ムカデを殺した
ムカデを殺した。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を思い出した。
カンダタが悪行三昧だった生前、たった一匹の蜘蛛を殺めなかったことをお釈迦様に評価され、お釈迦様がカンダタのいる地獄に、天国へと通じる蜘蛛の糸を垂らした話だ。
ムカデを殺した自分は、天国へは行けないのだろうと思う。
ムカデ以外にも、これまでたくさんの虫を殺した。蝿や羽虫、台所の黒光りするあいつ。小学生のとき、なかなか死なない蟻を靴の裏でぐりぐりとしてわざわざ殺したことがある。わかりやすい無闇な殺生だ。
もし、お釈迦様がいるとして、閻魔様がいるとして、そんな自分の悪行をお許しにはなられないだろう。虫を殺した自分には、蜘蛛の糸すら垂れてこない。
そんな空虚さと虚無感。ムカデの殺害後、そんなものが襲ってきた。
動機なんて大したことはない。ムカデがタンブラーの中に誤って落ちてしまい、ぺちぺちと音を立てながら、ひっくり返った体を戻そうとしていた。そのぺちぺちという音が煩わしくて殺した。
ただそれだけ。それだけの理由で殺した。
同じ理由で人が殺されることもある。人じゃないからいいじゃないか、と言っていいのだろうか。
自分は思う。人だろうが虫だろうが、生きている以上、等しく命だ。自分の命が危機に晒されたわけでもないだろうに、殺していい、なんてことがあるだろうか。
調べたわけではないが、何の気なしに見たアニメで、人間は生前に嘘を吐いただけで地獄行きとなると言っていた。そんなの、人類全員が地獄行きだ。まだ言葉を発せられない赤ん坊ですら賽の河原という地獄に送られるのである。人類はほぼほぼ全員地獄行きが生まれた時点で決まっているのだ。やっていられない。
ただでさえ生まれた時点で地獄行きがほぼ確定している自分が、生き物を殺す。業を重ねて何の意味があるのか。悪行三昧だったカンダタでさえ、蜘蛛を救って蜘蛛の糸にすがりつけたというのに、自分は蜘蛛の糸すら垂らされない鬼の所業を成している。
ムカデは透明なビニール袋に入れ、口を結び、最初は出られないようにして、窒息させてやろうと思った。自然に死ぬ方が理に沿っている、だなんて、善人ぶったことを考えたのだ。
だが、自分のありきたりな偽善は瞬く間にその醜悪さを明らかにした。思い至ってしまったのだ。ムカデがビニール袋に穴を開け、脱出を計ったら? またタンブラーなど、口をつけるものに寄ってきたら? ──おぞましい心地がした。そのときばかりは黒色の光るあいつよりもムカデの方がよっぽどおぞましいと思った。
だから、ムカデを潰すことにした。何とも浅ましいことに、手や足など、自分の触覚がはたらく器官で殺すことには躊躇感があった。殺す感触を知りたくなかったのだ。道具を使おうと、最終的に殺すことには変わりないのに!
タンブラーの底で、床にどん、どん、と打ち付けて、ムカデがぴくりとも動かなくなるまでそれを繰り返した。打たれるたびにもがくムカデが気持ち悪くて、早く死ね、と何度も、何度も。
そうして、ムカデがうんともすんとも言わなくなった頃、この世で最も気持ち悪いのが、特に何の害悪でもない虫けらを殺す自分だと気づいた。
自分がどん、どん、と音を立てるものだから、家族が訝しんで、問いかけてきたのだ。
「何をしているの?」
「ムカデを殺しているの」
答えて、自分ははっと我に返った。
何をしているのだろう、と思ってしまった。
気づかなければ、自分の正当性のみを信じて、今後の人生も生きていけただろうに。幸せに生きるとは、かくも難しきことなりや。
なぞと語ってきたが、自分はあくまで、神も仏も人間の創作物だと思って生きている。自身に信じる神はなく、すがる仏もない。今のところ、自称する通り、無宗教で生きている。
家に仏壇はあるし、神社に行ったら作法通りに参拝する。それはあくまで神への崇拝などではなく、その場に合わせた礼儀としてだ。無宗教を自称しているからと、無作法な人間になりたくはない。
地獄も天国もあろうとなかろうとどうでもいい。自分は一匹のムカデを殺した。そこに創作性を感じた。
自分にとってこの短い物語と大仰なまでの気づきこそ、このムカデの価値だったという話だ。