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最愛なる猛毒、致死量の慈愛。  作者: 悦司ぎぐ
【第十四章】 第二の乙女
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81  『狂愛』




 何が少女たちを駆り立てたのか。

 何が少女たちの琴線に触れたのか。



 何故“彼女”は、少女たちへ、甘く、浸み込んでしまったのか。



 彼女が犯した、最愛の罪。



 最愛への執着、

 独占、主張、理想、美学、証明、庇護、



 選択。




 あるいは


 彼女こそ 侵されていたのか




 だとすれば


 きっとそれは、彼女と、少女たちにとっての、




 最愛、なる────────











 その存在を忘れていたわけじゃない。むしろ脅威だと、幾度となく思い知ってきたつもりだ。

 名塚月乃の爪痕であり、残り香。

 彼女がこの世に産み遺した『信者』たちは、世間を騒がせ、時代を超えて僕らの日常にも蔓延った。その魔の手は星史にも及び、ついには間接的に、彼を追放する決定打ともなった。



「名塚月乃になるの。」



 かつて、彼女を模範とした少女たちも、それを目的としたのだろうか。

 真意なんて推し量れるものか。今、僕に見えているのは、桂木(かつらぎ)百香(ももか)という幼馴染が、名塚(なづか)月乃(つきの)という殺人犯への心酔を口にしている、事実だけだ。


「百香……おまえも、まさか、」


 『信者』……に?


 震える問いに百香の恍惚がやむ。瞳の艶を消して澱んだ無表情を向けてくる。


「他の信者(奴ら)と一緒にしないで。」


 ぎりぎりの空間を保っていたナイフが喉仏にふれた。


「……百香は誰よりも、名塚月乃を理解しているの。思想も、苦悩も、孤独も、愛情も……誰よりも、名塚月乃に近づいているの。手段を真似るだけなんて、そんな、浅はかじゃないもん。」


 「ないもん」なんて、耳に馴染みきったはずの語尾が、ぜんぜん知らない声となって冷淡に響く。

 ……嫌だ。痛覚とか、恐怖とか、驚愕とか、絶望とか、身体じゅうを満たすものは計り知れないのに、絞り出した感情はそれしかない。


「そんなの……いやだ、」

 唯一の感情が勝手に口からこぼれる。


「俺は、おまえに……名塚月乃になんて、なってほしくない。」


 こんな状況下でもまだ、乞う。諦めきれず縋りつく。変わりゆく桂木百香を認められない。


「なんで……そんなの、憧れるんだよ? ……あの誤投事件、も、おまえの仕組んだ事……ってわけ、なん……だろ? なんで、わざわざ、あんな……思いまで、して……名塚、月乃に、なんて……」


 名塚月乃へ近づく彼女を認めたくない。



「あは、あれねー、」


 命からがらに口を動かすだけの僕と反し、百香は軽やかに喋る。いつもどおり、えくぼを見せて。

 再び恍惚が宿ると同時に、首に微かな痛みが走った。視線の届かない喉下にはきっと、刃先が触れただけの傷がついている。


「最っ高だったよ。クラスでのあの視線。」


 休む間もなく、百香の真意と事の真相が胸をえぐる。


「みんな、みーんな百香と名塚月乃の関係を疑わないんだもん。あのまま娘ってことにされてても、悪くなかったんだけどねー。まー実際嘘だし無理だけど。」


 僕も、星史も、雨宮も、踊らされていたんだ。

 彼女の企てた筋書きに。


 鋭利な感触が痛覚を残して離れる。百香はナイフを、首から胸元へとんっと置き換えた。衣服すら傷つけない力加減は、無遠慮な猟奇を引き立たせ、絶望を一切薄めやしない。

 血なまぐさい手のひらがまた、頬を撫でる。


「それに、再確認もできちゃったし。」


 再……確認?



「あのときだって、旭は百香を頼ってくれたよね? 百香に言われたまま、従ってくれたよね?」



 ……。

 …………ああ。そのとおりだ。


 あの日、百香に疑惑がかけられた日、僕は言われるがままに彼女を生贄にした。命じられるがままに保身に走った。すべてが自分の意思なのだと、決断なんだと言い聞かせて、黙って、絶望して、従った。

 ……どうしていつもこうなんだ、僕は。

 答えを与えられて、望まない結果が出てから……ようやく気づくんだ。



 百香を、名塚月乃に近づけてしまったのは、


 “第二の名塚月乃”に加担したのは、



 ────僕だ。





「安心して、旭。」



 本物のでくのぼうに、彼女はやさしく言う。



「旭は、それでいいの。このままでいいの。」



 麻酔薬のような母性で、麻痺させる。



 旭のことは百香が守ってあげる

 百香よりお勉強ができなくて

 百香よりお友達もいなくて

 人殺しの家族で

 ママから離れられない妹にも勝てない

 可哀想な可哀想な可哀想な旭を

 百香は絶対助けてあげるの



 ……出来損ないのままでいいのだと、慈しむ。



「百香だけはずっと味方でいてあげる。」



 心地良く息の根を止めてくる劇薬に、呼吸を忘れてしまう。もしかしたらこのまま、鼓動も忘れてしまうかもしれない。何を見ていて、何に触れて、何を嗅いで、何を考えているのかさえ、わからなくなってしまうかも、しれない。


 気づかないまま、死ぬことさえ、できそうだ。


 気づかなくていいなら、わからないままなら、

 それも……いいかもしれない。



「百香はね、名塚月乃を継いで、誰にも引き裂けない愛をまっとうするの。」



 幼いころから聞きなれた無邪気な声が、甘くしみこむ……






「────同じだろ。」




 身体の芯か、骨の髄か、


 僕の、触れてはいけない最深部に届く手前で、透明色の声が甘美を塞き止めた。


 百香の無邪気な声が、すうっと僕から抜けてゆく。

 身体が自由を取り戻す。錆びれた関節が軽くなる。

 振り向いた視線の先で、脚を血まみれにした星史が、座り込んだまま強がった笑みを浮かべていた。


「結局てめえも、あのイカれた女に影響された量産型メンヘラの一人じゃねーか。偉そうに思想だの愛だの、クソぬかしてんじゃねえよ。」


 挑発的に百香を煽ると、治まりやしない痛みと呼吸を絶え絶えに、「気に入らねえ……本当、気に入らねえ……」と、呟きを挟む。

 三度目の「気に入らねえ」だけ、溜め息まじりにうな垂れて落とす。そしておもむろに顔をあげた。


「殺るなら俺にしろよ。そこまでナヅカツキノナヅカツキノほざいてんなら、実の息子を殺したほうが箔がつくだろ。」


 力めない足腰で不安定に立ち上がる。さして距離のない僕のほうへ、まともに縮まらない一歩を踏み込む。

 彼の行動に百香はうろたえる素振りも見せず、表情を平らに、声を太くした。


「自惚れんな。名塚月乃の成り損ないが。」

 冷めた舌を打つ。


「あんたみたいな欠陥品を産んじゃったのが唯一の汚点だってわかんない? 欠陥品(あんた)壊した()()で箔なんてつくかよ、カスが。」


 僕の頬を這っていた手のひらが離れてすぐ、全身に体温が纏わりついた。胸にナイフを突きたてたまま、彼女は僕になまめかしく密着し、抱きつく。


「いい? 百香はあんたから旭を救ってあげるの。助けてあげるの。百香だけの旭を取り戻すの。手段の対象(方法)が、旭になるかあんたになるか、それだけの違い。欠陥品にはわかんないかなあ?」


 ナイフと同じ位置で、顔半分をうずめながら凄む声が、僕の内部で反響して心音を曖昧にする。甘く侵略する不協和音に蝕まれながら、僕の目は、少しずつ接近してくる星史を映した。

 呼吸が乱れている。苦痛に時折顔が歪む。冷や汗が輪郭をつたう。真っ赤な脚を引き摺っている。それでも、前へ、前へ、進む。

 殺されようと、近づいてくる。


「死は最高の演出なの。誰もが百香の隣に旭を置く。旭の存在に百香は不可欠になる。旭は、百香だけの物になるんだから。」



 『……もう、やめてくれ、』



 僕はたしかに言った。けれどその音の無い声は、星史にも百香にも、そして僕自身にも届かない。麻痺した唇が微かに震えるだけの無様な懇願を、死へ近づこうとする彼に向けた。


 澄んだ瞳がまっすぐ僕を見ている。口角が、いたずらに上を向いた。



 眩むほどに美しい透明感が、あの女の姿となって重なる。




「……旭くん、」


   ────“……あさひくん、”




「おれは、きみを……」


 ────“わたしは、選んだの”





 ……皮肉すぎるだろ、こんなの。


 百香をこんなにしやがったのも、

 星史をこんな目に遭わせやがったのも、


 僕に優先順位を迫るのも、


 おまえだなんて……────





 ────……名塚(なづか)月乃(つきの)……!





 百香と星史の対峙する位置、距離にして歩幅一歩分、在るか無いか。


 僕は臨戦態勢に入りかけた百香を力強く抱き寄せ、命懸けでここまで辿り着いた星史を、突き飛ばした。


 星史との距離が無常に広がる。

 百香とは更に密着する。

 突き飛ばされて倒れこんだ星史も、抱きしめ返され顔を仰ぐ百香も、愕然と僕を見た。



「俺を殺してくれ、百香(ももか)。」



 二人の視線が集まってから、僕は百香に告げた。

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