87 『彼女。』
健やかなるときも 病めるときも
富めるときも 貧しきときも
死が二人を分かつときまで────────
結婚、か。
ぼんやりと窓を眺めているうちに、流れる景色がまもなく目的地だと報せた。最後にこの辺りを訪れたのは二十歳だったか。時間が経つのは案外、早い。
生まれてから十七年間、十七歳から二十歳、成人してから今に至るまで……。
色々あったような人生も、過ぎてしまうと昨日のことのようだ。風化じゃない。鮮明として。
十七歳の僕の記憶は鮮度を保ったまま、現在の僕にべったりと貼りついている。
妹への劣等感。母からの依存。幼馴染の疎ましさ。取り繕った平穏。唐突に罅割れた、日常。
昇華したもの、解決したこと、変わった環境に関係。年月と共に過去となったものや事柄は数え切れない。
だけど、僕の青春時代はまだ終わってくれない。
だからなのかな。
今日という日が待ち遠しくて、仕方なかったよ。
「もしもし?」
『遅い。』
「いきなりそれかよ。」
『七分の遅刻よ。』
「はいはいすみません。今降りたとこ。どっち口出ればいい?」
『出なくていいわ。』
「は?」
『うしろ。』
たぶん、
終わらない青春の原因は、おまえなんだと思う。
「五分以上待たせるんじゃないわよ、ボンクラ。」
久しぶり、雨宮。
「……うお。髪、無い。」
「語彙、悪化してるじゃないの。」
無くなってしまったトレードマークの三つ編みからの、軽やかなショートボブにまずは突っ込む。もう一つのトレードマーク、眼鏡は健在で安心した。
「え? 化粧してんの?」
「礼儀知らずは相変わらずね、グズ。」
ついでに、口の悪さも御健在のようだ。
「だいたい時間指定したのあんたでしょ。……っていうか、まだ式の途中なんじゃないの?」
無駄に真面目なのも、相変わらずだ。
「いいんだって。顔は出したから。」
「どうしようもない男ね。」
「はは。そう言うなよ、」
どうしようもないかもな。だけど僕には、どうしようもなくないんだ。
今日という日は、今日だけは、何よりも誰よりも、きみが最優先だから。
「それじゃあ、行くとしますか。」
ちゃんと十年、待ったのだから。
正確には十年と半年だけど。そんな一途な俺を今日くらいは認めてください……なんて意味も込めて、調子に乗って手を差し出してみた。
「行きたい所ある? 記念すべき初デート。」
「プランくらい立てておきなさいよ、無能。」
素っ気なく言い捨てられ、無論、手もスルーされ、あの頃と同じように僕だけが笑った。
「浮腫も無いし、体重の増え方も理想的ね。胎児のほうも順調。少し小さく生まれるかもしれないけど、充分範囲内よ。」
エコー写真を見せながら雨宮は説明してくれた。白黒の、扇を逆さにしたような中に、歪な風船みたいなものが見える。これが人間だといわれても正直ぴんとこない。
「言われてもよくわかんねーよな、こういうの。」
冗談めかして率直な感想を言った。
「それ、妊娠中における夫婦喧嘩原因の一発言。」
まじか。これで? 悪気なんて微塵も無かったのだが、なるほど、妊婦ってのはそれほど繊細な生き物なのかと考えを改めた。
「まあ、あの子にはマタニティブルーなんて無縁でしょうけどね。」
フォローのような雨宮の発言も、おそらくただの率直な感想だ。
たしかにそうだな。またもや一転した考えと、繊細とは無縁と評された妹に、笑いを漏らす。
「ひのでが母親だもんなあ。」
そしてしみじみと空を仰いだ。
樹齢を重ねた桜の木が、まだ緑を残しつつ枝を広げ秋の空を狭くしている。頬を撫でる風はか弱いのに、頭上の草木は時折騒ぎ揺れる。これだけ樹に囲まれているんだ。風を感じづらいのも当然だろう。
心地良い秋の日和、僕らは懐かしい区立公園のベンチに座っていた。
念願叶ったデートとはいえ、彼女の仰るとおりグズで無能でボンクラな僕は待ち合わせ後の予定なんて立てておらず、とりあえず駅を出た。
そしてとりあえず歩いた。腕も組まず手も繋がず、これが三十路前の男女のデートなのか、いやそもそもデートであるのかも怪しいぞと自問自答している内に、南口から程近い緩やかな坂を並んで歩いていた次第だ。
身体が記憶していたのだろうか。彼女とこの坂をのぼるのは、二度目だ。
僕らは相談も決定もなく、二人揃って自然とあの区立公園へ向かっていた。
そして今に至る。
「あの子はあれで、結構しっかりしてるわよ。」
妹について、感慨に耽る僕へ雨宮が言う。
「身内みたいな言い方だな、」
「身内みたいなものでしょ。」
飾らない返事に、雨宮に対しての懐かしさと、妹に対しての羨ましさがせめぎ合う。流れに乗って、もう一つの感慨へと話題を変えた。
「百香も結婚だもんなあ。」
「そうね。」
雨宮はやはりあっさりと返事をする。その素っ気ない反応が十年前の彼女そのもので、僕は降参のような観念のような、音の無い溜め息を溢した。
「百香のやつ、「わたし」、だってさ。」
「桂木じゃないみたいね。」
素っ気なさの中に、柔らかさがにじむ。
「大人になったんだよな、あいつ。」
大いに同意して、頷いた。
控え室で面会した幼馴染は、僕が望んだ桂木百香そのものだった。
名塚月乃を知らない未来を生きて、成長を遂げた百香。
名塚月乃の存在しない人生を歩み、大人になった百香。
僕らが出逢わない世界で、普通の女の幸せを掴んだ、ふつうの女の子。
羨ましいとか悔しいとか、そういうのじゃないのだけれど、どうにも、もやもやした。
「今さら何言ってんのよ。あたしたちが仕立てた結果じゃない。」
今度は素っ気なさの中に棘を生やして、雨宮は睨んできた。
違うんだって。僕は思わず息を深くつく。
後悔も恨み節もない。むしろ万々歳の結果だ。……ただ、思い知らされたんだ。
「俺だけ、高二で留まってるみたいでさ。」
痛感したんだ。過去にしがみ付いたままの、自分を。
負け犬面になっていた顔を両手でばちんと叩く。参った気持ちが抜けきれないまま、へらっと頬をゆるめた。
「なんつーのかなこれ。中二病ならぬ、高二病?」
「何よそれ。」
「今考えた。」
「たわけ。」
これこれ、これだよ。こういうのが嬉しいあたり、まさしく高二病なんだ。
僕がたわけた事をぬかして、雨宮が遠慮なく罵って、僕だけが笑って……
言葉を選ばない、雰囲気を守らない、顔色を窺わない、身を削らなくて済むこの掛け合いが、堪らなく楽しくて……
彼女が、けっこう好きで。
「なあ、雨宮。この十年間で、なんかあったりした?」
「なんかって何よ、」
いいや。実はかなり好きで。
「恋愛関連。」
十七歳の僕が消えてくれない。
あの罅割れた日常に心臓を浸したまま、まだ彼女を、雨宮糸子を愛している。
軽やかなショートボブに、品を残した薄化粧。一応健在な眼鏡は少しだけ流行をおさえている。
綺麗になったもんだなあ、下の上さまも。
二十八歳の雨宮糸子は、今日までの間、恋をしたのだろうか。
誰かを好きになったり、恋人ができたり、失恋したり……僕の知らない誰かの前で、知らない雨宮糸子になって、涙を流したり、赤面したり、浮き足立ったり、もしかしたら笑顔をみせたりしたのだろうか。
「あったとしても、あんたにだけは言わない。」
真横で、大真面目な顔がじっとみつめていた。
こっちまで真顔になってしまう。そして口が開いてしまう。もはや間抜け面だ。ぽかんと、半分ほど幽体離脱しかけたあたりで目が覚めて、脳内ではものの数秒で今のやりとりがリピートされる。
そして笑いがこらえられなくなる。また僕だけが吹き出す。
「あんたはどうなのよ? 恋愛関連。」
一人でツボに嵌っている僕に、雨宮は素っ気なく質問し返した。
「あったとしても、おまえにだけは言わない。」
「そう。」
「えっ。そこは気にしろよ。」
「塵ほども興味ない。」
「興味を持て少しは。関心を持て、俺に。」
「あたしの今一番の関心は、あんたよりあんたの妹。」
「やめろ。普通に傷つく。」
「それと、あんたの姪。」
「……え?」
姪……? あ。女の子……なんだ、ひのでの子。素で驚く僕に雨宮は、なんで知らないんだと素で呆れた。……そうか、女の子か。姪……か。性別判明により、唐突に自分が伯父になるという実感が沸く。
予定日一ヶ月前にしてようやく、妹の出産という現実を呑み込む。
「旭、」
茫然としていようと、容赦なく脳を鷲掴みにする呼び掛けにはたじろいだ。急に名前で呼ぶなよ、怖えな。雨宮糸子の声で生成される「あさひ」の破壊力には、未だ慣れない。
「だってもう皆口じゃないでしょ。」
そりゃそうですけど。だからって、ほら……もう少しこう、何かを転機にって言いますか、欲を言えば恥じらい的な演出とかあってもいいんじゃないですかね?
思案した言い分を頭に羅列したが、一瞬たりとも逸らさず真面目な顔を向けてくる彼女に圧し負けて、諦めた。
「ひのでは、あたしに任せて。」
何食わぬ顔で、じっとみつめながら雨宮は言う。
こっちの気も知らないで、やさしく言う。
「命にかえても『母子共に健康』を伝えるわ。」
こうやって彼女は僕を裏切るんだ。どうせならそのうしろに、「それが仕事だし」くらい付け加えてもいいのに、絶対言ってくれない。
「おおげさだな。」
「それだけ命懸けなのよ。出産って。」
優しい音を残す声に耐え切れなくて、わざと背伸びをしながら立ち上がった。見上げた先で枝葉が騒がしく動いている。なのに、やはり風は感じない。
感じるのは気配だけだ。
背にしみる雨宮糸子の存在。懐かしいな。少年の僕が後部座席に彼女を乗せて、中古の原付二種を走らせていた日々が蘇る。
消えないな。
いとしい日々が、消えてなくならない。
振り払おうとしていないだけかもしれないけれど。
「……言葉を借りるなら、あたしも充分、その高二病患者だわ。」
ベンチに座ったままの雨宮は僕を見上げていない。品の良い姿勢で、眼鏡越しの睫毛を伏せている。
……あーあ。
デートなんだけどな。
言われたとおり十年、正確にはプラス半年、待ったんだけどなあ。
「雨宮。おまえさ、」
やはり出てきてしまうか。
むしろ、出してしまうか。
引き摺り出してしまおうか。彼女の前に。
「星史のこと、好きだった?」
──彼を。
「……。」
「…………。」
視線が重なる。みつめ合うほどに思う。
僕は少年の日のまま、彼女を愛しているのだと。
地味で、口が悪くて、他人嫌いで、育ちはまあまあ良くて、食事作法だけは完璧で、なぜが洗浄綿を持ち歩いてて、無駄に真面目で、褒められるのが苦手で、素っ気なくて、全然笑ってくれなくて。いつだって、容赦なんて無い。
「……そうね。愛していたのかも。」
ほら、さっそく容赦ねーな。
「だって、ほとんど自己愛でしょ、庇護欲なんて。」
そのくせなんだよその顔、
「彼は、あたしよ。
出会ったときからずっと。」
せっかくのデートなんだ。そんな、泣きそうな顔すんなよ。
無理して笑おうとすんなよ。
すっげーブスだからな、雨宮糸子至上、最高に。
「それなら、俺も命にかえて任せてもらおうかな。」
雰囲気をぶち壊して顔を覗き込む。不意を衝かれ、真顔で目をまるくする雨宮から、一瞬で哀愁が晴れた。
「当然でしょ、光栄に思いなさいよ。あたしの願い、託してやるんだから。」
それどころか偉そうにふんぞり返る。目を据わらせて、素っ気なく、どこまでも容赦ない。
やっぱり僕は、こんな彼女がけっこう好きだ。
「死ぬまで任させてやるわよ。」
「死ぬまで? 冗談、」
ああ。
僕の青春は、
終わりそうにない。
「死んでも、だ。」
軽薄に笑って、ふざげて手を差し伸べた。
やわらかな体温が、やさしく触れる。
僕の手をとって、立ち上がって、向かい合った雨宮は、
「粋がってんじゃないわよ、クソガキ。」
いたずらに笑って、僕の額を指で弾いた。




