80話 餌付け?
私は椅子を後ろへと引いて立ち上がる。
すぐにリカルドさんが私を守るように、右手を広げてくれる。
その状態で寝転がっていた獣人青年を注視していると、その赤い目がぱちりと開き、しっかり目線が合った。
その瞬間、青年の身体はぽわっと薄い白光に包まれる。そして瞬く間に、四本足で立つ獣の形になっていた。
変身する瞬間は、初めて見た。
が、素直に驚くことができたのは、ほんの一瞬だ。
次の瞬間には、おぞましいほど怒りの込められた緋色の瞳と唸り声で威嚇されて、首筋にぞっと寒気が走る。
それはリカルドさんも感じていたようで、彼は剣に手をかけるのだが、しかし。
またたきしているうちに今度は青年の姿に戻っていた。
変身するだけの力が残されていなかったのかもしれない。
青年は膝立ちの姿勢、刃物の様に鋭い獣の目つきでこちらを睨みつける。
「マーガレット君は離れていてくれ」
リカルドさんはまだ警戒を解いていなかったらしく、こう指示をくれる。
私はそれに従いつつも、ポケットを探って、チルチル団子を投げる用意を整えた。
その状態でにらみ合いすること少し、彼はばたりと地面に顔から崩れこんだ。
「えっ」
「おい、大丈夫か……?」
これには警戒をとかざるをえなかった。
私もリカルドさんも一歩前へと近づく。
そこで、ぐきゅーという、聞いたことがないくらいアンニュイな音が静かな夜の空気を割くように鳴り渡った。
「リカルドさん、今のって」
「……お腹の音だね、たぶん」
がつがつ。
そういう表現がしっくりくるくらい、見事な、そして豪快な食べっぷりであった。
お腹が空いて倒れた青年に、リカルドさんが急遽用意したのは、昨夜私たちが食べたものと同じ即席ローストビーフサンド。
即席とはいえ、細かい味付けまでこだわった最高の逸品だったのだが。
「……なんでも食べそうな勢いだな。餌付けしている気分だよ」
というリカルドさんの言葉通り、その食べ方だけ見ていると、本当に肉の塊だけでもよかったのでは? と思いたくなる食べっぷりだった。
前から見ていると、本当に獣の食事だ。
サンドを掴むというより、握りしめるように食べている。
――が、しかし。
その豪快な食べっぷりは長くは続かなかった。
青年は唐突にけほけほとむせ始める。
「まさか、食べちゃいけないものでもあったか?」
「いいえ、たぶん一気に食べすぎただけですよ」
私はスキルを使い、タケノキで作ったコップに水を注いでやって彼の前に置く。
それを手にして、ごくごくと一息に飲み干した。かとおもえば、その角張った目でじっとこちらを見つめてくるからなにかと思えば、
「……もう一回くれ」
ついに、口を開いた。
これまでは言葉を発していなかったから、喋れないのかと思ったらそういうわけではないらしかった。
私とリカルドさんは目をまたたきあって、驚きを共有する。
「もう少し、ゆっくり飲んだ方がいいよ。また喉に詰まっちゃうし」
それから一応、忠告しながら再び手から水を注いでやる。
「うるさい」
が、この一言でばっさり切られてしまった。
実際、まるで聞いてはおらず、彼は再び、一気に水をあおる。
「もう一回」
そして、再度おかわりを求めてきた。
そんな態度を取るなら、こちらにも考えがある。私は目を瞑るだけで、その要求をスルーする。
「なんだよ、けち臭いな」
「そんなこと言ってたらあげないよ。ください、でしょ。それとゆっくり飲むこと」
「……んだよ」
「いいから。ほら、くださいって言うの」
私がこう促すと、彼はぶぜんとした態度でため息をつく。
「…………ください」
が、水がもらえる実益を取ったのだろう。
最後には折れて、そのとおりにしてくれる。それで私は、彼のコップに水を注いでやった。
少しはコミュニケーションもとれた。さっきよりは話してくれやすいはずだ。
「それで、どうしてあんなところにいたの?」
私は獣人青年が水を飲み終えたところで、こう尋ねてみる。それに対して彼は一瞬、ぴくりと耳を反応させるが、結果的にはそっぽを向いてしまった。
「話してくれたら、もう一個同じものを作ってもいいよ。どうかな?」
そこで、リカルドさんが微笑みながら投げかける。
……実に彼らしい方法だ。
鞭ではなく飴。水をあげないことで要求を呑ませた私とは正反対である。
これには、獣人青年も気をよくしたらしい。
少しして、サンドをさっきより少しゆっくりと食べながら、もごもごと籠った声で言う。
「……普段は俺たち、もう少し上で暮らしてんだよ。そこは水も綺麗で、緑も豊かで飯には困らなかった。暮らすには十分だったし、つまんねえけど、生きていくにはいい場所だった。でも、それが最近、変わったんだ」
最近変わったものと聞いて、私はぴんときた。
「もしかして、川の水の汚れ?」
「あぁ。そう。急だったんだ、本当に、いきなり水に黒いのが混ざるようになって、そのせいで周りの植物は枯れたり変色したりして、どんどんだめになってった。このままじゃ、いつか飢えることになる。そんな状況だってのに、あの集落の奴らときたら、誰一人動こうとしねぇんだ」
獣人青年は、ちっと舌打ちを一つする。
「先祖代々ここで暮らしてきたから、とか知るかよ。こっちはたらふく飯も食えねえ場所になんかいられねぇ。それで夜中にこっそり集落を抜け出して……」
そこで彼は言葉を切ったが、ここまでの彼の行動を見ていれば、なんとなく分かる。
腹を空かせていたところ甘い香りに釣られていったら、魔蜂の闘争に巻き込まれた――とまぁ、そんなところだろう。
彼はじっとリカルドさんを睨むように見る。
「もういいだろ。つか、話したけど本当にくれるんだろうな」
「あぁ、ちゃんと教えてくれたからね。約束は守るよ」
ここでリカルドさんは立ち上がり、再び調理へと移る。
その行程を待ち遠しそうに眺める獣人青年の横顔と、そのゆったり揺れる尾を見ていて、ふと思った。
「そういえば、名前ってあるの?」
「……あるだろ、そりゃ。俺は、ギンだ」
「ギン、ね。珍しい名前。ウルフヒューマンはみんなそうなの?」
「ウルフヒューマン……。お前らはそんなふうに呼んでるんだったな、そういえば。ジジイ……族長に聞いたことがある。で、お前の名前は?」
「私? 私は、マーガレット。マーガレット・モーア。」
私がこう自己紹介すれば、彼はふっと鼻で笑う。
「変な名前だな、人間って」
一瞬むかっとしたけれど、これも文化の違いなのかもしれない。
だから、ここは大人になって、どうにか堪えた。