83話 ともにふもとへ!
その日、マウロさんが再び中間地点まで戻ってきたのは、昼頃のことだった。
小屋の設備強化などのために持ってきた資材を積み下ろしてから、彼ははじめてギンと対面する。
「……マウロ・マエストリと申します。建築家でございます」
「ギンだ」
二人の会話は、実にぎこちなかった。
机の上で向き合って自己紹介をしあったまではまぁいいが、そこからは絶望的に会話が続いていかない。
「誰だ、この人」
挙句の果てには、ギンが隣のリカルドさんにこう尋ねて、
「本当に見たのは、はじめてですよ。耳も尾も、作り物かと思いました」
マウロさんは同じように、彼の隣に座る私の方に、こう感想を漏らす。
「……本物だよ、失礼な奴だな。こいつこそ置物みたいだ」
「ご気分を害されたのであれば、大変遺憾です。申し訳ございません」
「え、なに。難しすぎんだけど、あいつの言葉」
この言い合いも、本人同士ではなく、私たちへ話しかける体でなされる。
そんな状況で、私とリカルドさんはとりあえず、ギンを預かるまでに至った状況をマウロさんに伝えた。
結構衝撃的な内容だったはずなのだが、そこから話が弾むことはない。
「なるほど」の一言で断ち切られて、それ以上はなにも聞いてこない。
おかげで場には無言が流れるのだけれど……良くも悪くも、空気を読まないのがマウロさんだ。
「ともかくお二人には、一度屋敷まで戻っていただきたく思います」
なんの脈絡もなく、こう切り出してきた。
「下の畑で少々問題が起きているようですので」
問題と聞いて、私は少し考え込む。
下には、カーミラさんにフィランさんまでいる。対処できないことは、そうないはずだ。
なにかのイレギュラーが発生してしまったのかもしれない。
「……それはたしかに、戻ったほうがいいかもしれないな。もともとは、ここまで長く滞在するつもりじゃなかったし」
リカルドさんが顎に手をやり、思案顔で言う。
「マーガレットくんも、畑のことが不安そうだしね」
それから、私のほうへ軽く片目を瞑った。
なにも言っていないのに、しっかりと見抜かれていた。
そりゃあもちろん、不安じゃないといえば、嘘になる。が、下るとして、問題がないわけじゃない。
私はちらりと斜め前、ギンのほうを見やる。
「……俺は気にしなくていい、別に。もう動けるくらいにはなってる。だから、ここまででいいから、行ってこいよ」
すると、彼はあっさりとこう言ってのけた。
口調はいつもどおりの平静を装っている。
が、この間の食事のときと同じだ。そのしっぽと耳は嘘をつけないらしい。
いつもはぴんと立っているのが今日は頭に乗るくらい垂れているのだから、強がっているのは分かる。
どうやら彼は彼なりに、別れたくないと思ってくれているらしい。
そしてそれは、私もそうだ。
行きがかり上、世話をすることになっただけの関係で、いつかは別れがくることは知っていたけれど……
それが今というのは、少し急すぎる。
「つ、連れて行くっていうのはどうでしょうか! もう下まで連れていくくらいの体力は戻ってますし、でもまだ完全に治ってはないですし……いったん一緒に下りるのがいいと思います」
だから、私は思い切って提案する。
当の本人であるギンが「え」とだけ漏らす中、リカルドさんも「うん」と一つ首を縦に振ってくれる。
「ギンくんもまだ、集落には戻る気はないだろう?」
「そりゃ、戻るつもりはねぇよ、あんなとこ」
「じゃあ、一緒にふもとに降りようか。治りかけてるなら、リハビリがてら僕たちの作業を手伝ってくれないかな」
それは、いかにも彼らしい、提案であった。
たしかに人手はあれば嬉しいけれど、必須というほど足りていないわけじゃない。
が、この言い回しであれば、ギンのほうも首を縦に振りやすい。
うん、この流れならいける――
「差し出がましいですが、別に現状、人手は問題ございませんかと」
と思ったら、さっそく打ち壊された。
私は思わず、膝から崩れ落ちそうになる。
マウロさん、ある意味さすがすぎる!!
ただこんな返答でも、リカルドさんのほうは柔軟に受け止めて、笑みを崩さないまま返事をする。
「現状維持ならね。でも、人手が多ければ多いだけ開拓が進めやすいのは確かだろう?」
「それはその通りでございますが」
「うん、じゃあ決まりでいいかな」
むろん、とリカルドさんは顔をギンへと振り向けた。
「君次第だけどね。無理強いはしないよ」
「…………俺は、どっちでもいいけど」
「そうか。じゃあ、決まりだ。たっぷり働いてもらおうか」
「なっ、たっぷり?」
「はは、軽い冗談だよ。食事つきだからそこは安心してくれていいよ」
まったく素晴らしい手際だ。
場をまとめ上げるこの能力は、一級品と言える。
彼本人は嫌かもしれないが、この分なら役人として働いていたとしても、たぶん成功していたと思う。
おかげで、話が無事にまとまる。
その時点での時刻は、太陽の位置から見る限り昼前であった。
とはいえ、今から出ても降りる頃には夕方になる。
だから早々に荷物をまとめて、私たちは旅立ちの用意を済ませた気でいたのだけれど……そこへきて、マウロさんが言いにくそうに告げる。
「彼の匂いは、落としてからのほうがいいかと。カーミラ様が受け入れるとは思えません」
私もリカルドさんも、それからギンもきょとんとする。
が、考えても見れば、最初は匂いがしていた。
同じ空間に暮らすうち、いつのまにか慣れてしまっていたらしい。