84 『会話』
約束の時間はまだ先なのに、どこかふてぶてしくインターホンが鳴った。
ふてぶてしいも何も実家なのだから、本来は必要の無い手間を一つ挟んだと考えれば、彼女なりに弁えた行動なのかもしれない。その礼儀を賞して玄関まで出迎えると、一瞬にして考えは覆った。
数秒前までの賞賛を返しやがれ。僕は無言で妹に訴える。
「……なんで荷物取りに来たのに増やしてんだよ、」
「うるさい。」
妹は両手にスーパーの袋をぶら下げていた。
単に開けるのが面倒だっただけかよ。てかなんだよ、その袋。手土産? 野菜と……卵もあるな。生鮮の土産とかやっぱわかんねーわ、こいつ。
物言いたげに目を据わらせる僕へ、妹はただ一言「寒い」と、やはりふてぶてしく発して、図々しく上がりこんだ。
いや、だから実家だからいいんだけど、別に。僕は少々不満げに、乱雑に脱ぎ捨てられたブーツを揃えた。スウェード生地のつま先に溶けた雪がとどまって、きらきらしている。
もう三月も終わるのに東京には今日、なごりの雪が降った。久々の最高気温一桁は、妹が不機嫌を溢してしまうくらい、たしかに寒い。
どうして今日に限って降るもんかな。
無念か感慨か、複雑な溜め息を一つ落としたところで、リビングへと踵を返した。
両親の離婚が成立してまもなく一ヶ月。裁判も慰謝料も無い、比較的円満な(それが相応しい表現かはさておき)離婚の末、妹の親権は父が、そして兄の親権は母がそれぞれ得ることとなった。
いつかの宣言どおり父と暮らすことになった妹は、ここしばらくのごたごたや、後始末を済ませた最後の仕上げのように、本日、実家の私物を引き取りに来たのである。
そう。荷物の回収に来たのだ。それなのにどうして、
「で、なんだよ? この袋。」
話が重複してしまうが、なぜ回収しに来たのに物を増やしているんだ。この妹は。テーブルに置かれた中身いっぱいの買い物袋に視線を落としながら、僕は再度妹に問いかけた。
「昼飯。」
ひるめし。平然と簡単な答えが返ってくる。
「は?」
「おまえが、ついでに昼にしようって言ったんだろ。」
いや、うん、言ったけど。……え?
スーパーのロゴが印字されたビニールから、卵や野菜が透けて見える。……え? 昼飯って、そういう? え?
瞬時にありえない仮説が浮かぶ。いやいやまさか……と、自らの仮説を否定する僕の傍らで、妹はがさごそと袋を漁り、ごぼうと人参を手に取った。
「作る。」
畳み掛けるように仮説を実現にしてしまう。はあ……としか言えなかった。
いやいや、外食って意味だったんだけど。とか、もしくは出前のつもりだったんだけど。とか、どういう風の吹き回しだよ。とか、そもそもおまえ料理できんの? とか、色々突っ込みたい精神は満載だったけれど、はあ、としか言えなかった。
ひのでの爪が、料理に適した長さに切り揃えられていたせいかもしれない。
ある種の諦めのごとく、僕も一緒に袋を漁り始めた。
胡麻油でにんにくと生姜を炒め、香り立ったところで豚肉とささがきごぼうを投入し、粉状出汁と塩をふる。豚汁を作ると言っていたが、なんだか面白い手順だな。米を研ぎながら横目で妹を観察した。
料理をする妹という珍しい生き物が、見慣れない段取りで作業を進めている。
「父さんにも作ってんの?」
「たまに。」
「なに作ってんの?」
「色々。」
「てかおまえ、料理できんのな。」
「ネット見れば充分。」
手と口が、作業と会話が、同じ調子で進む。どちらがどちらの邪魔をするでもなく、どちらかがやたら盛り上がるでもなく、殺伐でも和気藹々でもなく、進む。
「髪、伸びたな。」
「のばしてる。」
「爪、切ったんだな。……って、よく見たら色付いてんじゃん。」
「ジェルだから問題ない。」
「なんだそれ。」
僕のほうを向かない妹をひたすら観察した。
包丁を使う上で邪魔にならない程度のミディアムヘアが、両耳にかき上げられている。髪色は、以前より幾分濃くなっていて銀よりも灰色に近い。露出した耳には飾り気の無い樹脂ピアスが二つほど装着されているだけで、残りの穴は放置されている。
何が「問題ない」のかよくわからない爪は、短いながらも艶のある薄ピンクに仕上がっていて、
…………そして、
少し視線をずらした手の甲には……────
「今日、あいつは?」
視線が移動しきる前に、ひのでは問いかけてきた。
本日初となる妹からの質問に、僕は一瞬だけ間を置く。
「保護司さんとの面会日。」
やがて、できるだけさっぱりと答えた。
「おまえは? 次、いつ?」
「来週。」
妹の返答もずいぶんと淡白だった。それが意図的なのか自然体なのかは、判らないけれど。
今しがた観察し損ねた妹の手の甲を、今度こそじっと見た。
乾いてこそいるが、当時の凄惨さを物語る傷痕が、新しい皮膚に覆われてくっきりと残っている。
難なく調理を進める手元と軽やかに動く指に、安堵の息をついてから、冷蔵庫を開いた。
百香の事件からもうすぐ半年。
知らぬ間に交わされた星史とひのでの談合により、二人は家庭裁判所の審判において、保護観察処分を受ける事となった。
あの事件から一晩明けて目覚めた僕は、意識が鮮明になってゆくのと同時進行で、いろんな大人たちにあれこれ聴かれた。親だったり、警察だったり、いわゆる聴取だったのだろう。大人たちの態度は時に物々しく、時に不自然なほど穏やかで、全体的に僕を腫れ物扱いしているようだった。
その中で生じた矛盾や食い違いを、星史とひので、そして雨宮による口裏合わせだと察するのは容易かった。
そして僕は、それに従順した。
『はい。間違いありません』『妹が友人を退学に追いやりました』『友人はそれを恨んでいました』『それが発端で言い争いになりました』『言い争いは暴力沙汰に発展しました』
『僕と幼馴染が止めに入り、巻き込まれました』
子供にも理解できるくらい噛み砕いた嘘の証言を、何度も、何度も、大人たちに繰り返した。
彼らの仕立てた事実無根に加担して、星史とひのでに罪をかぶせ、雨宮と協力して、百香を、庇った。
「材料、余る?」
冷蔵庫の中を指して、僕はひのでに聞いた。
「長葱以外は、もう使わない。」
思いのほか丁寧な返答がもらえた。
「じゃあ俺も一品作ろうかな。」
ごぼうを取り出して意気込む。適当に引っ張り出したアルミホイルをぐしゃぐしゃにして、擦り当てながら皮を剥く。
「……なんだよ、そのやり方、」
とたんに手を止めた妹が、据わらせた目で僕の手元を見ていた。
「ん? ああ。こうすると簡単に剥けるんだよ。ごぼうってさ、皮のあたりに一番風味も栄養もあるから、無駄にならないって教えてもらっ……」
「早く言えよ、それ。」
「え……あ……悪い。」
妹の理不尽さは相変わらずだと感じつつも、まだまだ反射的に謝ってしまった。
以前に比べ多少は丸くなったとはいえ、未だに棘を残す妹を疎ましく感じるより、案じた。そんな態度で、保護司との面会大丈夫なのかよ……。うまくやれば、二年もかからなくて済むかもしれないのに。
おまえのそれが単なる幼稚って捉えられるのは、俺が兄だから、なんだからな。
説教の一つもかましてやりたいところだったけれど、今日という日に免じて、目を瞑った。
本人たちを含むとはいえ、計四人もの重傷者を出した暴力沙汰が、保護観察で済んだのも、彼らの計画通りだった。
まず、星史とひのでの『喧嘩』に関しての刑罰は事実上、無しである。
双方の供述から充分な反省が見受けられ、互いに訴える意思もこれ以上争う姿勢も無かったため、いわゆる喧嘩両成敗で事なきを得たのだ。
しかし、僕と百香が『負傷』した件については、いくら巻き込まれたとはいえそうはいかなかった。
僕らの証言により、双方の家族も納得した上でどうか穏便に……と、話は進んだものの限界はあり、形ばかりの示談と保護観察処分は下ってしまったのである。
事件隠蔽に加担しておいて、どうか穏便に……なんて、相変わらずどうしようもない奴だ、僕は。
星史も、ひのでも、そして雨宮も、僕らを……僕と百香を、これからの僕らを、守ってくれた。
僕と、百香を。
百香……そう。百香は、あのあと……────
「いただきます。」
向かい合い一緒に手を合わせながら、僕だけが言った。
テーブルには妹手製の豚汁と、鶏の塩だれ焼きと、卵焼き、ついでに僕の作った筑前煮が二人分ずつ並ぶ。最初の一口に豚汁を選んだ。
「うまいじゃん。」
「ネット。」
謙遜なのか自慢なのかよく判らない返事に笑う。僕の一口目が済んでから、ひのでも筑前煮に箸をつけた。
「……ちゃんと筑前煮だ。」
褒めているのか皮肉なのか、これもまた判らない。一応口には合っているみたいだ。
「まあな。今んとこ、唯一再現できる師匠の味。」
少々得意気に目を細めつつ食事を続けた。
「しごと……うまくいってるんだな。」
妹は箸を口元に置いたまま、呟いた。
「はは。大変だけどな。まー楽しい。」
「私も、来月から働く。」
「まじで。なにすんの?」
「いつもの美容院。」
「あー、サロモの? え? 美容師なんの?」
妹は、ちいさく首を振った。
「雑用しながら、ネイリストの資格とる。あそこ今度、ネイルも併設するから。」
妹の報告に胸を撫で下ろすあたり、僕もひのでも、そして兄妹自体も、進歩していると実感できた。以前の僕が、以前の妹に、「働く」なんて聞かされていたら、きっと身体意識全機能停止の末、各所に説得を試みていただろうから。
ひのではこの半年で、だいぶ角が取れた。
僕への態度や愛想はまだまだ怪しいけれど、内と外をそれなりに弁え、表と裏を使い分けるようになってきた。
此度の就職(と言ってもまだバイトレベルなのだろうけど)も、常連兼サロンモデルとして通っている店側からの声かけらしい。
彼女の見栄えと自前のネイルゆえのオファーならまだ頷けもするが、そこに性格人柄が入るとなれば話が別……と、以前なら眉をひそめていたと思う。
しかし今のひのでであれば、経験さえ積めば接客もなんとかなるだろう。
というより、店側もそう考えたからこその、オファーだったのかもしれない。
「おまえ爪いじるの得意だもんな。よかったじゃん。」
「うん。得意。」
「モデルのバイトも続けんの?」
「続ける。」
「なら一石二鳥だな。」
「うん。」
思わぬ近況報告と朗報に、会話も箸もすいすい動く。
……あ。鶏焼き、うまい。塩味だけどみりんも入ってるか? 最近自分も料理をかじるようになったせいか、味付けだの焼き加減だの、これまで気にも留めなかった部分に目が行くようになった。
「……それに、近く、なんだ。」
会話の続きが、えらく唐突に感じた。
妹は唐突のつもりではないのだろうけれど。まだこういうあたり、接客業に就くなら頑張らないとだな、こいつは。指摘を胸に秘めつつ、僕は会話を繋げた。
「近くって、何が?」
幼子に接するように、できるだけおだやかに、きいてやる。
「モモカの、学校。」
取り繕っていた微笑みが、音も無く、やんだ。




