030 別れ
「これを君が読んでいるときには、僕は世界にいないんだろう」、というありふれた文句で、僕はこのお話を始めようと思う。
おそらく君の想像通り、これは僕が買って使わなかったノートだ。部屋を探してくれれば、使わなかったノートがもっとたくさん出てくると思う。もしかしたら、君はもう見つけた後かもしれない。そんな中から、君がこの一冊を見つけた奇跡に喝采を送ろう。
ありがとうね。
僕を見つけてくれて。
何年前かは忘れた。
十年か、それより前か、そのくらいだろう。
僕の師匠も、多分僕と同じように死んだよ。
君も、そんな風に死ぬのかな?
ちなみに、僕は君にそんな風に死んでほしくはないんだ。
だから、手紙を書いた。
世界を変えてみようか、なんて思ったんだよ。無駄な努力だとしても、僕は君に生きていてほしいから。これは、師匠としてのありふれた感傷なんだよ。
ああ、感傷、わからないか。
そのうち探せるといいね。
僕は、もう一緒に居られないから。
悲しいな。
僕は君が好きだったんだよ。
ずっとそばに居たかったなあ。
離れたくなかったなあ。
大好きだよ。
ねえ、僕が死んで悲しかったかな。僕は、僕が死んでしまって君が一人になることがたまらなく寂しいよ。君が悲しいと思ってくれていればうれしいよ。
君が弟子を採ったら、君は弟子に悲しい思いをさせないようにしなくちゃね。
ううん、しなきゃだめだよ。
今、僕がそう決めた。
弟子って言うのは、師匠の命令に服従するべきなんだ。
ああ、狡いと思っただろ、今。
僕は狡いんだよ。
君の幸せの為だったら、いくらだって狡くなれるんだよ。
僕は、そういう人間だ。
人でなしじゃないよ。
僕は、エリザベート・ティオールという一人の人間だ。
そうでしょう。
君の名前は、君がヒトでいるための居場所でもあるからね。
名前を、忘れないように。
それじゃあ、そろそろ逝き時かな。
僕のことを、忘れないでね。
さよなら」
***
全く、おかしなことを言う人だ。
『世界を変えたい』だなんて。
大きなことを、言う人だ。
そんな人が僕の師匠だったなんて、どれだけ尊いことだ。
僕にとって、どれだけ誇らしいことだ。
そんな想いで、いっぱいだった。
「独りで、逝かないで」
そんなこと、もう言えない。
あの人が望んだのは、そんな言葉じゃないから。
名前を忘れないように、なんて。居場所を忘れないように、なんて。
そんなの、生きていろという呪いじゃないか。
「あなたは、狡いよ」
最後の最後に、僕に知らない何かを植え付けていくなんて。
もしかして、この想いが『感傷』って言うの?
そうか。
応えてくれないんだったね。
だったら、僕はこれを感傷ってことにしておくよ。
そんな感傷に、さよならを言っておくよ。
ばいばい、師匠。