016 頃合い
結果として、僕は、死ななかった。
結論を先に出されるのが嫌いな皆さんには申し訳ないけれど、じらされるのが僕は嫌いだから。
「ェ?」
マイナスドライバーは、大きく振りかぶるのには向いていないと思う。
だってほら、硝子の方が圧倒的に殺しやすい。
「ナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデ」
そうやって、人間じゃないみたいに、馬鹿みたいに叫ばれるの、僕は嫌いだ。
とても嫌いだ。
「ああああああああ! 死にたくない!」
男は最後にそんな風に云って、全身をきらきらと光らせながら、仰向けに倒れた。
口から血を流しても、男はまだ生きている。僕が顔をのぞき込むと、男はビー玉の瞳をこっちに向けた。
「なーんだ。人間みたいな顔、できんじゃん」
僕は、男の頬をつついてやった。その時の表情も、ビー玉の瞳の奥に見える感情も、二つとも似つかわしい言葉は、『恐怖』だった。
「安心して、逝けば」
思わず笑みがこぼれた。男の目じりからこぼれたのは涙だった。
「うん。それじゃあ、ばいばい」
僕は、男の胸の上に乗った、試験管の底の部分を靴のかかとで押し込んだ。
木靴で良かった。
布の靴なら、足が濡れて気持ち悪いから。
またああいうのがやってきたら困るなあ、と思い、手提げ袋の中に仕えるものがないかなと覗いていると、聞き慣れた足音が聞こえた。
「リゼ!」
思わず立ち上がると、リゼは男の死体を見ているところだった。
「これ、エリーがやったの?」
背中で問われる。
「うん」
「やっぱり、そろそろ頃合いだと思った」
死体の検分を終えたらしいリゼは立ち上がった。頬に血が飛んでいる。
「リゼ、血。ほっぺ」
ハンカチを渡す。
「ん? ああ、こんなのいいよ。それよりエリーは?」
「多分大丈夫。ごめん、手提げ袋が」
手提げ袋は、男の血とリゼの試験管で真っ赤だったし、なおかつ振り回したり下敷きにしたり引っかいたり色々したせいで穴もたくさんだった。
「ああ、別にいいよ。もともと捨てるつもりだったし」
「リゼは、こうなるってわかってたの?」
「別に、ここまでとは思ってなかったけど。でも、町を出たくらいでわかったよ」
「何で、リゼを追ってきたんだろ」
「ふふ。こんなところで話すには、ちょっと危険すぎる内容だね、それは」
「僕は家に帰りたい」
「僕も同意見だよ」
いつものように、リゼは手を差し出した。僕がそれを握ったのもいつもと一緒だった。
違ったのは、二人の手の間に、ぬるりとした血の感触があったことだけ。
「やっぱり、頃合いだったでしょ」
「頃合いって?」
「ずっと、待ってたんだよ。エリーが、人のことを、想いのことを理解するのを」
すっ、と頬にリゼの手が添えられた。顔が近い。
「どういうことかわかった? 人を殺すこととは——自分が生きることとはどういうことか」
「……想いっていうのは、人を人らしくするものだった」
精神が崩壊して、自分が自分でないままに死んでしまうのは、人として美しくない。
自分がないまま夢の中で偽りの感情を顔にうかべて息絶えるよりも、ぎりぎりまで足掻いてそれでも死ぬ恐怖におびえながら目を閉じることもできない人間の方が、はるかに奇麗。
「想いがないまま死ぬなんて、奇麗じゃない。想いがない人間に殺された人間も、奇麗じゃない」
人の持つ感情がわかっていない、かつての僕のような人間が人を殺しても、それは奇麗にもならないし美しくもならない。僕が人を殺すためには、想いを持つ事が、人らしい感情を持つ事が必要だった。
「リゼは、これに気づかせるために僕を連れてきたんだ」
「思っていたよりも早かったよ。エリーの呑み込みが早かったから」
「……ありがとう」
人が持つ感情ってものに気づいてから言って見ると、感謝の言葉っていうのは喉を詰まらせるものだった。
それを聞いてリゼが浮かべる表情も、僕が簡単に作って誤魔化せるような単純なものじゃないんだって気付いた。
そんな風にして、——随分ゆがんだ形だったけれど——僕は生まれて初めて、人の心というものを手に入れたんだ。
「ねえ、リゼ。……お願いがあるんだ。——僕に人の殺し方を教えてほしい」