90 『深愛。』 雨宮糸子
今夜は父が揃って家を空けるというのに、こんなに晩くなってしまうとは、迂闊だった。
帰りに、雑貨屋なんて寄ったりするから。
別に会話が弾んだわけじゃないし、別れを惜しんだつもりもない。やっぱり、ただの迂闊だったのだ。あの男は関係ない。原因は寄り道、雑貨屋のせいだ。
あたしらしくない衝動買いなんてするから。
駆け足で帰宅しリビングへ直行する。
「ただいま。」
帰宅すると、ひのでは絨毯の真ん中辺りで横たわってテレビを観ていた。
「おかえ……り、」
しかし様子がおかしい。意識はあるけれど、身体だけ一時停止しているような違和感のある体勢。表情も固い。
大方を察して彼女の足元でしゃがみ込む。
「……脚、つった……」
やっぱり。
「最近……寝起き、いつもだ……。」
「まあ、妊婦あるあるよね。」
あたしはひのでの足裏を手のひらでぐっと圧した。妊娠後期は何かと身体が忙しない。
痛みが治まるとひのでは、絨毯へ放るように足を伸ばした。彼女は全体的に細いから、三十五週を迎えた胎がやけに目立つ。
「遅くなって悪かったわ。」
短時間とはいえ、来週には臨月の彼女を一人放置してしまったのが、職業柄うしろめたくなった。
「ううん。さっきまで八重さんがいてくれたから。」
ひのでは首を振って、父が夕飯の用意をしてから出て行ってくれたのだと、キッチンを指した。
「……ねえ糸子、今日の香水って、」
続けて、あたしにも指をさす。
しまった。今は嗅覚が過敏になっているんだった。
「ごめん、きつい?」
「いや、そうじゃなくて。いつものと違うなって思ったから。」
もう一度首を振る彼女に、原因不明のむず痒さが生じる。
「あんたって、兄貴よりずっと男前ね。」
「え?」
「あたしが香水つけてることさえ気づかなかったのよ? あの男。」
言わなかっただけかもしれないけど。
渇いた笑いを当て所もなく落として、洗面所へ向かった。
産前産後の彼女を雨宮家に置く理由。そんなもの、細かい事を挙げればきりがないけれど、これといった決定打もまた、無い。
彼女の母……庭木陽には、既に新しい家庭があること。そもそも戸籍上の親は、父の皆口ひずるだけであること。皆口の実家に若手は不在だってこと。よって縁戚からの助力は望めないこと。父一人娘一人家庭での産後生活は、あまりに無謀なこと。
たまたま、あたしたちがルームシェアをしていたこと。
そこに更に付け足すのなら、なぜかうちの父達がやたら乗り気であったり、あたしの職業だったり父の職業だったり、なぜかひのでと父達の馬が妙に合っていたり……
つまりきりがないどころか、成るべくして成った状況なのだ。
顔を洗って部屋着に着替える。鞄をしまう際に、本日持ち歩いていたエコー写真を取り出した。
モノクロに写る、輪郭のぼやけた小さな命。
ひのでの、子。
早くこの子に会いたい。素直にあたしは思う。
もしかしたら、母親以上に想っているかもしれない、と、不安になるほどに。
だから、今日のあいつの発言には少々むっとしてしまった。男なら、ましてや独身ならば仕方がないと、理解はしていようとも。
「写真、ありがと。」
リビングに戻ってすぐエコー写真を返した。ひのでは「急がなくてもいいのに」と言いつつも、受け取るなりじっと写真をみつめた。そんな彼女を、あたしはみつめる。
「「よくわからない」、ですって。」
「……え?」
「あんたの兄貴の、その子に対する感想。」
お門違いだと重々承知で、あいつの腑に落ちない発言について愚痴った。ひのでは一瞬だけ真顔を向け、またエコー写真に視線を戻す。
「男だし……しかも独身なら、それがふつう、じゃないかな。」
そしておもむろに言った。あいつを擁護するでもなく、あくまで一意見のように淡々と。本当はあたしも理解しているのと同じ思いを口にする。
「それ、母親が言う?」
あたしは小さく吹き出した。
「……ごめん。」
「なんで謝るのよ。」
「なんとなく。」
なんだかすっきりして、彼女と同じように絨毯へ足を伸ばす。
「あんたは会わなくてよかったの?」
今度はあたしがおもむろに言った。
「何が?」
「兄貴。せっかく東京来たのに。」
「……。どうせ産まれたら来るだろうし。」
確かにそれもそうか。納得と同時に、今日のあいつについてまた思い出す。
「そういえばあいつ、出産祝い何贈ろうって意気込んでたわよ。」
「……。……あいつ、センス無いからな……。」
大方察するわ。もう一度、小さく吹き出してしまった。
あたしからは何を贈ろうかな。兄に期待できないならせめて、あたしくらいこの子の期待に沿えるものを贈りたい。しかし彼女の物欲は思った以上に難しい。たいてい聞いても、「特にない」か「別にいい」なのだ。
だけどこっちも引き下がれない。後にも先にも、贈り物を渡す相手なんて、いないだろうから。
「あたしからは何がいいかしら? 出産祝い。」
だから今日もまた、手応えがないとわかっていても聞く。
ひのでは珍しく悩んだ。
「特にない」も、「別にいい」も言わず、少々の沈黙を漂わせたのち、
「ボールペン。」
ぽつりと言った。
「糸子がずっと持ってる、あの白銀のボールペンが欲しい。」
あたしは暫しきょとんとしたあと少し呆れて、「変な子。」と溜め息まじりの笑いをこぼした。
「いいわよ。お祝いとは関係なしに、あげる。」
彼女は相変わらず読めない。そういう意味では充分、あいつの妹だ。
「……でも、交換条件。」
あたしもひとのこと、言えないけれど。
「交換条件?」
「ええ。ひので、頼まれてくれないかしら?」
言うなり、あたしは雑貨屋で衝動買いした、包みをひらいた。
────がちゃん
狭く集中した圧迫感がほんの一瞬のみで、痛みはほとんど感じなかった。ただ、やはり耳という位置での行為のせいか、突き刺す瞬間の音には正直、身構えた。
あとは単純に違和感。左の耳朶に乗る微かな重みと、じんわり帯びてくる熱。
「できたよ。」
ピアスホールの開通を、ひのでは淡々と報告する。
「ありがと。」
あたしも大きな反応はせず、感謝だけ伝える。
「七生さん、卒倒するんじゃないかな。八重さんは笑いそうだけど。」
父達それぞれの反応を、ひのでは的確に言い当てた。
「三十路前の娘に対しては、妥当な反応だと思うわ。」
大いに同意しながら、『交換条件』の品であるボールペンを彼女に渡した。
高二の夏から十年以上、詰め替えては使い続けている白銀のボールペン。
ひのでは受け取ると、まるで抱きしめるみたいに、きゅうと両手で握った。
「どうして、急にピアスなんて開ける気に?」
そして唐突に聞いてきた。
「気の迷い。」
あたしは即答する。
ひのでは「え?」と聞き返す。
「冗談。」
「……らしくない。」
拗ねるようにそっぽを向くひのでの耳には、あたしのピアスホールなんかとは比べ物にならない数の、点状の傷がみえた。
正確には傷痕だ。かつて彼女を飾った数多くのピアスホールが、ほぼ鎖されている。
唯一、左耳朶のひとつだけを除いて。
「ここだけ、残しているのよね。」
たった一つだけ、樹脂ピアスが刺しっ放しの左耳に、あたしは意地悪く触れた。
「これだけは塞がない。」
ひのでは無抵抗に、触られながら答える。
「最初に……あけたピアス、だから。」
まっすぐ見据えてくる彼女に、思わず手を離した。
「…………ねえ、ひので、」
やっぱり兄妹だ、よく似ている。あたしを見る顔つきが、おんなじ。
……だから、なのかもしれない。
「そろそろ、あたしにだけは教えてくれない?」
これも気の迷いなのか。
あの男と同じ瞳へ見据え返しながら、あたしは口を開いた。
「胎の子の父親。」
みつめるほどに錯覚する。
この、うつくしい、皆口ひのでという女に。
ひのでは、読めない表情をあたしに向けながら、やがて静かに唇を動かした。
「モモカ。」
「………。」
「…………冗談。」
張り詰めていた空気がとけ、あたしもひのでも、いつもの二人に戻る。
「冗談が面白くないのは、兄ゆずりのようね。」
素っ気なく言い捨ててやると、そんな態度には不相応に、ひのでは小さく笑った。
「何がおかしいのよ、」
じゃっかんむきになって、聞く。
「糸子、さっきから旭の話ばかり。」
「……。」
「ねえ、糸子、」
……ああ。
本当に、あの男は、
「旭のこと、愛してた?」
消えてなくならない。
あたしは微かに笑う。もうむきになるのはおしまい。余裕を見せて、ひのでに向けてお姉さんぶって、笑う。
「あんたたちって本当に兄妹だわ。」
ひのでが不思議そうに小首を傾げる。素直な分、この子のほうがかえって読めない所も多いけれど、あいつよりずっと可愛げがある。
だからあたしも晒す。
「あいつは毒よ。今も昔も。」
この子にだけは、出来る限りの本音を。
「もう十年よ。全然抜けきれてくれないわ。」
消えない。消えてくれないの、あの男は。
きっとこれから先の人生、ずっとあたしのなかに居続ける。
ずっとあの人と生きて、永遠にあたしの願いを叶える。
そのくらい当然でしょ?
じゃなきゃ割に合わないわ。
旭、
あたしの 猛毒
「────糸子、」
呼び掛けに視線を戻すと、正面で座るひのでが大きな胎を撫でている。
「けってる。」
慈しみのなかに残る少女の顔に、胸が高鳴る。
同時に、彼女の手の甲に薄っすらと残る古傷に、胸がしめつけられる。
彼らを、守ってくれた、痕。
胎を撫でるその手に、あたしは手を重ねた。
「……楽しみね。」
その瞬間、胎動が返事のように二人の手へ伝わり、あたしたちは顔を見合わせて吹きだした。
笑顔の延長で、ひのでは目をほそめた。
「私、この子に、……りぼんの付いたドレス、着させたい。」
どこか遠慮がちに言う。
「大きくなったら、一緒に目一杯おしゃれして……おでかけしたい。一緒にケーキ食べたり、恋愛相談や内緒話だって……したい。」
おずおずと連ねる言葉と一緒に、視線が泳ぐ。
「せっかく、女の子……産むんだから。」
「そうね。できるわよ。」
肯定すると、ひのでは視線を留め目を丸くした。
唇がかすかに震えている。でも、また笑う。
「そのときには、……あなたにも一緒にいてほしい。」
なにそれ。あたしも笑う。
「ええ。楽しみ。」
でも大変よ。
まずは出産。人生一番の大仕事が控えてるわ。しかもそれで終わりじゃないんだから。四時間おきの授乳、夜泣きに寝かしつけ。眠れない日々の始まりよ。
まあ、やる気だけは満々の子育て経験が怪しい男二人ならいるから、好きなだけ扱き使ってちょうだい。あたしもおむつくらい替えるし、哺乳瓶くらい、洗うから。
あたしは散々お姉さんぶって、彼女の大きな胎を撫でた。
「……早くこの子に会いたい。」
素直にあたしは思う。
それはもう悔しいことに、こんなにも待ち遠しくて、
狂おしいほどに、愛おしい。
雨宮糸子 28歳 八月一日生まれ O型
東京都渋谷区出身
実親は年の差夫婦。出生後すぐに実父を亡くした影響もあり、実母は産後鬱の末育児放棄。
異母兄である雨宮七生と、彼のパートナー・八重伊織、二人の『父』のもとで育てられる。
退学後、高卒資格を取得し看護大学に進学。
看護師資格と助産師資格を、4年次同年度に取得。
卒業後、異母兄が院長を務める産婦人科に就職。




