Ⅸ:a
「信じられない。ありえなさすぎる。こんなの買わされたの初めてなんだけど。しかも地味に重たいし……!」
やっぱり先輩は怒ってしまった。だって遠慮なく言えっていったのはそっちなのに。
「どうもすみません。でもすっごく助かりました。もうちょっとでアパートなんでがんばってください」
スーパーのビニール袋が重量の負荷で伸びきっている。なんとかビニールがちぎれる前に部屋に到着できた。
「これを一度に買う必要あった? 絶対にないと思うけど」
先輩は手が痛かったらしく、ずっと手をこすり合わせている。
「調味料切らしてたのは前からだったんですけど、特売日来るまで待ってたんです。でもなかなか安くならなくて。
でも先輩が買ってくれるんなら、ちゃんとしたメーカーの調味料そろえちゃおうかなって思って。さすがに一度に一人で持つのは大変だったんで先輩が持ってくれて助かりました」
「だからって調味料の類を全セット一度に買うことないだろ。しかも少量タイプじゃなくて大容量だし。一人暮らしのデビュー日かお前は」
「母がいつも言ってたんです。調味料はいいものを選んだ方がご飯がおいしくなるって。
自分で買うならスーパーのプライベートブランドの安いやつを買うんですけど、スポンサーがついてるなら老舗のやつを買ってもらおうかと思って」
「どうせ買っただけで満足して賞味期限切らすパターンだろ。もしかして『私、料理得意なんです』アピールとかか? 絶対に使わないだろ、椎茸とか昆布とか」
先輩がうんざりした顔をしている。
「これはたぶんすぐになくなると思います。毎日使ってるので」
私はスーパーの袋から出した鰹節、昆布、乾燥椎茸を乾物コーナーの引き出しにしまった。
「へー……、由紀乃って、わざわざ出汁とって料理すんだ……ふーん」
先輩が疑いの眼差しで私を見る。
「簡単なんですよ。乾物を細かくしたのをお茶パックに入れて、麦茶つくる要領で水を注いで冷蔵庫に入れておくと出汁ができてます。朝はこれでお味噌汁を作るんです」
冷蔵庫を開けて、使い残しの出汁の入ったプラボトルを見せてあげた。
中途半端に余った時は、お米を炊く時に混ぜてしまう。おいしいご飯の出来上がりだ。
「ふーん」
先輩が私の背後から近づき、しなだれかかってきた。
背中に先輩の体温が伝わる。
「それ、朝までいたら俺も飲めるのかな……?」
さっきまでの先輩の声とは違う、甘い声色――。
「帰らないんですか?」
私の声は硬い。
ギターの音で私の心情を察してしまう先輩だ。きっと緊張を見抜かれている。
「重たい荷物を運んであげたお礼があってもいいんじゃないかなって俺は思うよ」
首筋を何かが這っていく――。
先輩の唇と舌が伝っていく感触は、生温かいナメクジに這われたような、そんなことを彷彿とさせた。
「……シャワーはそこなんで、先使ってください。タオル出しとくんで」
私は顔を向けずに、指だけでユニットバスの場所を伝えた。
私の声は硬い。
自分でも分かっていた。
先輩の姿が見えなくなって、そっと息を吐いた。
私はきっと馬鹿なことをしようとしているんだろう。
けれど今さらやめるつもりはなかった。
その日私は先輩のものになった。
不思議なくらい、何の感慨も湧かなかった。
多くの女性がそれなりに憧れるはずの体験は、私にとってなんの価値もないものだった。
自分の身体が未使用品から使用済みになった。
ただそれだけのことだった。