08 『孵化』
────“どうして愛してくれなかったの?”
目の奥で、母さんの声が鳴り響く。とたんに、ああ、眠いんだなと察した。
課題なら先程なんとか終わらせた。そこでエネルギーを使い果たしたのか、六限目が始まったあたりからうつらうつらしていたけれど、もう限界みたいだ。
たぶん、今は半分、夢を見ている。
“どうして愛してくれなかったの”
むかし、母さんが叫んでいた。
母さんが、父さんに向かって怒鳴っていたのを、部屋で聞いていたんだ。
僕もひのでもまだ幼くて、その頃のひのでは僕よりも小柄で、オレンジ色の常夜灯を点けた薄暗い部屋で、身をまるくしていた。
「だいじょうぶだよ。」
僕はあのころ、ちゃんとお兄ちゃんでいたかった。
全然大丈夫じゃないのを知っていたのに、嘘を塗って、ひのでと、自分を安心させようとしていた。
きっと父さんと母さんは、どっちも正しくて、どっちも悪い。
全貌なんてみえなくても子供ながらに理解していた。もうどうにもならないって。
それならせめて、少しでも昨日と変わらない今日を、今までと似た日常を過ごせるよう、ごまかすしかないんだって。
いつだってきっかけはあった。日常に罅が入るのは初めてじゃなかった。
父さんが離れてしまったのも、
母さんの依存が始まったのも、
僕とひのでの関係がこじれたのも。
ただ、向かい合う勇気が無かった。
完全に壊して新しく作り直すより、ちょっと壊れた部分を塗り潰すほうが、楽だったから。
“どうして愛してくれなかったの? あなたの家族だったじゃない”
頭のなか、母さんの怒鳴り声が遠のく。
……完全に寝てしまうな。
諦めかけた瞬間にチャイムが鳴って、六限目が終わる。
終礼のあと課題を提出すれば、今日もおしまいだ────────
「旭、今日も勉強してくの?」
終礼後すぐ、百香が聞いてきた。
「いや、帰る。」
首を振ると、百香はぱっと顔を輝かせた。
「じゃあさ、じゃあさ。よかったら、買い物付き合ってほしいな。」
嬉しそうにはきはきと、それであって慎重に窺ってくる。昨日のちょっとした一悶着で、百香なりに学習はしているらしい。
まず、僕を暇と決めつけない。そして一応、「よかったら」と前置きする。それでもまだうっとうしさが消せないあたり、詰めが甘いけれど。しかし課題の借りがあるので、今日は大目にみた。
「ノート、早く出してきなよ。回収されちゃうよ。」
百香に急かされて回収箱へ向かうと、既に提出されたノートが山積みになっていた。
これを最後に日直が職員室まで運ぶわけだが、今日に限りその提出システムが、穏当にいかないことに気づいてしまった。
黒板の日直欄が、雨宮糸子の四文字で埋まっている。
「…………、」
「? 旭、なにしてんの?」
回収箱の前で立ち止っていると、百香が駆け寄ってきた。
「早くしなよ。雨宮さん困ってるじゃん。」
言われて振り向くと、斜め後ろでは雨宮が佇んでいた。
因縁とばかりに僕を睨みつけている。そんな眼差しよりも今は、袖から覗く包帯が気懸りでしょうがない。
その腕で、この量を運べるのか。
ほら、早く早く。百香に取り上げられたノートは、山の一番上のぽんと置かれ、僕は背中を押されて席へ戻された。
その目を離したほんの一瞬で、事は起きた。
背後で、どさどさと崩れる音がした。
振り向けば案の定、床一面にノートが散らばっている。
一度持ち上げて、やはり無理だったのだろうか。雨宮は手首を隠すようにおさえていて、麻痺したみたいに小刻みに震える姿が、なんとも滑稽だった。事情を知らない人間が見れば、なおさら。
その場の視線すべてが彼女に集中した。
時が止まり、教室中が静まり返る。
やがて、誰のものか判らない嘲笑が、どこからともなく吹き出した。
ちょっと、悪いよー。また別の声が、これまた嘲笑混じりの制止をする。
それを皮切りに、教室中の音が蘇り、時間が動きだした。
笑いを堪える呼吸もあれば、あーあ、と小さく響く叱責。見てみぬ振りで帰り支度をする者。本当に無関心な者。
ぜんぶが普段どおり、放課後の光景として日常に馴染んだ。
小さな疵を、塗り潰すように。
「────…………、」
僕の時間だけが、止まったままだった。
“きみの味方なんていないよ”
記憶のなかで、仲村が笑う。
……ふざけんな大嘘つき。みんな、僕と同じじゃないか。
記憶に潜む彼へ反論した。
だけど感謝するよ
きっかけを くれたこと
どこから時間が動きだしたかなんて判らない。
歩み寄ったときなのか、しゃがみ込んだときなのか、散らばったノートを、拾い集めているときなのか。
ひとつ言えるとすれば、彼女と視線を合わせたその瞬間にはもう、始まっていた。
「代わるよ。」
味方が欲しいんじゃない。
ただ、今、真っ先に向き合いたい罅が、ここにあるんだと思う。
「……な………っ!?」
雨宮は唖然と何か言葉を探そうとしている。
あの悪い口が炸裂する前に、先手を打つことにした。
「その腕じゃ無理だろ?」
突き刺さる視線を肌に感じた。
今度は僕に集まっている。驚愕と、好奇と、もしかしたら嘲笑も、あらゆる方向から、無数の槍みたいにぶすぶすと。
でも、もういいや。
「予定入ったから。」
そう告げると、百香は言葉を失くして眉を曇らせる。雨宮はこの展開に戸惑っている。
二人とも、ざまあみろ。僕は山積みのノートを抱えて廊下へ出た。
運びながら、視線が合ったときの雨宮を思い出していた。傑作だったな、あの顔。
たぶん始まっていた。
新しい、日常が。