85 『二人』
あの事件後、僕らの身の処置はそれぞれの形で決まった。
まず、ひのでは事件により高校を退学処分となった。
きっと今までが寛大だったのだろう。さすがに今回ほどの事件となっては、いくら成績優秀者とはいえ学校側も擁護しきれなかったようで、しかも休学中の騒動であったせいか、教師達は満場一致で処分を決定したらしい。
後を追うように……というわけではないけれど、同時期に僕と雨宮も退学となった。
答案用紙の窃盗および、カンニング行為を自首したのだ。
学校側から下されたのは停学処分だったけれど、揃って退学を願い出て、一年半の高校生活にピリオドを打った。罪の意識……はあったっちゃあったけれど、決定打ってほどでもなくて、しいていえば、何もかもまっさらにしたかった。
まっさらに、したかったのだ。
彼女の事件をきっかけに。
彼女……桂木百香と、同じように。
「記憶が……無い?」
意識が回復した百香には、事件の記憶が残っていなかった。
汚職事件に関わった政治家特有の『記憶にございません』戦術とは違う。正式に検査を受けた上での小難しい診断名のついた、俗にいう、記憶喪失だった。
しかも、都合よく事件だけぽっかり抜けているのではなく、かといって、自分自身が解らないといった重症なものでもない。
百香から失われたのは、およそ、この一年間の記憶だった。
「稀ではあるけど、症例が無いわけじゃないみたい。」
主には転倒の多いスポーツ選手等に起こりうる例なのだと、雨宮は説明してくれた。
症状の度合いも影響する期間も個人差があり、一日だったり、一ヶ月だったり、それこそ一年だったり……決してあり得ない事ではない、と、医療従事者である父親から教わったらしい。
「ただ、原因が頭部外傷じゃないあたり……桂木の場合は、特例中の特例なんでしょうね。」
聴取やら、治療やら、一通りの面倒事が済みようやく自由に接触できるようになってすぐ、僕らはまるで口裏合わせの反省会のごとく集合した。
そして、百香の詳しい容態と現状を知った。
特例中の特例。聞けば聞くほど頷けた。
ひのでによる刺し傷は奇跡的にどの内臓も破損させず、傷の深さに対して、命には何の別状も無かったのだ。
それなのに、百香は目を覚まさなかった。心拍数も脳波も異常をきたさないまま、およそ一週間も眠り続けた。
意識の回復の仕方も、まるでただの寝起きだった。多少の混乱や時差ボケのようなものはあったにしろ衰弱した様子も特に無く、見舞いに訪れていた雨宮と視線が合うなり、はっきりとした表情と声で、こう発したらしい。
『あれ? 雨宮……さん?』
「そりゃそうよね。一年前のあたしと桂木は、クラスメイトってだけの他人だもの。」
リセットされた百香との関係について、雨宮は冷静な感想をあげた。感想というより分析ととれる冷静さに、こっちが戸惑ってしまう。
「おまえはさ、納得してんの?」
率直に聞いた。
此度の事件。加害者と被害者、すべてが僕らの捏造だ。百香は罰せられないどころか、主犯でありながら真実を知らず完全な被害者となり、すべての罪を星史とひのでが肩代わりしたのである。
星史の命令とはいえ、雨宮がこんな結末を受け容れてしまうなんて。
「桂木のことは許せないけど、嫌いきれそうにないから。」
至って真面目に雨宮は答えた。どこまでも冷静な声には、悔しさや不服さが微塵も見当たらなくて、それに影響されてか僕の戸惑いも薄れた。
「親友ごっこしてるうちに情でも移ったわけ?」
意地悪く、からかう余裕まで生まれる。
「わかんないわよ。そんなの。」
色々吹っ切れたのか、雨宮は否定も肯定もしなかった。
「似てるのよ。あのふたり。」
あくまで自分のペースで、心情を語る。
「本人たちは、水と油のつもりだろうけど……やっぱり似てる。」
まっさらになったのは、なりたかったのは、雨宮も同じだったらしい。
「本当、調子狂うわ。……桂木百香は。」
それ以上は、からかえそうに、なかった。
「おまえは納得してるのか?」
本日二度目となる妹からの質問に顔をあげた。右手に箸を、左手に茶碗を持ったまま見据えあう。
一呼吸をおくつもりで、僕は両方テーブルに置いて、姿勢を正した。
「納得も何も、俺は救われてしかいない。」
ひのでと星史が罪を被ってくれて、一番都合のいい形に事件が捏造されて、僕と雨宮がまっさらに吹っ切れられて、百香が、悪者にならなくて。
それどころか、……こんなふうに考えるのは、最低かもしれないけれど、
「百香が、まっさらになって……正直、安心してる。」
今の百香は、名塚月乃を知る前の百香だから。
僕と星史が出逢う前の、百香だから。
『僕らが出逢わなければ』
認めたくない仮説に、どれだけ囚われただろう。偶然の産物ではあるけれど、星史と、妹と、雨宮は、百香の狂ってしまった歯車を直してくれた。
僕の幼馴染を取り戻してくれた。
僕は救われただけだ。事件の結末に対する思いに、嘘偽りは無い。
「………。」
しばしの沈黙に身構えた。顔をあげるのが怖い。妹の目を見るのが怖い。殴られるかもとかそういう恐怖じゃなくて、どこか孤独に似た不安。箸を持ち直すことも、口を開くことも、妹のほうを向くのも、何も出来ないまま僕は妹のことばを待った。
「私も同じ。」
顔をあげると、妹の、見慣れた無愛想と派手なメイクが、不釣合いにやわらかい眼差しで僕をみつめていた。
「……モモカ、元気だよ。新しい学校、たのしそう。」
また唐突に、会話の続きと食事を再開した。
やはり接客業に就くには苦労するだろうな、最初のうちは。
先ほどと同じように胸に秘め、僕は妹が伝えてくれる、幼馴染の近況に耳を傾けた。
退院後、百香は百香で、転校という形で学校を辞めた。これにはもちろん、くだんの記憶喪失が関係している。
百香の両親や担当医、そしてカウンセラーの意向から、彼女に今回の事件についての詳細は伏せられた。
百香には、『どんな事件に』『どう巻き込まれ』『誰に刺された』という情報が、一切入らないようにしたのである。
それに伴い、今までと同じ学校では何かと不都合なのではという理由から、百香は都内の別の私立高校へと転校することとなった。偏差値を少々下げ、彼女の日頃の生活態度も幸いし、特に問題なく二学年からの編入が許可された。
ひのでの話によるとクラスにも難なく馴染み、休日には友人たちと過ごすことも多いらしい。
「あいつ、コミュ力だけは凄まじいからな。力技だけど。」
近況報告を聞いて笑うと、妹もこくこくと小さく頷いた。
「……たしかに、似てるかもな、」
雨宮の言葉を思い出して、ついこぼした。
「……なにが?」
当然、ひのでは食いつく。
「ん? ……ああ。星史と百香が似てるって……クラスの奴が言っ────」
「似てない。」
即座に声をかぶせる妹に、雨宮糸子の名前を伏せておいて正解だったと安堵する。
「全然似てない。」
攻撃的に妹は念をおした。
「いや、顔とかじゃねーよ? ふんい……」
「似てない。全然似てない。似ても似つかない。」
「んなに連呼しなくても……」
「あいつ嫌い。」
「いや、そん……」
「モモカをビッチって言った。」
「えー……そもそも先に百香が……」
「モモカはビッチじゃない。」
「…………おう。」
色々諦めて、最後に残しておいた卵焼きに箸をのばした。
口に運ぶなり、はっとする。
全然甘くない。
「……あいつむかつくし、嫌いだけど、もう私、この家戻らないし、陽も、いないし……部屋、あまるし、……使うのは、ゆるしてやる。嫌いだけど。」
僕の反応に気付くこともなく、妹はまだ文句を垂れている。
そんな彼女を眺めているうちに、出汁の利いた卵の味が口に拡がる。
砂糖味の卵焼きなんかより、本当は大好きなんだと、ずっと言えなかった味。ゆっくりと飲み込むのと同じころ、妹の文句も底をついた。表情だけはまだ拗ねているようにも見えて、なんだか目の奥が熱くなった。
軽く唇をかみしめて、むりやり微笑む。
「ありがとな。おまえ本当は……星史じゃなくて百香に、自分の部屋使ってほしかったんだもんな。」
……約束破って、ごめんな。
間を置いて謝罪した。
やっと謝れた。
妹との、守れなかった、約束を。
僕が小学二年生。妹が小学一年生の夏休み。
八月三日。
僕は妹と喧嘩をして、怪我をさせた。
後悔と罪悪感で、情けないことに僕だけが大声をあげて泣いた。冷静な妹を前に、ひたすら許しを乞い、わんわん泣いた。
「ごめん……ごめんね……ひので、」
泣きながら何度も謝った。
「なんでも……なんでもするから、ぼくをゆるして。」
謝るばかりの僕に、妹は一つだけ、願った。
「おにいちゃん。おねがいが、あるんだ。」
どうして僕は、このたった一つを、叶えられなかったのだろう。
守れなかったのだろう。
「モモカちゃんと、……家族に、なってほしい。」
「結婚、って、そういう意味だったんだよな。」
答え合わせに、妹はこくりと頷く。
「……一応、きいてもいいか?」
続く質問に、今度は見据えて頷いてくれた。
「どうして、俺と百香に結婚してほしかったわけ?」
眉もよせず、目も見開かず、でも無機質と感じさせず、妹は僕をじっと見据えた末にただ一言、「家族。」と溢した。
「家族?」
僕は鈍いおうむ返しをする。
「私が、モモカと家族になりたかったから。」
喋る度に、長い睫毛を伏せてゆく。
「おまえが結婚してくれれば、私、モモカの義妹に、なれた……から。」
最終的には、目を瞑っているようにも見えるくらい、視線を下げていた。
空気が詰まる。
リビング内は曇り模様で、ある意味、外の雪よりもたちが悪い。
完全に僕の責任だ。この息苦しい雰囲気を打破しなければ……
「……そっかー。いや俺さー、百香が俺に惚れてたから、おまえが気を利かせてくっつけようとしてんのかと思ってたわ。」
謎の使命感を胸に、大いにふざけた。
「自惚れんな。グズ、無能、ボンクラ。」
容赦なく妹の目つきが変わる。……なんか聞き覚えのある三連罵倒だな……。
思い切り睨まれた対価として、空気が見事に晴れてくれたので良しとした。
「それに……」
「? ……それに?」
「……なんでもない。」
「……。」
深くは聞かないでおいた。
たぶん妹は、吹っ切れようとしている。しかしその達成を阻止しているのもまた、妹自身だ。たかだか二年弱でも長く生きていればわかる。一応、兄として、わかる。
考えるほど考えすぎなんだ、妹は。
変な所ばかり兄に似て、わが妹ながら不憫な奴だ。
「俺が、言えた立場じゃないけど……さ、」
僕はおもむろに調子に乗った。
「家族になる方法なんて、いくらでもあんだろ。」
調子に乗って、兄ぶった。
「この先、おまえが家族になりたいって思える相手も、まだまだ現れるって。世の中、百香だけじゃねーよ。」
偉そうに言うな。次にくる妹の台詞なら、容易に想像できた。
カラコンで覆った眼球で鋭く睨んで、長いマツエクでばっさばさと威嚇をするんだ、こいつは。
「偉そうに言うな。」
ほらきた。本当、わかりやす…………
「ふられたくせに。」
…………は?
「……なんの話?」
「糸子。」
「……は?」
読みきれなかった展開に突如として参戦した名前に、固まる。え? へ? 脳内処理が追いつかない僕をあざ笑うように、妹のスマホが鳴った。
「あ。糸子からだ。」
画面を確認しながら妹はまた、その名前を呼ぶ。雨宮の下の名を、あまりにもさらりと。
僕はいよいよ混乱した。
「は? え? え、おまえ達……連絡先……え? あ、電話?」
「ライン。」
まじかよ。
混乱の末は呆然だった。まじかよ。俺しらねーんだけど、あいつのライン。てかラインやってんのかよ、雨宮糸子。
混乱の末の呆然、呆然の末の冷静、そして冷静の末の敗北感、または劣等感。
「いやまだフられてねーから。今度デートするから。」
一周してわけもわからず、むきになった。
「十年早いって、糸子は言ってたけど。」
「糸子とか呼ぶな!」
年子の妹に打ちのめされるのなんて、とっくの昔からだったはずなのに、久しぶりにまぬけに、むきになった。
最終的に纏まった荷物は紙袋三つ分。まだ雪は降っているみたいだし、ビニールで包んでいくかと提案すると、「ださいからやだ。」と一蹴された。もっといい断り方ってものがあるだろ。
「駅まで、ひずるさんが迎えにきてくれるし。」
そうそう、そういうのでいいんだよ。
「おう。父さんによろしくな。」
「陽にも、よろしく。」
「はは。たまにしか会わないけどな。」
まあまあ進歩した兄妹の会話が一段落したあたりで、ひのではブーツを履いた。
「……じゃ。」
さよならの態度は、相変わらずだ。
「……ひので、」
でも僕も、あまり妹のこと、言えない。
呼びかけて振り向いた妹に、僕は小さな包みを投げた。両腕に紙袋をぶら下げる妹は、決して自由とはいえない両手で、見事にキャッチする。
受け取って一瞬だけ僕を見ると、ひのでは断りもせずにすぐ、封を開けた。
「誕生日、おめでと。」
包みから出てきたマニキュアを見つめる妹に、告げる。
三月二十一日。
日程が今日に決まって、取り急ぎ、ドラッグストアで購入した暁色のマニキュア。ラメが入っているのと入っていないのとで悩んだけれど、僕なりに感性を信じて選んだ、ラメ入りのマニキュア。
「…………ださ。」
「言ってくれんなよ……。」
「ラメが超絶ださい。」
「これ以上、お兄ちゃんをいじめないで。」
まだ雨宮の件も立ち直れてないんだから。真面目なトーンで言うと、ひのでは肘の内側に顔をうずめて背を向けた。小刻みに震えてやがる。
「今さらかよ。」
声まで震えてやがる。
笑ってやがる。
つーかいじめてた自覚あったのかよ。僕も手を口元において、咳払いをして、笑いをごまかした。
「旭、」
震えが止まってから、ひのでは背を向けたまま小さく言った。
「……モモカちゃんを助けてくれて、ありがとう。」
振り向かず、言った。
「俺は、なんにもしてないよ。」
妹は今、どんな顔をしているのだろう。
派手なメイクの下で、どんな表情をしているのだろう。兄をどう思っているのだろう。
皆口ひので。十六歳。
三月二十一日生まれ。血液型B型。
容姿端麗、成績優秀、素行不良続きで高校中退。来月、就職。
暴虐的で幼稚。激情家で傲慢。最近は、そうでも、ない。
僕は妹を知らないようで、まあまあ知ってる。知っているようで、まだまだ知らない。
もどかしいな。むずかしいな。歯痒い兄の感傷を裏切るように、妹はあっさりと振り向いた。
ヘーゼルのカラコン、ばさばさの睫毛、濃いめのリップ。
隠し切れないどこか軽薄な笑顔。
そうか、こんな顔か。
僕たちは、
けっこう、似ていた。




