴はどうやら運命とやらを覆すのに向いていそうな器じゃのう。――人の理から外れた道を歩んでおるのが読み取れる」
あれ。
この流れは。
「予のために物語を描け。黒き深淵の果てにある、美しき青い星の抗争は実に詰まらん」
なんかまたお願いされようとしてる⁉
「予はあの星を統べておる四神が気に入らなくての。予が神で在れないのも奴らの所為じゃ。貴があの四神の鼻を明かしてくれると実にすっきりする」
「やらないと言ったらどうするつもりだ」
「ほう。その状態で喋れるとは、ますます化け物じみた人間なのだな、貴は。案ずるな、拒否などさせぬよ。――彼の星にいる予の友人に連絡を取っておいてやろう。そうじゃのう、三年じゃなあ」
「三年?」
「三年たったら再びここまで参れ。何、貴が来たとわかれば道を開く」
「来なかったらどうする」
「貴は来る」
三年か。まあ、コリンの方の手助けを三年で済ませれば問題はない……のか。
「予の考えに納得した様じゃな」
「あ、いや」
「残念ながら予と話している時間は貴にとって現実の時間なのじゃ。予が別空間で話をするようなご都合主義ではないからの。貴の弟子殿がずいぶん心配しているようじゃ、そろそろ帰れ」
え。
断らせろよ。