79 『首魁』
日が沈んだ闇夜の中、灯かりの点らない玄関先で扉を背に、百香は蹲っていた。
エンジン音に気づき、泣きそうな顔をあげて僕らへ駆け寄ってくる。
「あさひっ……ひのでが、家の中っ……糸子ちゃん、つれて……電話、でてくれなくて………ごめんなさい……百香、買い物、出てて……」
よほど動揺しているのか支離滅裂な説明を並べる。断片的ではあるがおおよそを察した僕は、彼女の肩を抱いて落ち着かせてから、自宅の鍵を取り出した。
「待って。」
鍵を挿す間際で星史が呼び止める。
ゆっくりとまばたきを一つ挟み、視線を百香に向けた。
「桂木さん……だよね? きみは、残ったほうがいいんじゃない?」
危険なんでしょ? 妹さん。と、冷静な提案を淡々と告げる。
露骨に冷たい言いぐさをしているが、彼が彼女をいけ好かないという事実は、おそらく今に限っては無関係なのだろう。
星史が危機を理由に百香の同行に難色を示すのも無理はない。なにせ彼は、ひのでの百香に対する心酔ぶりを知らないんだ。実状はこんなにも最終兵器といえる存在、他にいないというのに。
その旨を伝えようとしたところ、百香が間髪いれずに首を振った。
「百香も行く。……ひので、百香の話なら、聞いてくれるかもしれないし。」
両手でぐっと拳を作り、ちいさく頷く。その様子を一瞥して以降、反論しない星史を確認してから、僕は今度こそ鍵を挿した。
玄関も廊下も暗い。突き当たりのリビングだけから、灯かりが洩れていた。
妹は、いた。
雨宮と、一緒に。
「──雨宮っ……!」
「糸子ちゃんっ!」
僕と百香はほぼ同時に彼女を呼んだ。咄嗟に、反射的に叫んだ。
リビングに足を踏み入れ、真っ先に目に飛び込んできたのは、まさに人質の雨宮糸子だった。
腕ごと上半身を縛り上げられ、両足首も拘束され、口枷としてタオルを猿ぐつわにされている。そんな無抵抗でしかない雨宮の長い三つ編みを、ひのでは片手で鷲掴みにしていた。
雨宮は険しい表情で声も満足に出せないまま、身をうごめかせて抗いを見せるが、結局は無駄な抵抗。ひのでは三つ編みの付け根に爪をたて、えぐるように力を込める。痛みによる非道な抑制が、彼女の表情を引き攣らせ、更に自由を奪った。
まさに非人道的な光景は、それだけでとどまらない。
「なんの真似だ……ひので、」
ひのでの、もう片方の手には、
「ひので……!」
包丁が握られていた。
雨宮を人質に、包丁を凶器に、壁側近くまで距離をとって、妹は僕らと対峙する。
「ひのでッ!!」
「動くな。」
声を荒げる僕とは正反対に、妹は淡々と口を開く。彼女の傍らで拘束された雨宮が、無慈悲な仕打ちに抗いながら、必死に何かをうったえている。
ひのでは包丁を握ったまま腕を伸ばし、指をさす要領で、刃先を星史へと向けた。
「旭。……アメミヤイトコは、その男と交換だ。」
僕と雨宮の目が剥く。そして同時に彼を見る。
「雨宮と……星史、を……?」
星史は動揺こそ見せないものの、明らかな嫌悪を懐いた静かな表情で、ひのでを見据えていた。
雨宮が鬼気迫った表情で首を振る。条件をのんではいけないと、僕に、星史に懇願してくる。
「……ッ」
彼女と彼の狭間で、僕は悟っていた。
悟ってしまった。
課せられた決断を。……選択を。
意図しているのか、単なる偶然か。
妹が僕に強いている。
雨宮と星史、どちらを選ぶかを。
「……あーあ、見縊られたもんだね。」
隣から、この張り詰めた空気に相応しくない軽薄な声がした。
「心外だよ、ほんと。」
星史が、あざ笑う口調で言い捨てた。
「交換なんてさあ、俺とその肥溜めブスが、同等の価値だと思ってんの?」
物怖じもせず飄々とした態度で、ひのでに歩み寄る。
二、三歩近づいたあたりで、ひのでは星史に向けていた刃先を、雨宮に向き替えた。
その場で立ち止まった星史が、手錠を掛けさせるようなジェスチャーで両腕を差し出しつつ、尚も挑発的に嘲笑う。
「さっさとそいつを解放しなよ。お望みどおり破格の交換だ。充分お釣りが出るくらいじゃん?」
ひのでの無表情からは次の行動がまるで読めない。しかし予測している場合じゃない。
「だめだ星史ッ!」
僕は彼を制止する声をあげた。
ところが星史は手のひらを僕に向けて、制止し返してくる。
予期せぬ反応に戸惑い、言葉を失った僕を確認した星史は、再び飄々と、ひのでと対峙した。
「……と、その前に、」
あろうことか、そのままひのでに向けて『会話』を始める。
「はじめまして、皆口ひのでさん。ちゃんと話すのは初めてだね。」
唐突に始まった『会話』に、ひのでの眉がぴくりと動く。
「その節はどうも世話になったね。……ああ、勘違いしないでよ? 別に、恨み節を言うつもりなんてないんだ。ただね、少し、答え合わせさせてくれないかな?」
……答え合わせ?
どういうつもりなんだ。何を言っているんだ。
僕は星史の不可解な言動に固唾を呑んで立ち竦む。
「単刀直入にきくよ。今回の騒動の発端になった、きみへの襲撃事件。あれ、自作自演だよね?」
途端に場の空気が変わる。
形を変えて、張り詰める。
星史はすいすいと言葉滑らかに続けた。
「おかしいと思ったんだよ。擦れ違いさまの急襲とはいえ、ずいぶん無防備な箇所刺されているし、何より、あの場で刺されるだけで終わり……なんてのも不自然すぎる。動けなくなったきみを拉致したり、もっとひどい暴行を受けていたって、不思議じゃなかったのにね。」
どういう……ことだ?
……おい、ひので、
なんで……なんで黙ってんだよ
「それに、名塚月乃の件で蔓延っていた記者……きっと、あれ自体は本物なんだろうけど、それをリークしたのも、もちろんきみだよね? 「あの学校に名塚月乃の関係者がいる」って。」
なんで……否定……しないんだよ
「それだけじゃない。桂木さんの誤投写真の件、あれも不自然な点がたくさんあるんだ。……いいや、今指摘したいのは、そこじゃない。」
星史は深いまばたきの後、目の色を変えた。
「俺はね、この自作自演こそが不自然だと見ている。」
僕にはわからなかった。
彼が、何を言っているのか。
彼が推し量った、見透かした、何かを、
「きみの手がけた自作自演が、自発的だとは思えないんだ。この騒動の発案者……真の元凶は、きみじゃない。」
真実、を。
「きみに、自作自演を、演じさせたのは――――――」
星史が突然、『会話』を止めて振り向く。
今までの余裕も嘲笑も嘘みたいに、震撼した顔で僕を見る。
「────!? 旭くんッ!!!」
視線があった刹那に叫び声をあげ、飛びついてきた。
ごどん、 と、鈍い音がした。
何が起きたのかわからなかった。
何かが起きたのだと気づいたときには、
「……せい……じ……?」
星史が庇うように僕に覆いかぶさっていた。
「ぁぐッ……はっ……」
僕の上で、声じゃない声を吐く星史と、わけもわからず倒れる僕の横で、なぜか不自然に椅子が転がっている。
いつも、僕とひのでが食事のときに使う、木製の椅子……
……まさか、今しがたの、鈍い音、は……
察すると同時に、星史の背後でゆらりと人影がそびえた。
もう一脚、別の椅子を振りかざし、それは無慈悲に星史の背面を殴打する。
「がはぁッ!」
嘔吐みたいな悲鳴をあげてすぐ、星史は僕から退かされるように蹴り飛ばされた。
悶える彼が、ボロ雑巾のように床で這い蹲る。
「……あーあ。もうちょっとだったのに。」
一連の流れに、目も、理解も、追いつかない。
「ここで旭も人質に……ってのも、悪くなかったんだけどなあ……ま、いっか。」
星史を甚振った、人影の正体に、困惑する。
「てゆうか、男のくせにべらべらべらべらよく喋るなあ、」
その、無邪気な声を、
あどけないしぐさを、
屈託のない笑顔を、
麻酔薬のような、彼女を、僕は、知っている
もう はるか昔、から
虫の息となった星史に、彼女は小さなステップを踏むような足どりで、あざとく、女の子らしく、歩み寄った。
僕の知る、屈託のない笑顔で星史を見おろす。
そして容赦なく、頭を踏みつけた。
「ほんっと、うるせーんだよ。肥溜め野郎。」
無邪気な声で、
いたずらに、あどけなく、容赦なく踏み躙りながら、
桂木百香は、えくぼを見せた。




