99話 急襲されて。
そうして常に周りを警戒しながら壁のすぐそばまで寄ってみるのだが、それでもその奥はまったく見通すことができなかった。目の前にあるのは、炭を塗りつぶしたような漆黒だ。
いったい、なにでできているのだろう、そもそも触れるのだろうか。
私は思わず手を伸ばす。
が、指先が届く直前のところで、一気に悪寒が襲ってきて、つい手を引っ込めてしまった。
その手首をリカルドさんがぱしっと握る。
「待った。まったく危険すぎるよ、マーガレットくん」
「……すいません」
「まったく君は。でも、触れられなかったみたいだね?」
「はい。なんというか、悪寒がして身体が勝手に遠のくというか……」
「なるほどね……。どうやら、これが瘴気に似た性質のものであることは間違いないらしいね。じゃあ、まずは浄化聖水を使ってみようか」
「あ、たしかに。それならもしかしたら壁が壊れてくれるかもしれませんね」
私は数あるポケットのなかから、蜂蜜を入れて作った浄化聖水を取り出す。
普通は全体に撒くように使うのだが、それを壁に向かって、打ちかけてみた。
すると、どうだ。浄化聖水は、壁の表面を伝うようにして流れていく。
それと同時、壁の色は薄い灰色へと変わっていき、奥がほんのりとではあるが見通せるようになった。
少し先に見えた景色には、見覚えがあって目が丸くなる。
「あれって……。たしかウルフヒューマンたちの集落ですよね」
「あぁ。前はすぐ手前まで入ることができたんだ。どうやら、この黒い壁は範囲を広げているらしいね」
リカルドさんが苦々しそうに言う。
その、すぐあとのことだった。
ここに近づいてはいけない。
そんな声が、身体に降りてきた。私ははっとしてあたりを見回すのだけれど、あたりにはリカルドさんしかいない。かといって、植物魔などの姿も見当たらなかった。
それに唖然としていると、壁は少しの内にまた元通りになっている。
「今のって……」
「なにかあったかい?」
リカルドさんには聞こえていなかったことで、私は確信する。
これは、もう何度か感じている、謎の感覚で間違いない。
久しぶりに感じたと思ったら、今度は「近づくな」と言う。
マウロさんが溺れた時は、この声に従うことで彼を助けることができた。
もし過去にならうならば、それに従うのが正解ということになるが、今度ばかりはそれに従ってはいられない事情がある。
今の感覚が気のせいでなかったのかどうかを確かめるためにも、私は壁に再び浄化聖水をかけてみる。
が、量を多くしてみても、薄くなったところをリカルドさんが剣で強く斬り付けてみても、その壁が壊れるには至らない。
「瘴気が濃すぎるんだ。どうやら浄化聖水じゃ、効かないらしいね」
「じゃあどうすれば……。瘴気を和らげるための方法は、現状、ほかにないですよね」
「あぁ。一から考え直すしかないだろうね」
「……そんな」
ここまできて、どうしようもないなんて。
私は悔しさから、思わず顔をうつむける。
と、ちょうどそのときであった。
音もなくそれは黒い壁の上から、視界に飛び込んできた。
鋭い鉤爪に、三つの首を持つオオカミの姿。
魔物だ。そうあとから認識したときには、私はリカルドさんにより突き飛ばされていた。
そして、地面に座り込みながら見たのは、リカルドさんの肩口から腰元を、ケルベロスのかぎ爪が切り裂く瞬間だった。
血があたりに飛び散る。
「り、リカルドさん!!」
私はそれが地面に落ちるのを見るや大きな声をあげて、すぐに立ち上がろうとするが、衝撃的な光景を見たすぐあとだ。
腰が抜けてしまって力が入らない。
「心配ないよ、浅い傷だ。心臓に届くようなものじゃない」
幸い、リカルドさんは軽傷だったらしい。
その後、剣に火を灯してケルベロスと対峙し、最終的には火球の技を使って追い払う。
その動きに、ぎこちなさなどは感じなかった。
「すまない、とっさのことだったから油断していたよ。突き飛ばして悪かったね」
リカルドさんは、剣をしまいながら笑みを浮かべて、私のほうを見る。
たしかに一見すると大きく血が出ているわけでもなく、大きな怪我には見えない。
それで一安心したのは、つかの間だった。
数歩歩いたところで膝がかくっと折れて、リカルドさんは地面にくずれ込む。
「リカルドさん!」
「はは、平気だよ。ちょっと疲れてるだけじゃないかな。ここまで長旅だったから」
そんなわけがない。
平気そうに言っているが、額には脂汗が浮かんで、長くて細い錦糸みたいな髪の毛がべったり張り付いてしまっている。平気なわけがないし、明らかに異様だ。
どうにかしなければと思い、とりあえず立ち上がったところで、壁の上を伝うようにして、今度は魔鹿が数匹、現れた。
鋭く立派で、殺傷力の高い角を携えた魔物だ。基本的には臆病な性格のはずだが、瘴気のせいか、こちらに敵意むき出しであった。
「また、魔物か。くそ、困ったな……どうしようか、火が出ないよ」
今の状態で、リカルドさんが戦えるわけがない。
こうなったら、私がやるしかない。そう思って、団子を手に構えるのだけれど。
そこで、遠くのほうからツルが伸びてきて、私とリカルドさんの身体を巻き取る。
『マーガレットさん、リカルドさん! 大丈夫!?』
ミニちゃんが助けに来てくれたらしい。
彼のことだ。休んでいていいとは言ったが、気になって、見に来てくれたのだろう。
「ミニちゃん、ごめん。とりあえず壁から遠ざかってもらってもいい? リカルドさんが怪我しちゃって……」
『任せてよ。さっきマーガレットさんがかけてくれたお水のおかげで、今は安定してるからね。飛ばすよ!』
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