026 咲家研究室
次の瞬間、僕は枝の上にいた。
言わなくともわかるだろう、さっきまで双糸が座っていた枝だ。
そして、僕の代わりに双糸が下にいた。
ああ。枝の上からは、下がよく見える。
雪谷の詩沖が言った通り、咲家研究室は成功したらしい。
だってあの子供は。
向こうから駆けてきた、あの子供は。
《《人じゃない》》。《《人でなしだ》》。
世界がゆっくりと歪んで見えた。駆けてくる子供が蹴立てる雪が、一粒一粒鮮明に見える。
子供は、目の前に詩沖三兄妹を認めても、少しも足を止めなかった。むしろ、見なかった。
見ないままに、蹴散らした。奴が詩沖の三人の間を駆け抜けた時には、すでに終わっていた。全員が、足を掬われたかのように雪の上に崩れた。
「何が——」
「——起きた——」
「研究室は——」
「——潰したのに——」
声が二つしかない。
「だが——」
「——これは——」
「好都合かも——」
「——知れない——」
そんな風につぶやいて、詩沖は再び崩れた。
糸が、切れたように。
子供は、栗色の髪をしていた。上からなので、髪しか見えなかった。
けれど多分、子供は尋常ではなかった。
あの、幸谷双糸を殺したのだから。
子供は始終、ただ走っているだけだった。多分奴は、生きたかっただけだった。
それなのに奴は、生きたいだけで殺した。
そんなことは僕がずっとやってきたことなのに、僕は。
リゼを殺したあいつに腹が立った。
何が起こったかわかった時には、もう子供の姿はなかった。男なのか女なのかもわからないままに、姿が消えていた。
後には。紅い血と、木を背に座り込んだ、彼女が残っていた。
「ねえ」
リゼ。
「あぁ。エリーか。何でそんな顔してんの」
本当にわからない、みたいな顔を。しないで。
「殺すものは、殺される。——当たり前でしょ」
そんな言い方を、しないで。
「でも、つけが一気に来たんだねえ。今まで殺してきた人分の不幸が、一気に舞い込んできたみたいだ」
君の顔を見ながら逝かないといけないなんて。
頬に、リゼの手が添えられる。
「はは。泣かないでよ。……こういう時はさ。愛の言葉を囁くものなんだよ」
目に、沁みる。
塩味の痛みが、目を突き刺す。
雪が紅かった。
偽物の紅なんかじゃない。
本当の、血だった。
「僕は、もうすぐ死ぬみたいだね」
そんな言い方を、しないで。
「エリス。僕、君を弟子に採れて幸せだったよ」
僕は幸せなんてまだわからないよ。もっと、教えてほしいものがたくさんあるよ。ずっと、貴女と一緒に世界を見ていたいよ。だから——
「さよなら」
彼女の指が。最期を奏でた。
次の瞬間、雪谷の黒いローブが駆け抜けて、幸谷双糸が解けて。
僕は、『さようなら』も言わせてもらえないんだな。
それどころか、願うことも許されないんだな。
愛の言葉なんて、囁けないよ。
俯くことが精いっぱいだ。
僕は——貴女に死なないで欲しかった。
生きていて、欲しかった。
そばに居てほしかった。
笑ってほしかった。
なぜなら。
好きだった。
僕は、あの人が。
幸谷双糸という、殺し屋が。
大好きだったんだ。