とても可愛い私の妹
とある社交の場にて、アンリはわなわなと怒りで顔を赤く染めていた。
公衆の面前でこんな辱めを受けるだなんて!!
そう叫びたい気持ちでいっぱいだった。
少し離れた所には、アンリの姉であるヴィオラがいる。彼女の周囲には大勢の人がいて、彼女の話を聞いている。それは、傍からみれば微笑ましい光景なのかもしれない。ヴィオラは今現在、妹――アンリの事だ――の話をしていた。
アンリは元は貴族の生まれではない。
母は貴族の愛人で、その貴族の妻が亡くなった後貴族の家に引き取られた。
母を亡くしたばかりの姉。けれども今まで父の愛情を独り占めしていたといっても過言ではない姉。
そのせいでこちらは肩身の狭い思いをして暮らしてきた。けれども、こうして今日からは父と一緒に暮らせるのだ。
その日から、アンリの世界は大きく変わった。
そんな風に新たな生活に心弾ませて、ベルスコット家に足を踏み入れて早数年。
今まで貴族として贅沢していた姉はとてもずるい。アンリは今まで平民として、日々生きていくだけで精いっぱいな部分もあったのに、姉はそんな苦労をする事もなくぬくぬくと過ごしていたのだから。
綺麗なドレス。美しい装飾品。美味しいご飯におやつ。
そういった全てが羨ましくて、お姉さまずるいわ! なんて一体何度言ったことか。
お姉さまばかり綺麗なドレスを持っていてずるいわ。
ねぇこのドレス、私に下さいな。
そういって、目についたドレスをいっぱいもらった。
お姉さまの持っている綺麗な宝石。羨ましいわ。私なんて一つも持っていないのに。ずるい、ずるいわ。ねぇ、こんなにいっぱいあるのだから、いくつか私に下さいな。
そういって、高そうなやつを根こそぎもらった。
お姉さまのお皿のお肉の方が美味しそう。
お姉さまのケーキの方が大きいわ。
ずるい、ずるいわ。
そんな風に言って、アンリは様々なものをヴィオラから奪う事で優越感を感じていた。
姉から奪う事を父は特に何も言わなかった。叱られなかったことで、この行為は正当なのだと思い込む。
母は大きなお屋敷、美しいドレス、宝石にすっかり夢中になって毎日父といちゃついていた。
父もまた母と一緒にいることで姉に構う余裕はなかったのだろう。だからこそ、アンリは自由に振舞っていた。
一応貴族の家に入ったこともあり、礼儀作法を学ばなければ茶会も社交の場にも参加できないと言われてしぶしぶそこは学んだけれど、それだって姉はもっと以前から学んでいたのだから、それもずるい。
私だってもっと早くに学んでいたら、今頃はもっと優雅な振る舞いができたのに。
ヴィオラの持つ物何もかもが羨ましくて、自分もヴィオラと同じだけの物がないと我慢できなくなっていた。
まだ礼儀作法は完璧と言えるものではないようだけれど、それでも最初のころに比べれば随分と成長した。今なら生まれた時から貴族だったと言っても疑われるようなことはないだろう。
姉がいつまでも家にいることがないのはわかっている。
いや、もしかして家を継ぐ可能性もあるけれど、しかし父が退くつもりもなさそうだ。であれば、どこかの家に嫁に出るのだろう。
そのお相手は誰なのかしら。
いずれ私もお嫁に行くかもしれないけれど、どうせならお姉さまのお相手よりも素敵な方がいいわ。
そんな風に夢見ていたりもした。そして今、アンリには素敵な婚約者がいる。
その婚約者であるヒューバートは、アンリとは正反対に顔をすっかり青くさせていた。無理もない。
「えぇ、えぇ、最初はね、平民の出の妹なんて上手くやっていけるかしらなんて思っていたのですけれど。
でもそんなことは杞憂でしたわ。だってうちの妹、とても慎ましやかなのですもの。
平民がお金持ちの家で暮らせるとなればさぞ贅沢を望むに違いない、なんておじい様は仰っていたのですけれど、そんなことも全然なくて。
てっきり新しいドレスを大量に用意しなければならないのかしら、と思っていたのですけれど。
アンリったらわたくしのお古で構わなかったみたいで。えぇ、もう着れなくなったサイズのドレスを全部引き取ってくれましたの。わたくしてっきりお古は嫌だ、って言われると思っていたのに」
「まぁ、なんて健気な妹さんなのかしら」
「ティーグラム家の養女になった方なんて全部一から仕立て直すようになんて言ってたらしいのに、随分と分を弁えた妹さんなのね」
「えぇ、てっきりもっとわがままを言われると思っていたのに、全然そんなことはなくて。
それに装飾品も同じくで。わたくしがあまり使っていないネックレスやイヤリング、指輪なんかも全部まとめて引き取ってくれて。昔は身に着けていても、年齢とともにあのデザインはもうこどもっぽいかしら、と思って仕舞いこんでいたものだから、助かりましたわ」
「まぁ、装飾品もおさがりを? ノースリア家の後妻の娘なんて元平民だというのに身の程も弁えずにあれこれ手を出して家の財産使い込んで家を傾かせたのよね。見習ってほしいわ」
「仕方ないわよ、平民なのだからそこまで理解しろというのは酷でしょう? それに引き取った本人がそこをしっかり言い含められなかったのも悪いわ」
「本当に。わたくしが大事にしまいこんでいたお母さまの形見のドレスやお母さまから贈られた宝石などには目もくれず、そういった処分に困っていた物だけを選んで引き取ってくれて」
「まぁ、中々の目利きなのね。本当に高価な物には手を出さないなんて」
「よかったわね、弁えられる方で」
「うふふ、食事の時もね、一番美味しい部分を、と思って妹に出していたのだけれど、わたくしの事を思ってか交換してくれたりしたんですのよ。
お菓子だってそう。こうまで己の分を弁えてくれる子だなんて思わなかったから、本当にアンリが妹で良かったと思っているわ」
「まぁ……!」
「そうよね、そんな素敵な妹さんならさぞ可愛らしいと思えるものね」
「本当に。一から躾けなければならない事を考えていたのだけれど、そうはならなくてよかったわ」
くすくすと笑いが起きている。
とはいえ、その笑いは誰かを馬鹿にしているものではなく、本当にアンリの事を素敵な妹だと思って出ている笑いだ。微笑ましさを感じている者たちが大半らしく、周辺の淑女たちは扇で口元を隠しつつコロコロと鈴が鳴るような声で笑っている。
「あれらの処分はいずれ使用人や孤児院への寄付とする予定の物ばかりでしたけれど、妹が使用した後でも構いませんものね。むしろ新しく仕立てるつもりだった分の金額を孤児院に折角だからと寄付いたしましたの」
「まぁあ……確かにドレスなどは布をばらしてこどもたちの服として新たに仕立て直す、なんて言われていますけれど、寄付したというのであれば、あの孤児院もいよいよ立て直せそうですわね。腕のいい大工たちを紹介しておきましょう」
「そうですわね。聞けば雨漏りが酷いという話でしたもの。それらが直せるなら今年の冬は無事に乗り越えられそうですわね。以前訪問しましたけれど、あの建物で暮らすのは中々に大変そうでしたもの」
「えぇ本当に。あまりにも憐れで、本来するつもりだった以上に寄付してしまいましたわ。とはいえ、あの後病気にかかった子が出たらしくてその寄付金の大半は薬代へと変わったそうですけれど」
姉を含んだ他の女性たちの誰一人としてアンリを馬鹿にしているわけではない。
だが、アンリからすればいっそズバッと馬鹿にされた方がまだマシだった。
おさがりで満足する子で良かった。
そう言われているのをアンリはハッキリと理解してしまったのだ。
もし、ヴィオラから奪わなければ。
おさがりなどではなく、新しい、本当に自分だけのドレスが手に入っていたと知って今更のように後悔する。
今からでも新しいドレスを――などと言ったとして、そうなれば己の分を弁えている娘、という評価を下した周囲の令嬢・ご婦人たちがどういう反応をするか。アンリはそれがわからないほど愚かではない。いっそ愚かであったなら……と思わなくもないのだが、ともあれ、そんな事を口に出せば一瞬でこの場の者たちはアンリの敵に回りかねない。言えるはずもなかった。
それに、今もまだ話は終わっていないのだ。
「えぇ、それにね、婚約者のヒューバートも。
そんな妹の健気さに心を打たれたみたいで。わたくしとの婚約を解消して、妹と添い遂げると決めていただけましたのよ」
「あらっ、まぁ、ルーガン伯爵家のご令息が? あら、本当。貴女の妹の隣にいるのは間違いなく彼ね」
ヴィオラの言葉にちら、と複数の令嬢たちが視線を向ける。
「ルーガン家って野心とか隠しもしない感じだったから、てっきり侯爵家を取り込もうとでもしていたのでは? なんて囁かれてましたけど、そう、アンリさんと結婚なさるのね。私たち、ルーガン家のことを少し勘違いしていたかもしれないわ」
「わざわざ伯爵家から男爵家になるのにそれでも愛する人とともにいることを選ぶだなんて……今時中々ないお話ね」
あらあら、うふふ、くすくす――と、小さな波のような笑いが広がるもこれもやはり馬鹿にしたようなものではなく、微笑ましい話を聞いたとばかりの笑いであった。
ヒューバートはこの少し前に、ようやく自分が置かれた立場を理解してしまい、だからこそ顔を真っ青にしている。
ヴィオラの妹。そう聞いていた。けれども、後妻の娘でヴィオラとの関係はあくまでも義理であるという事を本当につい先程知ったのだ。
だからこそ、ヒューバートは姉ヴィオラとの婚約をアンリとの婚約に挿げ替えたとしても自分の立場はそう変わらないものだと信じて疑いすら抱かなかった。
だがしかし、元が平民の娘、と聞かされてそこでヒューバートは己の失態を自覚したのである。
侯爵家の婿として入れば、自分の家にも幾ばくかの恩恵があった。ヴィオラは美しい娘ではあったけれど、ヒューバートにとっては自分の実家と、自分の立場を盤石のものにするだけのお飾りくらいにしか思っていなかった。従順に自分に従うのであればいいが、ヴィオラの方が生まれながらに身分が上である事で、それなりに自分を立ててくれるが全てを自分に委ねるような事はしないだろうなとヒューバートは感じ取っていたからこそ、もっと簡単に自分の言う事を聞いてくれるだろう――扱いやすい女を選んだ。
姉と違って妹の方がこちらに素直に甘えてくるだけの可愛げはあったし、何よりこれなら簡単に侯爵家を取り込む事だって――そう、思っていたのだが。
それはアンリがヴィオラと同じく生まれながらに貴族の娘であった場合の話だ。
元が平民で、ベルスコット家の生まれでないのであれば話は当然違ってくる。
「おじい様がね、流石に引きとってすぐにまた平民に逆戻りはかわいそうだと憐れんでいらして。
だから妹には余っていた男爵の爵位を与えようという話になっていて。
どうにか貴族として生活させてやれるだけの男を、と婚約相手も探していたのですけれど。わざわざヒューバートが名乗りを上げてくれたのよ」
「あら、ガーランド様ってそういえばヴィオラ様とヒューバート様の婚約にあまりいい顔をしていませんでしたよね? では、さぞ喜ばれたでしょう」
「えぇ、今まであれだけ嫌っていたのに、アンリを選んだ事で少しだけ態度が軟化いたしましたの。わたくしには元々婚約者として紹介するつもりだった方がいるので、先日改めてそちらと婚約を結ぶことになりましたのよ」
「まぁ、まぁまぁまぁ! それってもしかして……!?」
「えぇ、貴女の思っていらっしゃる方ですわ。隣国から彼が戻ってきたら、改めて発表するつもりよ」
きゃあ♪ と弾んだ歓声が小さくはあるがそこかしこで沸き上がった。
「なるほどね、あまりにも思い上がり甚だしい元平民の妹かと思いきや、とてもよくできた娘さんじゃないの。持ち物だってお古でいいし、本当にヴィオラ様が大切になさっている物には手を付けずでしょう? 一歩間違えば物乞い同然ですけれど、その線引きは弁えてらっしゃるようですし」
「それに、本来望まぬ婚約だったヒューバート様を引き受けてくださったのでしょう? 素晴らしいわ、そこまで体を張れるなんて、そう無いですもの。引き取った恩を果たそうとしてらっしゃるなんて、なんて忠誠心かしら」
「そこまでしてくれるなら確かに余った爵位を与える、と考えたガーランド様のお気持ちもわかりますわ。だってこの国の法に当てはめて考えたら、ヴィオラ様のお父様はベルスコット家の権限なんて何一つ持たないでしょう? 元は庭師でしたっけ? ローズ様が見初めて結婚したからこそ貴族の仲間入りを果たしたようなものですけれど、ベルスコット家の当主には決してなれませんし、ローズ様が亡くなられたあとで後妻を引き入れるとは……となりましたが、これだけ忠義ものの妹がいたならば引き入れた理由も窺えるというもの。
ヒューバート様も元は伯爵家の人間ですし、貴族生活に不慣れなアンリさんを手助けするなら何も問題のない相手ですものね」
ヴィオラを囲んで話に花を咲かせている女性たちは誰一人としてアンリとヒューバートを馬鹿になどしていない。本心から祝福している。
けれども。
アンリもヒューバートも、致命的なまでに愚かというわけではなかった。
今までこんな簡単な事実に気付けなかったという時点で愚かしくはあったが、それでもどうしようもない、という言葉が付くほどではなかった。だからこそ気付くしかなかった。
アンリは自分の父が侯爵家の人間だとばかり思っていた。
けれども思い返してみればどうだろう。
ヴィオラの母が亡くなった後、確かに彼はアンリと母を家に引き入れてくれたけれど、貴族らしい仕事をしているのを見たことはない。毎日母といちゃいちゃしていたが、そういえば母は茶会にも夜会にも誘われる様子がなかった。
アンリはお姉さまばかりずるいわ、とお決まりのセリフでどうにか参加しようとしたけれど、最低限の礼儀作法ができなければ貴族じゃなくたって王族ですら参加は許されないのだと言われ、しぶしぶ作法を学んで参加することができるようになったが、作法を覚える様子もなかった母は相変わらずだ。
だが、今しがた聞こえてきた周囲の話では父は元々はベルスコット家の庭師だったという。
それを、ベルスコット家の令嬢であったローズと恋に落ち身分を超えた結婚。
ローズの父でありヴィオラの祖父でもあるガーランドはそれを正直良しとしていなかったようだが、娘の幸せそうな姿に一応は夫婦である事を許していた。
女当主だったローズが亡くなった事で、ベルスコット家の現在の執務などは現在ガーランドが請け負っているらしいが、いずれはヴィオラに引き継がれる。それも、どうやらガーランドが本来ヴィオラの結婚相手に、と思っていた相手と共に。
この国の法、と言われて一応アンリもそこまで詳しくはないが学ぶことになったので大まかには知っている。
父は元は貴族でもなんでもないのだから、ベルスコット家で我が物顔で生活できるはずがないのだ。
それでも滞在を許されていたのは、ひとえにアンリがヴィオラにとって不要なものを引き受けていたからにすぎない。
だからこそ、アンリには爵位が与えられる事となった。
自分が、侯爵家の人間として生活できるわけではない。
むしろヴィオラを押しのけてまでそうしようとすれば、その場で罪となり捕えられ、法に基づいた罰が与えられる。
アンリの父は確かに侯爵家で過ごしていたが、本当の貴族ではなかったわけだし、アンリの母だって生まれた時から平民だった。
平民同士。そこから生まれた子が貴族であるはずがない。
だがそれでも、アンリには爵位が与えられ貴族としての暮らしはできる。
とはいえ、侯爵家ではなく男爵家だ。
恐らく今までのような暮らしは望めない。
そして、そこには間違いなくアンリの両親がついてくる。
伯爵家の生まれで貴族としては確実にアンリよりも先輩であるヒューバートがいるが、今後の事を考えるととてつもなく厳しい暮らしが待っているという事を、アンリはこの場で悟るしかなかった。
今まで姉から何もかもを奪った気になっていたけれど、その実すべてが姉にとっては不要な物。綺麗なドレスも装飾品も、ましてや男ですらお下がりでしかなかったのだ。
ヒューバートもまた己の状況を理解するしかなかった。
しくじった! 最初に強く思ったのはそれだ。
本来ならば侯爵家の婿として取り仕切れるはずだったのに、アンリを選んでヴィオラとの婚約を解消、アンリとの婚約を結び直したという話はとっくに社交界に知れ渡っている。
今まではちょくちょく実家からきていた連絡がぱたりと途絶えたのはどうしてだろうかと思っていたが、実家は知っていたのだ。そして自分は実家から見放された。
ルーガン家には既に跡継ぎがいる。ヒューバートの兄だ。だからこそ自分は家の勢力を強めるための政略の駒となる事が定められていた。それに対してヒューバートが否やを唱える事もなく、ガーランドが渋っていたようではあったがそれでもローズが生きていた時にどうにかして婚約を結んだというのに。
既に引退し現当主だったローズが認めたのだから、無理に引き離されることもない。そう安心していたのが悪かったのか。
恐らくは貴族としてようやく人前に出られる程度には見れるようになったアンリの言葉にまんまと騙された。
お姉さまばかりずるいのよ。そういってめそめそと泣くアンリは年齢のわりに幼さを残していたが、同時にとても扱いやすい存在だった。どうせ侯爵家に入り込むのだから、味方として使えそうな駒は増やしておいて損はない。そんな気持ちで優しくした事そのものが無駄だったのだ!
同じベルスコット家の令嬢なら、アンリの方が従わせるには容易だと。そう判断してアンリとの婚約を結ぶ事にしたというのに。実際は平民の娘だった! 騙されたとしか言いようがない。
実家がヒューバートと連絡を取らなくなったのは当然だ。向こうはとっくに見限っていた!!
折角伯爵家の人間として教育を施してきたというのに、よりにもよって男爵家の婿になるだなんて両親はさぞ怒髪天を衝いただろう。今までの教育にかけたなにもかもが無駄になったと言う姿が、ヒューバートには簡単に想像できてしまった。それだけならばまだしも、きっと両親も兄も、あれは失敗作だったな、なんて言っているだろう事も簡単に想像できる。
知らなかった。違う、そうじゃない。
そう言ったところで意味はないだろう。間違えた選択をしてしまった時点で、彼らにとってもうヒューバートは無用の存在なのだ。
恐らくは既に縁切りもされているのではないだろうか。
だとすればここでアンリとの婚約を破棄すると宣言したところで帰る家すらないだろう。
しかも、しかもだ。
アンリと結婚したとして、男爵家としてどうにか貴族でいられる事はできるようだが、そこには生まれた時から今に至るまで平民であるアンリの両親がついてくる。
しかも、恐らくは自分たちが貴族であると勘違いした状態で。
それを考えるととんでもなく面倒なことになっているのは間違いない。
爵位を与えられているのはアンリだ。
ヒューバートはヴィオラと結婚していれば何も問題なかったが、アンリと結婚した場合元伯爵令息であるという事実は残れどルーガン家を継ぐわけではない。ルーガン家に他に余っている爵位でもあって、それを賜っていたならばまだしも、そうではない。
アンリと結婚しなければ、間違いなくヒューバートは市井に下るしかない状況だ。
この国の法に則って考えるなら、ヒューバートの身分は現状とても危うい状況であった。アンリが貴族となったとしても、この女一人で貴族であり続けられるはずもない。元が平民であるならば、今持ちうる貴族としての知識は本当に必要最低限だろう。それと、彼女の両親。自分が手綱を握らねば、早々に没落するのは目に見えていた。
少し前まで怒りで顔を赤くしていたアンリも、今後の生活が決して楽なものではないと薄々感じ取れてきたのか、見れば顔色が悪い。きっとヒューバートも同じような顔色になっているだろう。鏡を見なくてもそれだけは理解できた。
話の中心になっているヴィオラは、果たしてそれに気づいているのだろうか。
気付いていたとしても、もうきっとなんとも思わないだろう。
妹はとてもいい子ですのよ、なんて褒めている彼女は、こちらが今後の未来を想像して顔色を悪くさせているなど思ってもいないだろう。ヴィオラの中では不用品を引き取ってくれる心優しい妹に、そんな妹に自分の身分を捨ててまでついてく事にした男だ。見ずとも幸せそうにしている、と信じて疑っていないに違いない。
周囲はヴィオラと違い、多少の悪意を含んでいるかもしれないが、見事にそれらを表に出すことはしていない。だからこそ、アンリは何も言えない。もっと悪しざまに自分のことを言われているのであれば、口を挟むことができたかもしれない。けれども、周囲は褒めているのだ。それに対して激昂するような真似をすれば、ヴィオラに対して悪意を持っていたとみなされる。そうなれば、この場にいる貴族たちのほとんどが敵に回るだろう事は簡単に想像できる話だった。
アンリとヒューバートに残された選択肢は、その実たった一つだけだった。
彼女らの誉め言葉を肯定するように受け入れるしかなかったのである。
「えぇ、えぇ、本当に。妹が――アンリがお下がりだけを欲しがる子で良かったわ」
まるで聖母のような慈愛に満ちたヴィオラの表情と声は、しかし二人にとっては地獄の片道切符でしかなかったし、引き返せる道はとっくに失われてしまっている。
周囲から柔らかな声が降り注ぐたび、アンリとヒューバートの身体は冷たい氷の中に沈んでいくかのようであった……