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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【終章:後】 致死量の、
91/92

90  『深愛。』  雨宮糸子




 今夜は父が揃って家を空けるというのに、こんなに(おそ)くなってしまうとは、迂闊だった。

 帰りに、雑貨屋なんて寄ったりするから。


 別に会話が弾んだわけじゃないし、別れを惜しんだつもりもない。やっぱり、ただの迂闊だったのだ。あの男は関係ない。原因は寄り道、雑貨屋のせいだ。

 あたしらしくない衝動買いなんてするから。


 駆け足で帰宅しリビングへ直行する。



「ただいま。」


 帰宅すると、ひのでは絨毯の真ん中辺りで横たわってテレビを観ていた。


「おかえ……り、」


 しかし様子がおかしい。意識はあるけれど、身体だけ一時停止しているような違和感のある体勢。表情も固い。

 大方を察して彼女の足元でしゃがみ込む。


「……脚、つった……」

 やっぱり。


「最近……寝起き、いつもだ……。」

「まあ、妊婦あるあるよね。」


 あたしはひのでの足裏を手のひらでぐっと圧した。妊娠後期は何かと身体が忙しない。


 痛みが治まるとひのでは、絨毯へ放るように足を伸ばした。彼女は全体的に細いから、三十五週を迎えた(はら)がやけに目立つ。

「遅くなって悪かったわ。」

 短時間とはいえ、来週には臨月の彼女を一人放置してしまったのが、職業柄うしろめたくなった。

「ううん。さっきまで八重(やえ)さんがいてくれたから。」

 ひのでは首を振って、父が夕飯の用意をしてから出て行ってくれたのだと、キッチンを指した。


「……ねえ糸子(いとこ)、今日の香水って、」

 続けて、あたしにも指をさす。

 しまった。今は嗅覚が過敏になっているんだった。


「ごめん、きつい?」

「いや、そうじゃなくて。いつものと違うなって思ったから。」

 もう一度首を振る彼女に、原因不明のむず痒さが生じる。


「あんたって、兄貴よりずっと男前ね。」

「え?」

「あたしが香水つけてることさえ気づかなかったのよ? あの男。」


 言わなかっただけかもしれないけど。

 渇いた笑いを当て所もなく落として、洗面所へ向かった。






 産前産後の彼女を雨宮家(うち)に置く理由。そんなもの、細かい事を挙げればきりがないけれど、これといった決定打もまた、無い。


 彼女の母……庭木(にわき)(あきら)には、既に新しい家庭があること。そもそも戸籍上の親は、父の皆口ひずるだけであること。皆口の実家に若手は不在だってこと。よって縁戚からの助力は望めないこと。父一人娘一人家庭での産後生活は、あまりに無謀なこと。

 たまたま、あたしたちがルームシェアをしていたこと。


 そこに更に付け足すのなら、なぜかうちの父達がやたら乗り気であったり、あたしの職業だったり父の職業だったり、なぜかひのでと父達の馬が妙に合っていたり……

 つまりきりがないどころか、成るべくして成った状況なのだ。



 顔を洗って部屋着に着替える。鞄をしまう際に、本日持ち歩いていたエコー写真を取り出した。

 モノクロに写る、輪郭のぼやけた小さな命。

 ひのでの、子。


 早くこの子に会いたい。素直にあたしは思う。


 もしかしたら、母親(ひので)以上に想っているかもしれない、と、不安になるほどに。

 だから、今日のあいつの発言には少々むっとしてしまった。男なら、ましてや独身ならば仕方がないと、理解はしていようとも。




「写真、ありがと。」

 リビングに戻ってすぐエコー写真を返した。ひのでは「急がなくてもいいのに」と言いつつも、受け取るなりじっと写真をみつめた。そんな彼女を、あたしはみつめる。


「「よくわからない」、ですって。」

「……え?」

「あんたの兄貴の、その子に対する感想。」


 お門違いだと重々承知で、あいつの腑に落ちない発言について愚痴った。ひのでは一瞬だけ真顔を向け、またエコー写真に視線を戻す。


「男だし……しかも独身なら、それがふつう、じゃないかな。」


 そしておもむろに言った。あいつを擁護するでもなく、あくまで一意見のように淡々と。本当はあたしも理解しているのと同じ思いを口にする。


「それ、母親が言う?」

 あたしは小さく吹き出した。

「……ごめん。」

「なんで謝るのよ。」

「なんとなく。」

 なんだかすっきりして、彼女と同じように絨毯へ足を伸ばす。


「あんたは会わなくてよかったの?」

 今度はあたしがおもむろに言った。

「何が?」

「兄貴。せっかく東京(こっち)来たのに。」

「……。どうせ産まれたら来るだろうし。」


 確かにそれもそうか。納得と同時に、今日のあいつについてまた思い出す。


「そういえばあいつ、出産祝い何贈ろうって意気込んでたわよ。」

「……。……あいつ、センス無いからな……。」

 大方察するわ。もう一度、小さく吹き出してしまった。


 あたしからは何を贈ろうかな。兄に期待できないならせめて、あたしくらいこの子の期待に沿えるものを贈りたい。しかし彼女の物欲は思った以上に難しい。たいてい聞いても、「特にない」か「別にいい」なのだ。

 だけどこっちも引き下がれない。後にも先にも、贈り物を渡す相手(ともだち)なんて、いないだろうから。


「あたしからは何がいいかしら? 出産祝い。」

 だから今日もまた、手応えがないとわかっていても聞く。


 ひのでは珍しく悩んだ。

 「特にない」も、「別にいい」も言わず、少々の沈黙を漂わせたのち、



「ボールペン。」

 ぽつりと言った。



「糸子がずっと持ってる、あの白銀のボールペンが欲しい。」


 あたしは暫しきょとんとしたあと少し呆れて、「変な子。」と溜め息まじりの笑いをこぼした。


「いいわよ。お祝いとは関係なしに、あげる。」

 彼女は相変わらず読めない。そういう意味では充分、あいつの妹だ。


「……でも、交換条件。」


 あたしもひとのこと、言えないけれど。


「交換条件?」

「ええ。ひので、頼まれてくれないかしら?」

 言うなり、あたしは雑貨屋で衝動買いした、包みをひらいた。






 ────がちゃん


 狭く集中した圧迫感がほんの一瞬のみで、痛みはほとんど感じなかった。ただ、やはり耳という位置での行為のせいか、突き刺す瞬間の音には正直、身構えた。

 あとは単純に違和感。左の耳朶に乗る微かな重みと、じんわり帯びてくる熱。


「できたよ。」

 ピアスホールの開通を、ひのでは淡々と報告する。

「ありがと。」

 あたしも大きな反応はせず、感謝だけ伝える。


七生(ななせ)さん、卒倒するんじゃないかな。八重さんは笑いそうだけど。」

 父達それぞれの反応を、ひのでは的確に言い当てた。

「三十路前の娘に対しては、妥当な反応だと思うわ。」

 大いに同意しながら、『交換条件』の品であるボールペンを彼女に渡した。

 高二の夏から十年以上、詰め替えては使い続けている白銀のボールペン。

 ひのでは受け取ると、まるで抱きしめるみたいに、きゅうと両手で握った。


「どうして、急にピアスなんて開ける気に?」

 そして唐突に聞いてきた。


「気の迷い。」

 あたしは即答する。

 ひのでは「え?」と聞き返す。


「冗談。」

「……らしくない。」


 拗ねるようにそっぽを向くひのでの耳には、あたしのピアスホールなんかとは比べ物にならない数の、点状の傷がみえた。

 正確には傷痕だ。かつて彼女を飾った数多くのピアスホールが、ほぼ鎖されている。

 唯一、左耳朶のひとつだけを除いて。


「ここだけ、残しているのよね。」

 たった一つだけ、樹脂ピアスが刺しっ放しの左耳に、あたしは意地悪く触れた。

「これだけは塞がない。」

 ひのでは無抵抗に、触られながら答える。


「最初に……あけたピアス、だから。」

 まっすぐ見据えてくる彼女に、思わず手を離した。



「…………ねえ、ひので、」


 やっぱり兄妹だ、よく似ている。あたしを見る顔つきが、おんなじ。

 ……だから、なのかもしれない。


「そろそろ、あたしにだけは教えてくれない?」


 これも気の迷いなのか。

 あの男と同じ瞳へ見据え返しながら、あたしは口を開いた。



胎の(その)子の父親。」



 みつめるほどに錯覚する。

 この、うつくしい、皆口ひのでという女に。



 ひのでは、読めない表情をあたしに向けながら、やがて静かに唇を動かした。




「モモカ。」




「………。」




「…………冗談。」


 張り詰めていた空気がとけ、あたしもひのでも、いつもの二人に戻る。


「冗談が面白くないのは、兄ゆずりのようね。」

 素っ気なく言い捨ててやると、そんな態度には不相応に、ひのでは小さく笑った。

「何がおかしいのよ、」

 じゃっかんむきになって、聞く。


「糸子、さっきから(あさひ)の話ばかり。」



「……。」

「ねえ、糸子、」



 ……ああ。

 本当に、あの男は、



「旭のこと、愛してた?」



 消えてなくならない。



 あたしは微かに笑う。もうむきになるのはおしまい。余裕を見せて、ひのでに向けてお姉さんぶって、笑う。


「あんたたちって本当に兄妹だわ。」

 ひのでが不思議そうに小首を傾げる。素直な分、この子のほうがかえって読めない所も多いけれど、あいつよりずっと可愛げがある。

 だからあたしも晒す。



「あいつは毒よ。今も昔も。」


 この子にだけは、出来る限りの本音を。



「もう十年よ。全然抜けきれてくれないわ。」



 消えない。消えてくれないの、あの男は。


 きっとこれから先の人生、ずっとあたしのなかに居続ける。

 ずっとあの人と生きて、永遠にあたしの願いを叶える。



 そのくらい当然でしょ?

 じゃなきゃ割に合わないわ。





 (あさひ)





 あたしの 猛毒







「────糸子(いとこ)、」


 呼び掛けに視線を戻すと、正面で座るひのでが大きな(はら)を撫でている。


「けってる。」

 慈しみのなかに残る少女の顔に、胸が高鳴る。

 同時に、彼女の手の甲に薄っすらと残る古傷に、胸がしめつけられる。

 彼らを、守ってくれた、(あと)


 胎を撫でるその手に、あたしは手を重ねた。


「……楽しみね。」

 その瞬間、胎動が返事のように二人の手へ伝わり、あたしたちは顔を見合わせて吹きだした。

 笑顔の延長で、ひのでは目をほそめた。


「私、この子に、……りぼんの付いたドレス、着させたい。」


 どこか遠慮がちに言う。


「大きくなったら、一緒に目一杯おしゃれして……おでかけしたい。一緒にケーキ食べたり、恋愛相談や内緒話だって……したい。」


 おずおずと連ねる言葉と一緒に、視線が泳ぐ。


「せっかく、女の子……産むんだから。」




「そうね。できるわよ。」

 肯定すると、ひのでは視線を留め目を丸くした。

 唇がかすかに震えている。でも、また笑う。


「そのときには、……あなたにも一緒にいてほしい。」


 なにそれ。あたしも笑う。



「ええ。楽しみ。」



 でも大変よ。

 まずは出産。人生一番の大仕事が控えてるわ。しかもそれで終わりじゃないんだから。四時間おきの授乳、夜泣きに寝かしつけ。眠れない日々の始まりよ。

 まあ、やる気だけは満々の子育て経験が怪しい男二人ならいるから、好きなだけ扱き使ってちょうだい。あたしもおむつくらい替えるし、哺乳瓶くらい、洗うから。


 あたしは散々お姉さんぶって、彼女の大きな(はら)を撫でた。



「……早くこの子に会いたい。」



 素直にあたしは思う。


 それはもう悔しいことに、こんなにも待ち遠しくて、


 狂おしいほどに、愛おしい。











雨宮(あめみや)糸子(いとこ) 28歳 八月一日生まれ O型


東京都渋谷区出身

実親は年の差夫婦。出生後すぐに実父を亡くした影響もあり、実母は産後鬱の末育児放棄。

異母兄である雨宮(あめみや)七生(ななせ)と、彼のパートナー・八重(やえ)伊織(いおり)、二人の『父』のもとで育てられる。

退学後、高卒資格を取得し看護大学に進学。

看護師資格と助産師資格を、4年次同年度に取得。

卒業後、異母兄が院長を務める産婦人科に就職。

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