019 久方ぶり
院の中に入るのは随分久しぶりだ。
少し饐えた空気の匂い。乾いていない雑巾の匂いと、ほんのりと夕食の残り香が漂ってくるのは食堂の方か。こつり、と裸足の足が当たるのは木の床だ。清掃を怠ったまま蠟を塗った床には髪の毛が模様を描いている。
「じゃあ、はーじめっ」
自分で自分に号令をかけて、まず初めに、すぐそこの食器棚を倒した。
がしゃぐしゃばりーんッ!
倒す途中に皿が端からどんどん零れ落ちて床と抱き合いながら崩れる。僕はテーブルの上に胡坐をかいてそれを眺めていた。さっき侵入する前に引っ掛けた糸を使えば、今の僕ならこの院のすべての家具・物体を自由自在に動かすことができる。もうすでに、この場所は制圧されたも同然だった。
騒音を耳にして駆けつけてきたシスターが、カーテンを開け放った窓からの月光を背に受ける僕を見て目を見開く。
「誰!」
「幸谷殺羅だよぉ?」
両手を広げてみせる。指の先につないだ糸が僕の影に現れた。
「幸谷」
シスターが右下の辺りに目を落とす。僕に殺しの技術を学ばせようと企んだ場所だ。幸谷という名前に心当たりがないわけがないだろう。
「んー。考えるの遅いぃ」
飽きたので殺してみた。
わざわざ、名前もないような技で血を流さないように殺してみたので、面白くなかった。
頸が変な角度に曲がって倒れている彼女を足で踏んで——転びかけた。良くない——、廊下に出る。かなり大きな音が出たはずなのに、誰も来ないのか。
ん。誰もいない。
小指を一つ引いてみた。
やっぱり誰もいないなあ。
もう、四十経ってしまった。双糸と会うのも時間の問題だ。
昔寝ていた部屋まで来た。なぜだか扉にかけられている鍵をノブ側からくりぬいて、扉の方は粉砕する。
——扉の粉塵を子供が吸い込んでも、傷つけたことにはならないだろう。
「こんばんはー」
子供と仲良くなるには挨拶だ。良く知らないけれど。
「誰だ」
思いもかけない方向から声がした。
嘘だ。
この建物全体にかけた糸のおかげで、何が何処にあるのかはわかっている。
「僕は、君がそこにいることを知っていた」
ベッドの下に隠れた、やや体の大きい男児。人差し指を軽く上げて、彼をベッドごと撥ね上げる。
「裁縫絶技、第八番。救命仁義、披荊斬棘」
ぶん投げる技。殺さないようにするには、こういうのを使うしかない。
「寝といてね」
多分、殺す技術を学んでいる子供なんだろう。僕に気づいて待ち伏せするなんて。
まー百年早いけど。
改めて廊下に出る。僕は寄り道している場合じゃない。
「院長ってどこだっけなー」
薬指も引いておく。
「あー、ここじゃん、ここ、ここ」
わー立派なドア(棒読み)。
でも壊してやるもーん。
うん。
僕は昔より陽気になった。