051 崩れる音
「裁縫絶技、第五番。開運見日、来福光明」
建物がまるで粘土のように横に揺れる。王女様は最上階。
——がらり。
天井が無数にひび割れて階下に降り注ぐ。そのフロアの中心に、黄金色。
夜空からこんにちは。
「お久しぶり、おじょーちゃん。元気してた?」
王女様は、心底嫌そうな顔をした。僕の顔を見るのも嫌で、声を聞くのも嫌で、もうそれを認識した瞬間に死んでしまいたくなった、というような表情をした。
「どうして……」
「時間の無駄だよ、お姫様。脱獄してきたに決まってるじゃないか」
どうせ「どうしてここに」なんて言おうとしたんだろう。脱獄した以外に選択肢があるわけでもないのに。
「弱いね、みんな。ここに来るまでに、何人かやり過ぎちゃったよ」
皇子様には穏便に出て行けと言われたが、ついうっかり手が滑ってしまった。まあそのくらいよくあることだ。
溝色の少年だって、やりかねないだろう。
「何をしに来たんですか」
「挨拶ぅ? あはは、僕ってば礼儀正しーっ!」
挨拶なんてしたこともない癖にこれから言おうともしていない癖に——つまり僕はこれから嘘を吐くのに、そんな風に言ったことが可笑しくって思わず笑った。
「挨拶なんてしなくても……さっさと行ってしまえばよろしいでしょう」
「あいにくと僕ちゃんそうはいかなくってね。昨日言ったろー? あれ、忘れちゃった? あれあれあれ?」
僕が一言一言喋るたびに嫌悪を示す顔がもう本当に面白い。案外好きになってしまっているかもしれないぞ、このお姫様を。
「覚えてますよ。確か……わたしを不幸にするだとか」
「覚えってるじゃーんッ‼ 何で言ってくれなかったのぉお⁉ 恋の駆け引きぃ? 駄目だよ駄目だよ、僕好きな娘いるもんねっ‼」
いねえけどな。
感情の寒暖差が激しくて凍えそうだぜ。
お嬢ちゃんの方は僕のことを、「牢獄から抜け出せてハイになっている」とか思っているだろうけど、僕の方はそんなこと全然ない。
むしろ、テンションぶち上げとくのが仕事の時の僕のセオリーだ。
その方が楽しく仕事をできる。
「さっさと挨拶とやらして、さっさと行ってくださいよ。どうせ、行きたいところがあるんでしょ」
「そうだね。生きたいところがある。あいつの顔が見たいな、僕は。——って、そんなことは訊いてねーよ、嬢ちゃん。さっさと不幸になってよね」
思わず脳裏に一人の顔が浮かびかけて、慌ててかぶりを振る。今はそんなことを考えている場合じゃなかった。
「あなたがわたしを不幸にするんでしょう?」
「ちげーっつってんだろ。嬢ちゃんが自分で不幸になるんだよ。おら、さっさとなりやがれ」
あくまでお前が自分でならないと意味がない、だなんて言ったってわからない。
「嫌ですよ。不幸になるなんて」
「我が儘だなあ。だったら、やっぱこうするしかないっかあ。嬢ちゃん、ヒントあげる」
一つ、目を瞑って。皇子様の入れ知恵を、そのまま話すことにする。
「ヒント一。今日、王宮静かだったろ?」
「姉さんが外に行くのはいつものことです。わたし自身、今日外出しましたし」
黄金色の瞳は揺るがない。
「ヒント二。そこの男の子までお払い箱になるかな?」
「男についてきてほしくない用事だってあるでしょう。ジャックは姉の婚約者でもありますし、別の誰かを連れて行ったに決まっています」
降り注ぐ瓦礫の山から逃れて壁際に寄っていた一人の男の子を顎で示す。ジャック、という名前を聞く限り、彼は近衛隊見習いの一人という情報に間違いはなさそうだ。
「ヒント三。君は姉に最近会った?」
「会っていませんよ。ここ数年、ね。あの人はわたしを嫌いです」
聞いた通りの答えを返す。
「ヒント四。家族と最近話した?」
「父の話を聞き流したのを含むのなら」
「ヒント五。ジャック君のほかに護衛はいるの? お姉さんに」
「いるはずです。確か、普段は母と父の護衛をしている人が。一つの部隊くらいの数ですが」
「ヒント六。お父さんとは会ってない?」
「会ってません」
「ヒント七。お母さんとは会ってない?」
「会ってません」
「ヒント八。お姉さんて、今何歳?」
「知りません。わたしの四つ上ですから、十四ですかね」
「ヒント九。お姉さん、何人いるんだっけ?」
「二人ですよ。三人姉妹です」
「ヒント一〇。何をしにお姉さんが出かけたか知ってるかい?」
「買い物でしょう……出かけたんですね、やっぱり」
「ヒント一一。どの護衛と出かけたか知ってる?」
「ですから、母や父の部隊の人でしょう」
「ヒント一二。行くなら交通機関、何を使うだろうね」
「鉄道か馬車ですね」
「ヒント一三。お嬢ちゃんは今日何を使った?」
「鉄道ですよ」
「ヒント一四。何時くらいに出かけると思う?」
「わたしと同じ……十時くらい」
「ヒント一五。お父さんたちは今日何してる?」
「今日はお休みですよ。王宮にいるんじゃないですか」
「ヒント一六。お父さんたちの護衛は?」
「知りませんよ。どこかの誰かじゃないですか? 部隊はたくさんあるんですから」
「ヒント一七。どうしてお嬢ちゃんのことは部隊とやらが護衛をしていない?」
「わたしが第三王女だからです」
「ヒント一八。嬢ちゃんは何歳?」
「一〇歳と少し」
「ヒント一九。いつ一〇歳になった?」
「昨日」
「ヒント二〇。今お嬢ちゃんは、どんな風に暮らしてる?」
「知ってるでしょう! 王宮で寂しくです!」
とうとう我慢の限界が来たように、王女様が頬を紅潮させて叫んだ。
「一体何がしたいんですか! ヒントだなんて何度も何度も! さっさと言っちゃえばいいのにっ」
「いやぁ、駄目なんだなあ、それじゃ。あくまでお嬢ちゃんが自分で気付かないとね」
「知りませんよ! わたしにはさっぱりわかりませんったら」
「わからない? わかりたくないの間違いじゃない?」
傲然とこちらを見つめるお嬢ちゃんが面白くって、唇の端を持ち上げた。
「まいっか。だったら嬢ちゃんが気付くまで言うだけだもん」
「ヒント二一。「ヒント二二。「ヒント二三。「ヒント二四。「ヒント二五。「ヒント二六。「ヒント二七。「ヒント二八。「ヒント二九。「ヒント三〇。「ヒント三一。「ヒント三二。「ヒント三三。「ヒント三四。「ヒント三五。……
だんだん答える王女の声に覇気がなくなってきて。目も伏せがちになってきて、とうとうこの場で真っ直ぐに直立の姿勢を貫いているのは、王女の護衛を務めている(らしい)溝色の少年——ルーくんだけになってしまった。
「ヒント三六。「ヒント三七。「ヒント三八。「ヒント三九。「ヒント四〇。「ヒント四一。「ヒント四二。「ヒント四三。……
「ヒント、五〇」
いい加減わかったろうな。
お嬢ちゃんの瞳が硝子のようにこちらを見つめる。
「お嬢ちゃん。まだかな。僕の方はそろそろ刻限なんだけども」
「そう」
王女様の口から、細い息が漏れる。
月を眩しがるように、僕の背中側に目を細めて、彼女は口を開く。
「わかりました」
そうして王女は、幸せであることをやめた。
「わたしはお父様やお母様に目を向けられていないことから目を逸らしていたのです。嫌われていることを見ない振りをしていたんです」
そんな風に独白した王女様は、僕の方を見上げてこう言った。
「わたし、お父様が嫌いです。たった今、嫌うことに決めました。
「あの人に勝って見せます。あの人はお姉様のどちらかを次の王様にしたいみたいです——でも、わたしが皇帝になって見せましょう。世界の予想を変えてやりたい」
「そうかい。で? お嬢ちゃんは何のためにするんだい、それを」
「何のためって、そりゃあ父に勝つために——」
「自分のために働けばいいだろう」
「自分のため、ですか?」
「皇帝になって、お嬢ちゃんは何がしたいんだい? 皇帝になることで、お嬢ちゃんは何をしたい?」
何って、と彼女は顔をしかめる。
確かに父というのは大きな壁だ。しかし、その壁を乗り越えた先にあるのが美しい景色とは限らない。むしろ見えるのは——深い断崖かも。
「わかりますよ。要は、わたしが皇帝になることで何を得るのか、なった後に感じるであろう虚無感について危惧してくださっているのでしょう?」
さっきまでの怯えた様子をターンオフして、お嬢ちゃんは凄惨に笑った。
「そんなこと、後から考えます。とりあえずは目的に向かって直進してみせましょう。わたしは案外、目の前しか見えない性質なのです」
「ふうん、そう。じゃあ、好きにしなよ。僕はここでおさらばするから」
手を掻き抱くようにして、その場を離れる。後ろに倒れ込むようにして姿を消すと、王女がやや動いたのがわかった。おそらく消えた僕を追って覗き込もうとしたのだろう。それを止める例の溝色。一瞬、溝色を殺してしまおうかという思いが顔を出した。しかし、躊躇いを感じて指を止める。そんなことは計画のうちにないのだから、断念しておくべきだろう。
地上に降り立つ。久しぶりの娑婆の空気——というわけでもないけれど、空気がおいしい。何をしようか、と一寸思案して思いつく。
まずはそうだ、彼に会いに行こう。
♰♰♰リゼのノートより♰♰♰
・絶技五番:開運見日、来福光明
通称「穴開け」。糸を空ける穴の外周に取り付け、細かい振動で空洞を作る。脱出などに役立つ。空いた穴から光が見えるためこのような名前になった。針を使って円を描いてから穴を空ける場合がほとんど。