54話 少しの胸騒ぎ
それからというもの。
マウロさんは、ほんの少しだけ変わった。
といっても基本的には単独行動が多いし、相変わらず無口で言葉足らずではある。
が、本当に必要な時は頼ってくれるようになったし、壁の建設も少しは手伝わせてくれるようになった。
直接指導するのは難易度が高かったのか、手順書を手渡されるという奇妙な形ではあったが。
カーミラさんと二人、煉瓦の山の前に座りこみ、そのマニュアルに目を落として、思わず漏れるのは「うわぁ」という声だ。
「びっしり書かれてますね……」
「しかも小さいんだけど。あたし目悪いんだよねぇ」
もしかしたら自分の発言が誤解を生みがちなことを、マウロさんは悟ったのかもしれない。
細かい注意点まですべてが羅列されている。もはや高い魔道具を買ったときについてくる、長すぎる取り扱い説明書みたいだ。
頭から読んでいたら、日が暮れそうな勢いである。
「こんなの読む気しないって。マウロに言って、もう少し簡単にさせましょ」
「そうしてほしいですけど、マウロさんも一生懸命これを書いてくれたんでしょうし……。それに、あれ見てください」
私が顔を向けたのは、スファレ輝石のカッティング作業にいそしむマウロさんだ。
もはや声をかけるのがはばかられるくらい、集中している。刃物を持って、三白眼気味に目を血走らせているのだ。
「やめておきましょ、あれは。関与せぬ悪魔に障りなしよ。なんだか凄惨な光景が目にちらついたわ」
カーミラさんは両腕を抱えて、自分の肩をさする。
彼女が危惧しているような事態は起こらないだろうけれど、邪魔をしないほうがよさそうなのはたしかだ。
だからカーミラさんと二人、手順書の解読しながら作業を進めていく。
もう基礎は、マウロさんが固めてくれていたから、その上に煉瓦を積んでいく作業だ。
水で濡らした煉瓦を並べては、岸辺で採取した石灰石を原料に作った接着剤を塗り、また煉瓦を並べる。
その際に、煉瓦に着色をしてもいいらしい。これがまた結構にはかどる。
「ここに白が差し色であるとおしゃれかもですね」
「そうね……。あ、ここだけ並べ方を変えてみるのもいいかも」
なんて、だんだん楽しさを理解してきたところで、頬にぽつりときた。
見上げてみれば、いつのまにか空はすっかり灰色に染まっていて、分厚い雲が覆っている。
ついさっきまでは青空が広がっていたにもかかわらずだ。
「最近、なんか多いわね。こんなに雨が続くことって、本土じゃあんまりなかったかも」
「気候の違いが原因でしょうね。海辺ですし、天候が変わりやすいのかもしれませんね」
雲の大きさもまったく違う。
こんなに分厚く上に積みあがるような雲は、そう見なかった。
奥がまったく見通せないその灰色は、見つめ続けていると少しの胸騒ぎがする。
ただの雨だと思い込んでみても不安感がぬぐい切れない。
そのわけは、前にマウロさんの居場所を当てた時のような「なんとなく」とは違う。
頭によぎっていたのは、川の脇にそびえる崖に群生していたタケノキの白い花が、一斉に開花している様だ。
【開墾】スキルの説明ではたしか百年に一度しか咲かず、それが咲いたときにはタケノキはすべて枯れ、不吉なできごとが起きる。
そんなふうに書かれていた。
迷信かもしれないが、だからといって気にならないかといえば、嘘だ。
その時は、マウロさんの危機を表しているのかと思ったが……結果的には助けることができたうえ、無事にスファレ輝石も手に入った。
マウロさんとの絆が少しは深まったことを含めると、むしろいい出来事だったくらいだ。
とすれば、これからなにか起こっても不思議じゃない。
エルダーの花が、季節外れに咲いていたのも、引っかかっていた。あぁいう狂い咲きが起きる時は、なにか自然環境に変化があるときだ。
「マーガレット、どうしたの。なんかぼうっとしてる?」
カーミラさんの声かけで、はっと顔をあげる。
いえ、と首を振れば彼女は不思議そうにしつつも、「ならいいけど」と片付けを始めた。
「じゃあ今日は終わりにしましょう。濡れてできる作業じゃないし」
「そ、そうですね。濡れて風邪ひいたら大変です。マウロさんにも声かけてきますね」
「あ、あぁ、うん。よろしく頼むわね」
どうやらカーミラさんは、今のマウロさんを本気で怖がっているようで、話しかけたくないらしい。
片付けの手を早めるから、私はマウロさんの元へと歩み寄る。
「もう今日は上がりましょうか」
「まだ少し、作業をしたいのですが」
「部屋でやればいいですよ。それになんとなく、虫の知らせがするんです」
あくまで、嫌な感覚くらいの話だ。
具体的な説明をできず私が眉を落としていると、
「……そうですか、であれば今日はここまでにいたします」
マウロさんは素直に手を止めてくれた。
その後、リカルドさんやその部下の方々も畑へと出てきてくれて、全員で片づけをしたのち屋敷内へと引き上げる。
すると用意されていたのは、あたたかいエルダーティーだ。
それをすすって、ほっと一息つきつつも、私は窓の外へと目をやる。
「外が心配かい?」
「えっと、少しだけですが」
「心配なのは分かるけど、今はあまり気にしない方がいいよ。ずっと気を張っていても疲れてしまうだけだからね。こういうときは、中で本を読んで暮らしているくらいがいいよ」
「……はい」
リカルドさんの言う通り、あまり考えすぎるのはよくない。
私はそこで気持ちを切り替えて、彼の書庫に入っていた小説を借り、自室で読書にいそしむ。
時たま外を見やるが、小雨が続くだけ。
そのまま夕暮れどきを迎えて、どうやら杞憂だったらしいと思いかけたところで、それはほんの少しの時間で一気に来た。
「…………嵐だ」