57話 優しい音
遠くの方から、その穏やかな高音は聞こえた。
真っ暗な視界の中、途切れつつ聞こえるそのゆったりとしたメロディは、まるで大河のように雄大で、また包み込むように優しげでもある。
まるで「こっちへおいで」と招かれているかのようだった。
もっと聞きたい、そう思った私の足は自然とそちらへと向く。
どれくらい同じ場所にいただろう。
はじめは思うように歩けなかったが、リズムを掴むとできる限りの早足でそちらへ近づいていく。
そうすると、視界はだんだんと明るくなって――そこで、やっと目が覚めた。
続いていた伸びやかな音が、そこで余韻を残して止む。
「やっと気づいたみたいだね」
「……リカルドさん? あれ、私――」
吊るされた明かりの眩しさに目を細めながら、私は身体を起こす。
が、全然頭が回らない。
少しの間、見慣れない部屋の景色をぼうっと眺めてから、
「外は……!? 嵐はどうなったんですか!!」
鮮明に蘇った最悪の記憶に、私はリカルドさんの方を勢いよく振り返った。
「つぅっ……」
起きて急に動いたせいか、頭が痛む。
けれど、こんなことを気にしている場合じゃない。
無理に顔をあげると、リカルドさんはバイオリンとその弓とを立てかけながら、いつもの穏やかな表情を変えない。
「大丈夫だよ。だから、もう少しゆっくりしているといい」
「大丈夫って?」
「あのあと、嵐はやんだんだよ。一刻もしないうちに、自然とやんだんだ。トレント達の様子も見に行ったけど、全員無事だ。怪我をしている個体もいたけど、致命傷じゃない」
「そう、ですか……」
トレちゃんの枝が折れて落ちた瞬間が頭にはよぎる。そのため無事の報告には、心底ほっとした。
私は大きく息を吐き、思わず後ろに倒れる。そうして窓から見えたのは、日の光が降り注ぐ外の景色だ。
また、がばりと起き上がる。
「君は本当に忙しい人だな。それに分かりやすい。君はずっと寝てたんだよ。倒れてからは、半日くらい経ったかな」
「は、半日も……?」
「うん。覚えているか分からないけど、魔力が暴走して倒れたんだよ、君は。狼狽していたようだったから、そのせいかもしれないね」
それなら、うっすらだが記憶にある。
どうにかならないかと必死になって願っていたとき、魔力が一気に身体の外へと放出されていったのだ。
「そう、ですか……」
私は手のひらへと目を落とす。
なにかの魔法が発動したのかと思っていた。
が、その時の感覚は返ってこないから、ただの勘違いだったらしい。
「ばかみたいですね、私。泣いてわめいて、結局なにもできてない」
「そんなことはないよ。たぶん君の祈りが届いたんだよ。だから、こうしてみんな助かった」
耳あたりのいい響きだった。
そうであれば、誰もが不幸にならない模範解答だ。
だが、次同じ事が起きた時にまた奇跡が起きる保証はない。
神様をまったく信じていないわけじゃないけれど、決して当てにしてはいけないこともまた知っている。
私は一人、先のことを考えて指を握りこむ。
しかし考え込むまでに至らなかったのは、
「お腹がすきました……」
もはや凹みそうなくらい、空っぽになったお腹のせい。
よく考えなくとも半日近く眠り続けていたのだ。
たくさん動いた分は、たくさん食べることを基本にしている私にしてみれば、エネルギー不足もいいところだ。
夜ごはん、大事、ほんと。
「はは、やっぱり忙しい人だね、君は。そう言うと思ったから、食堂に用意しているよ。昨日のメインだったウサギ肉の赤ワインソースがけと、かぼちゃスープに、ベーコンチーズパン。どちらも食べるといい」
聞くだけで、よだれが湧いてくるメニューだ。食欲に動かされて、私はのそのそとベッドから這い出ようとする。
がしかし、寝相が悪かったか毛布の下ではスカートがまくれ上がっているのを見て、慌てて毛布をかぶり直した。恥じらいから顔が熱くなる。
「えっと、その……少し部屋の外へ行っていただけると……」
申しわけないながらに言えば、リカルドさんは「あぁ、うん」とすぐに席を立つ。
彼が部屋から出るのを確認するなり、私はベッドを飛び出て、身なりを正す。
その時間、ほんのわずか。
私はすぐに扉を開けて、リカルドさんに「もう大丈夫です、すいません」と告げるのだけれど……
「寝てます?」
彼は廊下の壁にもたれかかりながら、腕組み。その姿勢で、うつらうつらと頭を揺らしているではないか。
そこへきて、長い睫毛の下がうっすらと黒ずんでいることに気付く。
美しいくらいに白い顔であるがゆえに、そのクマは目立ってしまっていた。
どうやら、ずっと起きていてくれたらしい。
たぶん彼は一晩中、私の側にいてくれたのだ。
日中から掃除に料理にとたくさん動き回って疲れていただろうに、朝になるまで、そこにいてくれた。ほんの少し気を抜くだけで眠ってしまうまで、限界状態になっても私が起きるまで待ってくれていた。
彼の奏でる音が優しいわけだ。
誰かのためにここまでできる人は、そういない。
彼の照らした光で、心の内にぽわりと日だまりができる。
その温かさに私がしばらく時間を忘れてリカルドさんを見ていたら、
「……あ、終わったかい?」
リカルドさんが眠そうながらにぱちりと片目を開く。
「はい。あの、リカルドさん。色々とありがとうございます」
私が頭を下げると、彼はこめかみを指で少し掻いた。
「まいったな。ばれないと思ったんだけど、油断したよ」
「油断もなにも、寝てなかったら眠くて当然です。もう寝てください。今日の家事は私がやっておきますから」
「……なにを言ってるんだい。君こそ病み上がりのようなものなのに」
「私の場合、ご飯いっぱい食べたら回復します。というか、もう回復しました。だから心配しないで休んでください。私だって一応、もともとは家事担当でこの島にきたんですよ」
私は「でも」と遠慮がちに言う彼を押し切り、食堂へと向かう。
ご飯を食べたら、と言ったが、その前からもう足取りは軽かった。